48 スーパーリエミ様タイム ソレイユの森

 防災訓練を年2回やらなければならないのです。


 で、防災訓練の進め方について話し合いをしている時に、消火訓練をどう進めるかという話になりました。


 そんな中、主任のH氏はとある提案をしました。


「消火訓練といってもリアルにやらなければ意味がないわけじゃないですか。せっかくなので、遠藤さんに火をつけて消火すればより緊迫感がでますよね」


 俺燃やされるの!?


 た、たすけてくださいよ上司様


「さすがにそのまま燃やすのはあれだな。なら遠藤くんにビニールシートを巻いて、消火器で打てばいいんじゃないか。本当に燃えてた時でも躊躇いなく水をぶっかけられるように」


 消火器ぶっ放されることは本気なんだ!? ってかアナタもノリノリですね。


 すかさずH氏。


「いいですね。最終的には本当に火事が起きないよう祈願して、遠藤さんもお焚き上げしましょう!」


 俺はどうあっても燃やされるんかい!


「大丈夫大丈夫。消火器当てられるのも、燃やされるのも、ちゃんと主任手当に入っているから」


 割に合わねえ。




 で、





「よっしゃあ俺を消火しろおおおおい」←エスタークのポーズ。







 Nさんに、「もう大学生じゃないんだから」と叱られました。


 人を燃やすと言っても大丈夫な、アットホームな職場です。











 スーパーリエミ様タイム③


 https://kakuyomu.jp/users/riemi


 感想文は真面目だぞお、今日は(今日は?)





 48 ソレイユの森


 https://kakuyomu.jp/works/1177354054887537515


 自分の発明した薬を奪われ、失意のままに死んだように生活をしているシュー教授。


 そこに丸本というセールスマンが不可思議な男を連れてくる。名はソレイユ。


 課せられた命令は絶対に守る、お世話用のロボット。


 シュー教授とソレイユの交流と、その未来が描かれるSFチックな世界観のドラマである。



 ディストピアものになるのでしょうか。


 シュー教授は美しくも信頼していた藤崎という女性に、自身の開発した薬を奪われ(少しニュアンスが違うかも)、失意のまま森にある小屋で生活を始めます。

 人里離れてあらゆる関係から切り離されたそこは、まるで世界の終着点であるように、シュー教授は感じます。


 セールスマンの丸本は、自身の発明したソレイユという男性型ロボットをシュー教授に売り込みます。主人の命令に絶対的に従うようにプログラムされた人工知能AI。丸本は完璧なロボットを作ることが夢だった。


 実際に一緒に生活しないと、改善点は見つからないということで、ソレイユは無料提供されます。青い瞳をしたマネキンのようなロボット。


 で、ロボットは自動充電型なので、少なくとも人間よりは長く生きながらえます。


 ただ、とあることが発覚したことで、ネタバレになりますがシュー教授は亡くなってしまいます。


 シュー教授との触れあいの中で約束したことを、ソレイユはずっと守り続ける。そういったお話です。





「陽だまりの詩」乙一著を少し思い出しますね。


 この作者様だけでなく、人の生きる意味とは、人工知能に心があるのか、心とはなんだろうか、世界はこれからどうなってしまうのか。


 そういった壮大なテーマに創造を膨らませるのは、もの書きとしては嗜好の楽しみなんだと思います。


 もう一つ、重要な鍵である「不老抗寿の薬」というものも出てきます。


 ロボットに憧れる心理の中には、自身が創造主になること、すなわち神への憧れという面。それだけでなく、永遠への渇望というものを感じます。


 人はいずれ死ぬ。それは絶対不変であり絶対普遍の真実であるように思います。


 経験や行動に伴う反応をデータとして理解できれば、その容量を満たすだけのハードディスク、処理のできるCPU、そして代替可能なヴィークルさえあれば、なんだか不老不死も可能かもしれません。事故などの不条理な外敵要因でしか死ぬことはない。それこそアモータル(非死)な状態。


 人はなんだかんだで死にたくないはずです。竹取物語でも、輝夜姫は帝との再会を夢見て、不老不死の薬を渡したのでしょう。


 で、ふとここで考えてみましょう。


 じゃあ、なんで私たちは死にたくないのだろうか?







「DEATH 「死」とは何か」シェリー・ケーガンという哲学者の著作で、死というものについて徹底的に考察されています。


 一つの解釈を持ち出すなら、私たちはなんとなく、まだまだ生きられると思って生きているはずです。


 80歳くらいまで生きる予定だったのに、なんらかの事故や病気なので、35歳くらいで亡くなってしまったら「早すぎる」と思ってしまうものでしょう。


 死は奪う。


 何を?


 これから、もしかしたら享受できるかもしれない、幸せの可能性を。


「死」という状態が悪いわけでなく、可能性の奪われた状態となるからこそ、死が恐ろしいものとなっている。という一つの解釈。

 というわけで、私たちは自分が生きて幸せに暮らす可能性を奪われていることが嫌だと感じる、かもしれないです。




 ちなみになんですけど、不老不死ってそんなにいい状態なんでしょうかね?


 自分が生きて人生を長く楽しみたい。達成したい事柄がある。もちろんわかります。


 けどただ単に長く生きているだけで、いいのでしょうか?


 ロックという思想家が考えた世界観に、もしかしたら世界は毎晩一度壊れていて、私たちの認識できないうちに再構成されているのではないだろうか。記憶や感覚を保持しているけれど、世界は毎晩滅びているんじゃないだろうか?


 私たちに認識できない以上、真実である可能性はありますね。


 でも同著では言う。そして私もそう思う。


 もしそれが真実だったとして、それがなんだというのだ。私が実は昨日の私と違っても、思想も体の調子も関係も昨日とほとんど変わらないではないか。昨日と今日の私が違う人物だとしても、人格は私自身なのだ」


 という考えを支持するのであれば、自分が自分と同一であることが重要なのではなくて、自分の人格を保持していることが重要なのだ。


 自分が自分の人格であるままで、永遠に生き続ける。それが一番いいことなのかもしれない。


 で、疑問に思うのは、それが果たして可能なのだろうか。


 同著では、聖書に出てくるメトシェラは、九六九年生きたという。でも自分に九六九年の人生は想像もつかないので、自分のケースで考えてみる。


 アラサーだからたかが約30年。30年間の私は同一の人格を持っていると思う。


 でも小学生の時にはポケモンやカードゲームで遊んでいて、中学生にはバレーボールをひいひいとやりながら思春期の戸惑いにドキドキしていた。

 高校生になると男女には一定の距離ができて内的欲求を満たすようにライトノベルを読み漁り、大学生になったことで他者との交流が増えていやいやながらも飲み会に出かけたり、アルバイトでいじられもした。

 社会人になって精神科病院で働いてもどうすればいいかわからず落ち込んだ日々もあり、小説を読み漁るようになる。ジャンルもミステリーから日常のジャンル、ラブコメなど変化の一途をたどる。


 今から思い起こせば、これはすべて俺だけど、もはや今の俺ではないのである。


 今はほとんど小説は読んでないし、仕事に行き詰まることがあればなんらかの対策を打てるようになる。命令に従う気楽な立場から自分で考えて管理し、秩序を構成していかなければいけない。昔に熱狂していたものについては、興味を失ったものも多い。


 もはや俺は、過去の俺が同一の人物とは思えない。過去の自分を完全には理解できないのである。


 人は変化する。良くも悪くも。


 じゃあ40歳の自分は、同じ自分なのか。50歳の60歳の100歳の自分は同一の人格を保持していると言えるのか。


 自分に限りなく似た、誰かほとんど別の人物になるのではないかと、シェリー・ケーガン先生は考察する。


 じゃあ不老不死なんて、未来なんて、とんだ意味のないものじゃないか。今の自分とまるで違っているのであれば、そこにどんな価値があるっていうんだ。


 と若いころなら思い悩んだかもしれないけれど、今はそんなことはない。


 今、私が思い描いているのはただの未来予想であり、私が存在するのは今だけなのだから。


 10年後の今は、おそらく私はその時に信じられる私であるはずだ。


 10年後の自分は、30代の自分を批判しているかもしれない。あの頃はまだ若かったと、青臭さを笑っているかもしれない。それが10年後の私で、その時の考えや行動で別にいいじゃないか。


 パスカルは言う(少しざっくりと略した)


「過去のことを思ったところで、過去はもう過ぎ去ってしまったものだ。人は未来のために考えるけれど、未来はまだ訪れていないものだ。そう考えると、人は決して今を生きてはいない。生きようと願っているだけだ。

 そして、幸せになる準備ばかりしているものだから、いつまで経っても幸せになれない」


 永遠不老なんて、別になくてもいいじゃん。今だけが私たちの感じているもので乗り越えるものであるのなら、今どうするかだけで考えればすむのかもしれない。






 やっと小説の話に戻る。


 ソレイユが森で一人になってから、三〇〇年もの月日が流れる。それで世界はすっかりと変わってしまう。


 人々がコードで管理され、ロボットの技術は向上した。価値観も世界観もすっかりと変貌してしまった。


 さて、この物語に美しさを感じたのだけど、一体何が美しかったのか。


 そこでカナという少女はソレイユに交流をしかける。そこでソレイユの森を世界の終着点のようだと、シュー教授の感じたことをカナにも感じさせるといった手法はニクいね。


 そして、不老抗寿の薬が出てきたということは、不老の人間もいるということで、物語後半で再登場する。誰かは言わないけど。


 ソレイユは年月の経過でボロボロになり、もう守っているものを守っている意義すら失われていた。


 意味のないことを意味なくひたすら行っている。


 無意味。無意義。


 人間であれば、虚しさで発狂してしまうかもしれない。


 ソレイユはロボットである。何も語らない。学習はされど約束は変わらない。


 輪廻転生し、森羅万象は変化し続ける。循環も変化だ。


 でもそんな中、変わらなかったものがあった。


 それをただのプログラムととることはできるだろう。でもどうやら、人工知能らしい。学習システムがあるだろうし、状況に応じて最適な結果を出せるようになるかもしれない。


 でも、たった一つ守り続けていたもの。


 それを人間は勝手に絆とか呼ぶ。自分の心を、相手も感じているかのように考える、投影の一種なんだろう。


 ただそれを美しいと思う。


 そしてそんなくだらないものを、人は後生大事にして、幸せを感じてしまうのである。


 ソレイユ。


 お疲れ様でした。







 前振りも含めて感想が長すぎる。


 もしこの密度で感想を書き続けたら、僕は死んじゃうんじゃないかと不安になる。いや死なないけど。


 本当はこの感想で残りの話を全部まとめて書こうと思ったけど、さすがに一端区切ります。


 リエミ様タイムが今日中に終わるのでしょうか。


 まあでもがんばって












 昼飯食ってきます(逃走)

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