第68話 時待ち 5
立ち上がったルヴィウスが自分の方に歩いてくる。ユナ・レンセはしっかりと自分を映している鮮やかな青い目に、ぞっとした。
ルヴィウスは自らの目を使って『魅了』の魔法を発動させる。どれだけ警戒しても、心の隙間にするりと入ってくるようなルヴィウスの魔法。それから逃れる術を、ユナ・レンセは必死に考えた。
ルヴィウスに謝ってしまいたいと、ユナ・レンセの弱い部分が思う。頭を下げ、同情を請えば、ルヴィウスは動いてくれるかもしれない。そうでなくても、その無様な姿を嘲笑って、こき下ろしてくれるかもしれない。
ユナ・レンセに、そんなことができるはずもなかった。
許されたくて今まで生きてきたわけではない。断罪されたくて生きてきたわけではない。どれだけ罵られようと、成し遂げなければならないことがあるから、血だまりの中、自分の内臓を掻き集めてでも生き抜いてきた。
「人間なんて、滅びてもいいだろう?四人の英雄に滅ぼされた巨人だって、滅びたくなかっただろうさ。考えてみろ、自分の足元で無限に増える小さな生き物……それがどれだけ気味の悪いものか」
煙に巻いてしまおうとするルヴィウスの言葉に、ユナ・レンセは首を振る。ルヴィウスはユナ・レンセの目を見据えて続けた。
「滅びるのなら、それが天命さ。そのままにしておけばいい。お前が命を懸ける価値なんてないよ」
あっさりと言って両手を広げ、こっちへ来いと、ルヴィウスが招いてくる。その手の中に堕ちれば、どれ程楽だろうかと考えながらも、それだけはできないとユナ・レンセは自分の思考に歯止めをかけた。
幾度も見た夢の中で、向こう側が透けそうなほど白い魔法使いは囁く。
――全てを任せる。
こうして、呪縛のように背負わされたものはどれだけ重くても、最早、それなしにユナ・レンセは生きられなくなっていた。
『星の舟』に繋ぎとめられ、気の遠くなるような時間をただ生かされているだけのあの白い魔法使いを、解放してやりたい。
そのことに命を懸ける価値があるのかどうか、ユナ・レンセにも分からないが、懸けなければことが成し遂げられないのならば懸けるしかないと思っていた。
「俺は、人間だ。同種を守りたい」
「それが傲慢な考えでないと、お前は信じるのか?人は誰しもいつか死ぬ。この大陸だって、いつかは崩れる。この世界だっていつかは壊れるだろう。その時が来ただけのことと思えばいい」
淡々と述べるルヴィウスの声はどこまでも冷たい。
その冷たさに僅かに怯んで、ユナ・レンセは俯いた。
「私は……もう、あなたがいない世界には生きたくない。誰だってそう思って毎日を生きているはずです。私は……あなたが生きるこの大陸を救いたい」
腕の中で寝息をたてる赤ん坊を見下ろし、ゼルランディアがぽつりと呟いた時、ユナ・レンセは顔を上げるだけの力を得る。
誰しもが、誰かのために無様なまでに必死になって生きているこの世界。
この世界を守りたいと思うことが、そんなにもいけないことなのだろうか。
「俺は、人間だ。同種を守りたいと思うことは、そんなに愚かで浅ましいことなのか?明日も、人の営みが……俺の大事な人の笑い声とか、街角のさざめきとか……そんなものが、明日も、明後日も続いて欲しいと願うことは、許されないことなのか?」
言葉を捜し、途切れ途切れに口にした文章。
最後は懇願のように掠れたその響きが消えた後、ようやくルヴィウスは息をつき、僅かに微笑んで両手を掲げた。
「仕方ない……力を貸してやるか」
緊迫した空気が温く解け、事の成り行きを息を飲んで見守っていたグラジナとマイスがほっと胸を撫で下ろす。グラジナの隣りでアートが欠伸をかみ殺していた。
「まだるっこしいな。底意地が悪い爺さんだ」
「ゼラを利用した相手だ。信頼に足るか見定めるくらいのことは、させてくれ」
低く響くルヴィウスの声に、初めて、ゼルランディアは彼が怒っていたことを知る。
「じゃあ、これから先のことを考えなきゃいけませんよね。どうするんです、『赤剣』は?」
これ以上話が奇妙な方向に行かないように話の進行を促したゼルランディアに、アートが軽く手を上げた。
「俺は?俺じゃ駄目?」
「『赤剣』の発動条件は、使い手に対する信頼と愛情」
「あ、無理」
あっさりと認めるアートに、ユナ・レンセが「酷い!」と悲鳴を上げる。それを無視して、アートは立ち上がってグラジナを見下ろした。
「魔法使いなら誰でもいいんだろ。だったら、適当なのを見繕ってくれよ。短期間であいつに信頼と愛情を持てそうな魔法使い」
「それって、物凄く難しい条件じゃないですか?」
顔を顰めるグラジナに、アートはユナ・レンセを見た。
「案外、魅力ないんだな」
「皆して俺を苛めて、楽しいか?」
嘆息して額に手をやるユナ・レンセ。続いて何か言ってやろうと口を開きかけたアートだが、地を揺るがすような低い鳴き声に気付いて、弾かれたように笑顔になる。
素早く窓際に駆け寄ったアート。窓ガラスの外を青鈍色の翼竜が通り過ぎていった。
「エルグ!」
窓をこじ開けて身を乗り出し、笑顔で手を振るアートだが、こちらの方をちらりと見たエルグヴィドーの表情には全く余裕がない。
「どうした?」
駆け寄ってきたユナ・レンセに背後に立たれて、アートはびくりと体を震わせて素早く身を引いた。その様子に、ユナ・レンセはにやりと笑う。
「そういえば、背中、弱かったっけ?」
「このエロ親父が!」
鼻の頭に皺を寄せたアートだが、エルグヴィドーの竜が帝都の外れの上空で旋回し、そこに主を下ろしたのを見て目を丸くした。
そこはイージャの家がある辺り。
「リィザを、迎えに来たのかな?」
暢気なユナ・レンセの言葉に、アートは片眉を跳ね上げる。
レイサラス家の一員は、一番年の近い兄弟が迎えに行く。
その掟が何故か頭を掠めたが、それならば自分だろうと思ってアートはその不安を打ち消した。
結局、エルグヴィドーとリィザの二人がルヴィウスたちと合流したのは、帝都が夕暮れの赤に染まってからだった。赤い髪に変わったリィザを見て、淡い紫の光沢のある銀の髪の美女の姿に戻っていたアディラリアは、絶句し、眠たげな紫の目に涙を溜めていた。
これ以外に選択肢はなかったのかとリオセリスに呪いの言葉を吐いてから、ユナ・レンセは小さなリィザの肩を両手で掴んで、「絶対に守る」とだけ呟く。その言葉の重みと硬い表情に、リィザは僅かながら後悔した。
「ちょっと、男だけで話があるから」
ルヴィウスがユナ・レンセとエルグヴィドーとマイスと共に正妃の部屋をでた後、グラジナが長椅子から立ち上がり、窓の向こうの暮れていく帝都を見つめる。
「客間を用意させます。しばらくの間、そこでくつろいで下さい」
決戦の日は、帝都から人々が避難した後……五日後にしようとユナ・レンセは行っていた。その期間に、充分に名残を惜しんでおけとルヴィウスは笑っていた。
「アディ、私達、どうなっちゃうんでしょう」
グラジナが部屋から出て行って、ようやく訪れた乳母に赤ん坊を預け、ゼルランディアが呟く。アディラリアが着るには胸辺りの布地の量が圧倒的に足りない、拘束具のような服を脱ぎ、アディラリアは光沢のある青灰色のドレスに着替えていた。シンプルなデザインのそれは、アディラリアの美しい体のラインを引き立てる。
「成り行きに任せるしかないかな」
気楽に言ってから、アディラリアはゼルランディアに歩み寄り、そっとその肩を抱いた。
「ゼラ……二年間、つらかったね。ごめんね、助けにも行けなくて」
優しいアディラリアの言葉に、目頭が熱くなってゼルランディアは慌てて首を振る。
「大丈夫。王様ユナ・レンセは優しかったし……」
それでも、ルヴィウスが生きている可能性が少しでもあった分かっていたら、自分はマイスに身を任せたりなどしなかったと、ゼルランディアはぼんやりと思った。
「ルヴィウスは……ルインは、記憶が封じられてても、一目で君だと分かった。ルインの気持ちは変わらないよ」
そう言われても、ゼルランディアは落ち着かない気持ちをどうしてもおさめられない。
ルヴィウスの死も、その後の復活も、全てが現実味を帯びない。
「とにかく、今夜にでも迫ってみればいいじゃない?」
「それなら、アディもエルグに迫るのね?」
言われてアディラリアは顔を顰めた。
「今更だよ、今更。だって、あれだけ憎まれ口叩いて……エルグ、呆れてるよ。私のこと、嫌いになってるかも」
それこそありえないと思いつつも、そんな風に不安になるアディラリアが可愛くて、ゼルランディアは思わず抱き締める。
「アディ……ごめんなさい」
部屋の隅で小さくなっていたリィザが、いつの間にか近寄ってきて涙声で言うのに、アディラリアはゼルランディアに抱きつかれたまま、黙って両腕を広げた。リィザはおずおずと歩み寄り、ゼルランディア越しに、ぎゅっとアディラリアに抱き締められる。
アディラリアもゼルランディアも、微かに花の匂いがした。
正妃の部屋を出て、マイスに促されるまま客間までやってきて、ルヴィウスとユナ・レンセとエルグヴィドーは余り広くないその部屋に入って扉を閉める。マイスが人払いを命じたので、兵士や侍女も姿を消していた。
「私に、話があるのですね、ルヴィウス」
短く息を吐き、エルグヴィドーが問いかけるのに、ルヴィウスは片手を差し出してみせる。
「髪が邪魔でさ。何か持ってない?」
全然関係のないことを言われても慣れた様子で、エルグヴィドーはコートのポケットを探り、青い蔓草を一本差し出した。アディラリアの体に寄生して傷口を塞いだそれは、受け取ったルヴィウスが自分の黒髪に近付けただけで自然と髪を絡め取り、きっちりと編み上げる。
「君の可愛い妹君を巻き込んで申し訳ないんだけど……君は巨人の間への入り口で、竜を退けた後のゼルランディアを確保して、避難して欲しい。その先へは、私とアートとユナ・レンセとリィザの四人で行く」
「私も行きます」
自分がその人数に入っていないことに不満を申し立てるエルグヴィドーに、ルヴィウスはきっぱりと首を振った。
「入れるのは四人だけだ」
「アディが行くなら、私も行きます」
譲らぬ口調のエルグヴィドーに、ルヴィウスは酷く透明な笑みを浮かべる。
「多分、私とユナ・レンセは戻らない。ただし、リィザとアートは、絶対に私達が責任を持って君の元へ戻す」
「ルヴィウス!」
諌めるようなユナ・レンセの声に、ルヴィウスは苦笑した。
「何を怒る?最初に私を選んだのはお前だろう」
死の狂言の片棒を担ぐ魔法使いとして、ルヴィウスを選んだユナ・レンセ。その時にすでに、共に戦い死ぬ相手と、決めていたのかもしれない。
「い、嫌だ」
震える声で言い、首を振るマイス。ユナ・レンセはその白い両手を握って、静かに告げた。
「俺はもっと昔に死んでいたはずの人間なんだ。使命を果たせば、土に還るしかない」
呪詛で歪められた不自然な命が、それが解けた時にどんな変容を遂げるかは分からない。ルヴィウスの命もまた、作り出された不自然なものに違いなかった。
「それに、巨人は呪詛を使う。人を生きたまま腐らせる呪詛だ。だが、私とユナ・レンセ、そして、アートにはすでに呪詛が刻んであって、新しい呪詛が入り込む隙はない」
ケイラがかけた呪詛が、シャーザーンのかけた呪詛が、ヴィルセリスのかけた呪詛が、皮肉なことに、アートとユナ・レンセとルヴィウス、それぞれを守るのだ。
誰もがそれを承知の上で彼らに呪詛をかけたのかもしれない。
「私たちはきっと、もう戻れない。だが、君の大事な相手は必ず、君の元へ戻す。だから……」
涼やかなルヴィウスの目が、その時初めて必死の色を宿す。その色に、エルグヴィドーは呑まれそうになった。
「俺たちの大事な者たちを、頼む」
――明日も、人の営みが……俺の大事な人の笑い声とか、街角のさざめきとか……そんなものが、明日も、明後日も続いて欲しいと願うことは、許されないことなのか?
ルヴィウスの言葉を次いで出たユナ・レンセの言葉。
それは切なる願いだった。
エルグヴィドーは黙してただ頷くことしかできない。
それを見て、ルヴィウスとユナ・レンセは顔を見合わせ、僅かに笑みを交わした。
避難が進み、人のいなくなる五日間。
ルヴィウスはゼルランディアとミルシェと、エルグヴィドーはアディラリアとリィザと、ユナ・レンセはマイスとグラジナと、慌しく過ごした。
五日目に、マイスとグラジナとミルシェも帝都の外れに移った。
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