救いにはならなくても祈ることしかできない
大阪で地震が発生した時は、疲れて倒れ伏していたので、「そこそこ長い地震だ」くらいにしか思わなかった。こちらでは震度3程度だった。
それが情報を見てみると、大阪では震度6弱を記録していた。一瞬思考が止まった。
カクヨムのこんなスラム街の角にしかないような、こんなエッセイに来られる方はおそらく大丈夫だった方だとは思うけれど、本当に心配になるのはこんなエッセイを読みに来れない方々だ。
こういった事態の時、いつも何かしらを迷う。
迷う必要なんて本来ないはずで、できることをしたいと思えばするべきなのである。
現地の方々の何かしらのお手伝いをするべきだろうし、もし物資が必要になるのなら送る手はずだったり支援団体だったりに寄付するべきで、正直一番必要になるお金なども回せるものなら回すべきなのである。
でもなかなか、そんなこともできない。
今日にもし現地に行ったとしてもそもそも邪魔になるのかもしれないと思ってしまうし、明日も自分の仕事があると考えると、自らの生活を犠牲にしてまで他の人は助けられない。というか、助けるっていう行為に繋がることをできるかもしらないし、普段から人を助けているなんて全然思わない。思えない。
本当になんでもできるんだったら、それこそドラえもんのひみつ道具みたいなアイテムがあってどんなことでもやってしまえるのなら、今のこの瞬間に望まれることを提供してあげるべきなんだ。
地震で家が倒壊したのなら直してあげればいい。
お腹が空いていたり喉が渇いているのなら物資を直接渡してあげればいい。
地震を体験した恐怖に襲われているのなら、言葉をかけてあげたりなんらかの安心が得られるように、様々なことを与えてあげることができればいいと思う。話を聞いてあげるでも、逆に気がまぎれるように何かしらの話をひたすら聞かせることも有効だったら行おう。ただ最近ハマったスプラトゥーンの話や改稿中の物語の話とかになるからつまらないかもしれないけど。
一人になった時、不安が強い時、温もりに触れると安心できるということなら腕くらいは貸せるのかもしれない。ただ手を握ってみるのもホッとするかもしれない。背中を叩いてハグして、大丈夫だと慰める言葉が心に響くのならやろうとも思う。頭を撫でてなにかしらの安らぎが得られるのなら、出来る限り優しい手つきをもって何度だって撫でよう。基本気には人は最終的には一人で生きていくものだとしても、助け合うことが必要な時くらいは何かしらの力を貸そう。人と人は支え合っているから「人」っていう漢字なんだという嘘くさい注釈には唾を吐きかけたいくらい嫌いなのだけど、支えが絶対的に必要な、気遣いがなんらかのいい効果を生むかもしれない事態というのは確かにあって、どこかの偽善者が考えたような甘言にあっさりと惑わされようと思う。
で、こんなことを言っている自分は、さぞかしステキなことを現在はしているんだろうと、そう思う。
のだけど、現状は何もしていないのである。
何もには語弊がある。正確には当直明けで昼過ぎに帰ってきてリカーマウンテンで買ってきたギネス黒ビールとドイツビールを飲みながらテングビーフジャーキーをツマミにニコニコ動画でMUGENという格ゲーの動画を見て、そんなことをしながらポケモンウルトラサンのバトルツリースーパーダブルバトルでポイントを稼いでいた。そうしてたら深夜三時まで診察があったことで疲れてぶっ倒れるように眠ると夜の七時過ぎで、いつもと変わらぬ食卓で家族と夕飯を食べたのである。
ヒロミが今日も家をリフォームしていて、完全に芸人の顔じゃなくて職人の顔になってきたなあ、そんな感想を抱きながら酢豚でご飯を食らっていたのである。
で、このエッセイを書いている。これだけ偉そうなことをのたまっておきながらも、地震があったことに思いをはせた時間は一時間もない。
もしこれが、身近で起きていたことならばそんな行動にはなっていないわけで、それこそこんなことをしている余裕はないはずだ。まあこの地域は伊勢湾からの水が雪崩れ込んでくるだろうし、もし津波が来れば確実に死んでいるだろうけど。
なんらかの出来事と距離が離れていれば、それだけ衝撃も小さい。物理的にも精神的にも、距離の近遠は自身の心のあり方に影響する。近くで起きたから深刻に思うか、遠くの出来事だからって他人事のように思うか。
震度6弱と震度3の重みの違いが顕著にでている。この地域だっていつ大地震で潰れるかもわからない。それは十年、一年、もしかしたら明日。
それどころかこのタイミングで起こってもおかしくない。
そうなってやっと、ことの深刻さがわかるんだろう。
好き勝手書いてきた自分が、今の段階でできることなんて少ないし思いつかなくて、それはもうあったとしても祈ることしかできない。
どうか、どうかみなさんが無事であってください。
無事であるだけでなく、出来る限り最小限な被害ですんで、大好きな人や尊敬している人、大切な家族ときちんと出会えて、これからも永続的に幸せが訪れるように。どうか、どうか。
祈りとは、非常に都合のいいものだと思う。そう思って、理想を願って、何か人知の及ばない超常的なものにどうかどうかと懇願する。それだけでなんだかなにかをしたような気になって自分自身も少しだけ気持ちよくなるし、叶わないとしてもそれは一過的な感情や思考であって、だから後々この祈りについて嘆いたりなんかしないと思う。
いいことをしているような気になっていることしかできない。けれど、自分は無力だなんてまるで悲劇の主人公のように嘆く気なんて毛頭ない。
もしかしたら、現地にいって「辛い境遇でむしゃくしゃするから殴らせろ!」と言われて顔面を差し出した方がよっぽどためになるのかもしれない。怒りも恐怖も当然必要な感情ではあるけれど、強すぎる感情を溜め込むことは、それから自分を内側から傷つける凶器にもなりかねないし。
でも現実的にできない。
だからもう、祈るしかできない。都合よく、いかにも偽善的に。
がんばれとか大丈夫だとか、生きてだとか、正しく真っ直ぐな言葉も、自分に危害が及んでいないから言える言葉だ。蚊帳の外で平和に飯を食っているぬるま湯からの湯船のおすそ分けでしかない。
そうわかっていても、無責任に祈る。
どうかどうか。
今、現在の辛い状況や感情が、少しでも安らかで温かなものとなりますように。
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