第64話 時待ち 1
グラジナと数名の衛兵を伴なって正妃の部屋に来たマイスは、そこに広がる光景に、立ち竦んだ。
部屋中に引きずり出された豪奢な布地のドレスと、その真ん中に立つ男。その男の胸に、ゼルランディアは顔を埋めている。
漆黒の髪に鮮やかな青い目の男。
紫の縁取りのある白いコートは僅かに光を纏い、灰青に光る不思議な金属の鉤爪のように指先の尖った手甲ガントレットもまた、淡く光を放っている。
おとぎ話の中から出てきたような出で立ちすらも、異様と思えないほど、整った彼の顔。
マイスは繊細な人形のような自分の顔に、今まで多少自信があった。周囲の誰よりも自分が一番美しいと信じていたし、誰もがそう賞賛してくれた。
けれど、そんなものは全くの驕りだったのだと、目の前の男を見てマイスは思わずにはいられない。
「おや、君がマイス坊やか。私の妻を返してもらおう」
意外にも優しい声が男の口から漏れて、マイスは彼を睨み付けた。
「ゼルランディアは、私の正妃だ」
震える声で主張するマイスに、男は僅かに首を傾げる。
「シノ・ゼルランディアは、私、ニレ・ルヴィウス・アッセンド・リシク・イリウの妻だったと記憶しているんだが。それとも……私と取り合う覚悟がおありかな、坊やは?」
長ったらしい名前を告げて威嚇してくる男、ルヴィウスに、マイスは詰め寄ろうと足を出しかけるが、グラジナと衛兵に止められた。
「ここは、キエラザイト帝国……しかも、帝都の王城。アスティール・マイス・キエラザイト陛下の領域です。勝手なことは許されませんよ、魔法使いウィザード」
グラジナの言葉に、ルヴィウスは目を細める。
「人間ヒューの規則に魔法使いウィザードを従わせようっていうのが、間違いだ。しかしながら、私は行儀のいい方だから、お茶とお菓子の用意をしてくれれば、ティータイムに招かれるくらいのことはしてあげよう」
完璧なまでに美しい笑顔だった。マイスの笑顔のような、甘えも、弱さも、浅はかさも、幼さもない。その仕草や表情だけで、彼がどんな風にゼルランディアを愛し、大事にしたかが伝わってきて、マイスは降参するしかなかった。
「お茶の用意をさせてくれ……衛兵は下がれ」
「陛下!?魔法使いの口車に乗ってはなりません」
諌める口調のグラジナに、マイスは緩々と首を振る。
「この魔法使いに勝てる者が、この国にいるのか?」
その問いかけに、グラジナは細い顎を反らした。
「サウスが戻って参ります。城壁を破壊した魔法使いを捕らえて」
お前の手駒は封じたのだと暗に示すグラジナに、ルヴィウスは視線すらも向けない。ただ、マイスに向かって柔らかく微笑んだ。
「では、彼らの分もお茶とお菓子を用意するといい。ゼラ、お茶でも飲んで落ち着こうか」
優しく髪を撫でられて、ゼルランディアは恐る恐るルヴィウスの胸から顔を放し、まだ涙の滲む目でルヴィウスを見上げる。ルヴィウスはもう一度軽くゼルランディアを抱き締めてから、椅子に座らせ、寝台の方に向かった。
寝台の上では、おくるみに包まれた赤ん坊が、うごうごと手足を動かしている。
手甲ガントレットの手首の金具を歯で外し、指先から手首までの部分を持ち上げて腕の方に倒して、手袋も指先を噛んで外し、素手でそっと赤ん坊を抱き上げるルヴィウス。俯いた白い頬にかかる黒髪の間から、慈愛溢れる笑顔が見えて、マイスは息を飲んだ。
「ゼラに似ているね。可愛い……いい子だ。しばらく、一緒にいようか?」
語りかける声は優しく暖かく、ゼルランディアですらその光景に見惚れる。
「わ、私の、子だ」
震える声で主張するマイスに視線を向けて、ルヴィウスは柔らかな笑顔で問いかけた。
「そうだな。だが、誰の子でも、子どもは子ども。愛しむべきものだろう?」
言ってからルヴィウスは赤ん坊を抱くのと反対の手を、そっとマイスに向ける。手甲ガントレットが半端に付けられたその手を、マイスは不審そうに見つめた。
「おいで」
抗いがたい甘さと優しさを湛えた声が、マイスを誘う。
皇帝であり、一児の父親であり、たくさんの妃たちの夫でもあるマイス。その強固な誇りプライドが、実は同時に劣等感コンプレックスでもあったこと……そんなことすら看破した挙句に、そんな弱さと甘えと驕りを全て受容するその笑顔と声音に、マイスは戦慄した。
力強さなどあまり感じさせない、白い手がマイスを招く。
けれどその柔らかさの中にこそ、強さがあるのだとマイスは認めずにはいられなかった。
ルヴィウスの青い目は、海のように荒々しく粗野ではなく、森の奥にひっそりとある泉のように静かで澄んでいる。
ふらりと足を踏み出すマイスを止めようと伸ばしたグラジナの手は、マイス自身によって振り払われた。
歩み寄ったマイスの頭を、ルヴィウスは軽く抱き締める。マイスの額がルヴィウスの白いコートの肩に当たった瞬間、マイスのアイスブルーの目から涙が零れていた。
「いい子だ」
ルヴィウスの片手がマイスの白金の髪を撫でる。
キエラザイト帝国皇帝と正妃だった両親が死んだ夜。皇帝になった日からずっと、呪詛と暗殺に怯え、明日の朝日を拝むことだけを考えて生きてきた。キエラザイト帝国皇帝として、帝国の民を守るために、ただ生きながらえてきた。
自分のしていることが正しいことなのか、間違っていることなのか、誰も教えてはくれない。誰も心からの言葉などかけてくれない。
虚構と闇の中、ただ幼馴染みのグラジナと、父親代わりのユナ・レンセに縋り、必死で生きてきた日々。
それらの日々が音を立てて崩れていくのをマイスは感じていた。
悲しくもないのに、堰を切ったかのように涙が零れる。
けれど、ルヴィウスは泣くマイスを、「皇帝なのだから」とか、「みっともない」とか言いはしなかった。
ただ、その涙を受け止めてくれる。
言葉を紡ぐこともできずただ涙を流すマイスの頭を片手で撫で、もう片方の手で赤ん坊を抱くルヴィウス。
その抱擁に、マイスは自分が許されていることを知った。
「惑わされてはいけません。相手は、魔法使いなのですよ!」
物凄い剣幕で歩み寄るグラジナに、ルヴィウスは青い目を冷たく細める。振り向きもしない腕の中のマイスがすでに、ルヴィウスに完全に心許していることを、グラジナも思い知らずにはいられなかった。
「魔法使いとは言葉を操る者。心なくば魔法は扱えない。心無い言葉で国を操る愚者に、非難される謂れはない」
マイスやゼルランディアやその子どもに向けるのと全く違う、凍える声にグラジナは眉間にくっきりと皺を寄せる。
「何も分からぬくせに、大きな口を叩かないでいただきたいものですね」
「その年になってまで、自分の行動の意味を全て推し量って欲しいだなんて、なんて幼く甘い考え……自分が恥ずかしくないのか?」
嘲笑するルヴィウスに、グラジナは床に着くほどに長い前開きの上着の襟を正し、気を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。
美貌のために年齢を推し量ることもできないが、十代後半に見えるルヴィウス。けれど、その実年齢は外見と比例しないことを肝に銘じておかなければ、魔法使いと交渉することはできない。
「あなたの仲間の魔法使いはお返しします。その代わりに、正妃と皇女を置いて立ち去りなさい」
皇帝も皇女も正妃も全てルヴィウスの手にある今、グラジナが交渉に持ち出せる駒はあまりにも少なかった。
それでも、マイスは自分が守るしかない。頑なに思いつめてグラジナは言葉を続ける。
「他に欲しいものがあるのですか?地位?名誉?」
「魔法使いにそれを持ち出すのは、あまりにも愚かというものではないかな」
ルヴィウスの答えは素っ気無かった。けれど、グラジナは食い下がる。
「皇帝陛下を、開放しなさい。……正妃も、連れて行けば良いでしょう。必要ならば、皇女も」
マイスさえ無事ならば子どももまた望めると、最終ラインまで譲るグラジナに、ルヴィウスは声を上げて笑った。そして、ちらりとゼルランディアに視線を投げる。
「ゼラ、君の産んだ愛しい子どもがいらないと、彼女は言っているよ?」
声をかけられ、カーディガンの袖で涙を拭いていたゼルランディアは、鼻水を啜りながら顔を上げた。
ゼルランディアの黒い目に宿るのは、深い哀れみ。
「どうする、坊や?」
戻るかと問いかけられて、マイスは涙に濡れた頬もそのままに、緩慢な動作でグラジナを振り返った。グラジナは祈るような気持ちでマイスを見つめる。
けれど、マイスは無言のまま、首を左右に振った。
世界が足元から崩れていく。
グラジナは絶望して目を閉じた。
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