7.堕天使の夢~それでも少年は、世界を愛する 読み方は自由様

 皆様は、飛田新地という場所をご存じでしょうか?


 知らない? しょうがないなあ。教えてしんぜよう。


 それは夢の町。端的に言うと、










 遊郭です(意味が分からなくてもググらないように)


 夜の街で遊ぶ経験はあんまりなくて、正直好んで行きたい場所ではないんですが、初めてのオトナアソビを台湾で済ませた豪傑のSS氏は、飛田新地について面白い話を引くほどの熱量で語ってくれました。


「普通のお店だと写真を見て嬢を選ぶけど、実際に会ってみたら写真と違うっていうこともあるじゃないですか」


 うん


「でも飛田新地ではデパートのショーケースみたいにライトアップされた嬢を直接見ることができて、しかもめっちゃレベル高いんですよ」


 うん


「でも飛田新地のそういったお店っていうのは、飛田料理組合が運営していて、法律上はそういったお店ではないんですよ。立ち並んでいる店は料亭なんですよ」


 うん?


「売春禁止法を逃れるための措置で店のジャンルはあくまで料亭。そこでコーラとかビールとかドリンクを1万6千円ほどで買って、店内で提供されます。それで、中居さんとしてやってきた女性が言うんですよ







 あなたのことを好きになってしまいました。さあ行きましょっ」


 うん……















 なにそれめっちゃおもろいやん!←知らない情報大好き


「売春禁止法を逃れるために店のカテゴリは料亭にして、あくまで中居さんと客の自由恋愛の結果として行為をするといった暗黙のルールで運営しているんですよ」







 今までピュアな恋愛しか経験してこなかった私は(?)、あまりそういった店が好きではありませんでしたが


 この話を聞いておもしろそうすぎて、がぜん行きたくなってしまいました。





 堕天使の夢~それでも少年は、世界を愛する 読み方は自由様


 https://kakuyomu.jp/works/1177354054895134382


 天使の世界。そこは法に満たされ、自由な思想は一切にもてない、統制されたユートピア。


 天使の個を殺し、集団のため、国家のために尽くすことを強いられる。

 ウェステリア帝国。


 そこに住む一人の少年、レウードは、そんな国に疑問を抱いた。


 集団のために個を軽んじることは、


 国家のために身を費やすのは、


 自由と引き換えに守られるだけの世界は、


 本当に正しいのだろうか?






 作者様自らがヒューマニスティック社会派ファンタジーと称する物語は、正しい社会の在り方について考察された、壮大な物語であった。


 天使たちは強いられる。強力な力は封じられ、集団の幸せ、国家のための幸せを強いられて、個の尊厳や統制を乱しかねない危険思想は封殺してしまう、独裁帝国の在り方。


 正しさとはなんだろうか。善とはどういった性質を持つのだろうか。何が幸せにつながるのだろうか。


 危険とみなされる行為や思想を持った天使は、裁判にかけられて罪を押し付けられます。まだ14歳の少年でありながら、日々行われる思想潰しの光景を記録に残し続け、疑問と不信を募らせていきます。


 個の自由へ、幸せを追求する権利について考えているうちに、天使の象徴である金髪の鮮やかさが濁り、堕天の証として黒髪へと変貌し、それは罪であると断罪されます。


 物語の意図として、少年のレウードの疑問ばかりが正しいというわけでなく、断罪をする側の大天使長にも言い分があり、思想があるといった多面的な描かれ方をしています。


 ただ今の世界が正しく良いんだと信じる、無知で善良な住人も、それが悪いことであるというわけではないのです。


 結果として、レウードは罰として下界に追放されます。すなわち人間界に。


 下界では絶対的な権力をふりかざす皇帝が国を治めており、皇帝を賛辞し肯定する派閥と、今の在り方に疑問を持ち言葉で国を導こうとする穏健派に分かれて日夜議論をしています。


 貴族、平民、奴隷といった身分制度に対する言及。皇帝を賞賛する人物側の思想。現状を変えていこうとする穏健派の情熱など、様々な視点が移り変わり、ダイナミックに展開します。


 作者様の円をなぞるような多面的視点が光る作品だと思います。






 ただ、うーんなんでだろう。社会学に興味を持ったり思想や世界を象ってきた宗教についても勉強していきたい。哲学的思想も好きなのでこういった作品は好みの部類に入りそうなのですが、どうにも今回はあまり熱狂的とはなれませんでしたね。


 多面的な視点はとても好きです。悪役側にもドラマのあるお話というのは、物語を楽しむための醍醐味の一つだと思います。


 テイルズオブファンタジアのボスであるダオスも(ダオスをだおす!)、自らの世界を守るために主人公に戦いを挑んだ立場であり、ダオス視点に立つのであれば、彼は魔王ではなく英雄なのです。


 人は人によって様々な立場にあります。仕事をする私は社会人であり、家に帰ってコーラを飲む私はただの独身男であり、妹と遊びに出かける私は優しい(?)お兄ちゃんです。そしてカクヨムで小説を読んで感想を書く私はただの読書愛好家。


 1人の人間ですら場面によって様々な立場に身を置いています。それが関わる人間が増えれば、それだけ関係性も立場も振る舞いも思考も反応も膨大な数に上ります。相手の立場で考えると、それだけ考えなければいけないことも膨大な数に上ります。


 関係性によって、立場によって、場面によって、それぞれに完璧な正しさがあるなんて、どうも私には思えないんですよね。お互いにとってできる限りいい結果を与えられる、適切さというものならあると思いますが。


 まあ作者様も、主人公側が絶対的に正しいと言っているわけでなく、どちらかというと絶対的な正しさというわけではないが、絶対的な間違いはあるといった思想を持たれているような気はします。そういう点では、私もそう思います。


 過剰な統制で個を殺すというと、現代人は人権だ、自由だ、幸福追求の権利だ、などととても強い反発を覚えると思います。


 自由はとても素晴らしい。


 と完璧にはどうも思えない。


 個人の権利を最大限行使する自由というものは、極端な話、他者の自由を侵害する危険性があると、思われてならないからです。


 これは極論だとはわかっています。自由という言葉をなん制約もなしに解釈するのなら、何物にも振り回されない、無限の広がりの様相を私は想像します。


 誰もが一人一人無限の自由を持っているのならば、無限と無限は必ずぶつかり合う。ぶつかりあい、侵害がなされた時点で、それはもう自由ではない気がします。


 功利主義を提唱したジェレミー・ベンサムという人物がいます。その思想は「最大多数の最大幸福」です。みんながみんな最大限幸せになれるようにしようという思想と解釈しています。


 世界がもし100人の村だったら。


 幸せの最大値を100とした時、100人中99人が100点の幸せ。でも、そのうちの一人があらゆる不幸をこうむって、幸福点数を1点とします。総計9901点の幸せ点数。

 100人中100人が幸せ点数99点だったら、総計9900点の幸せ点数。


 功利主義的には、1人の犠牲のもとに他のみんなが幸せであれば、前者のほうが幸せな社会という風になります。


 このような話は「これからの正義の話をしよう」マイケル・サンデル著で書かれている話を点数化したものです。


 なんだろう。


 なんだか違うような気がしませんか?


 功利主義をさらに発展した考えとして、「自由論」ジョン・S・ミル著で一つの答えを示しています。


 他者に損害を与えない限り、最大限の幸福を追求しても良い。そう解釈しました。


 もしこの考えを支持するとなると、本当の自由というものは存在しないのではないか。自由が自由として人類に幸福なものであるには、制約がなければいけない。


 国があることが悪いわけでない。法があることが悪いことではない。独裁があることが悪いわけではない。


 トマス・ホッブズは、国家とは神話にでてくる怪物「リヴァイアサン」であると例えていいました。


 リヴァイアサンの頭となる王様や宰相。栄養を運ぶ血液は運送関連や交通に従事する人々。国を守る手は軍隊など、たぶん本当に言ったことと一致してはいないとは思いますが、そういった考え方です。


 なぜ人は国家を必要として、リヴァイアサンとなったか。


(ここは追記)人は個人の欲望や防衛の本能として、なんの統制もない自由な状態にあると、安心を持てない状態に陥るという考え。自由が他者を侵害しふるまわれるのならば、全員が全員相手のことを警戒しなければならない。万人の万人に対する闘争状態に陥っているといっています。自分を守るために、集団化したのだと。


 でも、こうも考えられます。教科書に載っているお話、スイミーは他の魚と群れをなすことで、巨大な魚を退けました。群れることで、システムにゆだねることで、個人が集団となることで、強大な敵を打倒したのです。巨大生物から自然災害。一人一人でどうしようもない出来事に対抗できたのです。


 集団に身をやつしすぎれば個は薄くなりおぼれてしまう。個人として生きれば集団の波にのまれて息絶える。人々が自由を求め続ければ離れた手は個になりリヴァイアサンは崩れ人類は弱くなる。ああジレンマですね。


 まあでも結局のところ、どんな状況であれ自分自身で行為や思考や立場を判断できる。自分自身の責任を誰にも渡したりなんかしないで、責任や重荷すらも自分自身で背負っていける。そんな風に生きられるこが、私にとっては幸せなんだと感じます。


 集団に埋没するのも、個人として孤立的に生きることも、中間に立ってうまい具合に立ち回るのも、自分で決められる。それがいい。


「自由論」や「パンセ」パスカル著でもこんなことを言っていました。


 他人に教えられて賢くなるより、自分自身の考えで馬鹿でいるほうがマシだ。


 他人からもらったものなんてまっぴらで、自分でつかみ取ったものこそが大切で真実だ。


 そんな考え方が、私は好きだなあ。






 なんか思想の垂れ流しになりましたが、でも実はこのお話って私の理想と一致している面もあるんですよね。


 やっと小説の話に戻りますが、じゃあなんで物語に没頭できなかったかというと、多面的な思想があるという見せ方を強く出しすぎて、スポットを当てる人物がコロコロ変わります。


 考えた結果、おそらくそこですね。


 あくまで一人の人物を主軸に添えた上で、他者の考えも見せていくというスタイルのほうが、理解はしやすかったのかな、なんて思いました。


 一本の木から枝が伸びるように、様々な思想と出会えるような形のほうが、私は好みなんだろうな。それだけの話です。


 とはいえ、好きなジャンルの物語ではあるので、社会の在り方やら、哲学やら、思想の話やらはもっと増えてほしいと思いました。





 約31万5千










 ごめんなさいあと少しだけ!さきっちょだけ!さきっちょだけだから!




 目指すべき社会の姿として、ソーシャルインクルージョンという理想があります。日本語に訳すと社会的包摂。


「すべての人々を孤独や孤立、排除や摩擦から援護し、健康で文化的な生活の実現につなげるよう、社会の構成員として包み支えあう」という理念である。


 とてもご立派なものであるけれど、なんだか私には合わないのである。


 日本国憲法13条は幸福追求権についてですが、重要なのは、お前ら全員幸福になる権利があるぜ!というわけではないのです。あくまで幸福を追求する権利なわけです。


 人は皆平等! 人類は皆兄弟! 能力も可能性も有した公平な存在!


 んなわけあるかですわ、と思います。


 職業柄、人が平等であるなんてどうしても思えない。特に精神障害の方を中心にみてきましたが、能力はでこぼこ、他者とうまくやれない人もいる。他の人ができることができない。能力的に。脳の使い方的に。


 だからきっと、幸福になる権利ではなく、幸福を追求する権利と銘を打っていると思うのです。実際に人は平等なんて幻想を、言わずとも打ち砕いていると思う。


 人々が平等でないことが真実なら、幸福に平等もない。そうなると、各々の価値観に合わせた幸せがおそらく存在する。


 だから、己の幸せを追求する権利だと思う。


 で、ソーシャルインクルージョンの話に戻りますが、社会のみんなで泡のような優しさに包まって、幸せになりましょうぜみたいなニュアンスを感じます。


 ひねくれた私は、別に孤独で幸せな人がいてもいいじゃねーか。孤立した幸せがあってもいいじゃねーかと思うわけです。


 社会の枠に収まった世界。排除しないという認識はよし。ただ孤立や孤独を許さないさまは、共感を求めて人と手をつないで時には譲り合い従いあうようなイメージを持ちました。


 別に他者に共感しなくてもいい。嫌いな奴は嫌いな奴でいい。すべての人と仲良くしなくていい。


 でも、たとえそんな嫌いな奴がいても、、、別にいい。あいつはむかつくし理解なんてできないけど、それでも別にちょっと遠くにいることくらいは許してもいい。


 そんな手を取り合わない社会。共感を求めない社会。それでも、存在を認めることはできる社会。案外それが私の理想だなあと思ったわけですが、うまく言葉にできないでいました。


 で、先日「教養の書」という本を読みました。戸田山和久という名古屋大学の哲学教授が書いた本なのですが、私の思想を言葉として表すのにぴったりの表現が見つかりました。


「共感なき連帯」


 フランスだったかな、ではラーメンをフォークで食べるという。


 おいふざけんな。ラーメンと言ったら箸だろう。きちんと箸で食えよ


 といっても、イタリア人から言わせれば、カルボナーラに生クリーム入れるとか、まじないわーって感じらしい。生クリームカルボナーラうまいじゃないか。


 やっぱり人と人はわかりあえない。


 けど、別にそんな奴がいても、別にいいんだ。俺にそのルールを強制しなければ。


 共感に頼らないで、孤立して生きていてもいい。孤独に生きていてもいい。誰かといなければ生きていけなくてもいい。集団の中でパリピを気取ってもいい。世界を変えようと奮闘するやつがいてもいい。どうせなにも変わらないさとあぐらをかいていてもいい。何もやる気がしないからとりあえず寝ていてもいい。性欲に身委ねて、相手をとっかえひっかえする奴がいてもいい。有名な奴がいてもいい。無名で一生を終えてもいい。


 こうやって好き勝手な感想を書くといいながら、思想をまき散らす奴がいてもいい(自分養護)


 人は平等ではなく、わかりあうことなんて不可能だ。本当の自由なんてどこにもなくて、でも縛られた世界は微妙に生きづらい。助けてくれと泣き喚いたとしても、神様なんていないか、いてもおそらく完璧でないので、僕たちの嘆きや祈りなんてうっかり聞き逃しているかもしれない。


 どうすればいいかわからないけれど、



 とりあえずあんたはあんたのままでいていい。




 そんな社会が、訪れることを願うよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る