66 みしょうかん日誌【2020年】 みしょうかん様

 H氏とは、たった一年一緒に働いただけにも関わらず、戦友と呼べるだけの経験を共にしました。


 やり方、志は違うけれども、同じ資格を持ち、目指した先の未来を共有しながら、我々なりのスタイルを作っていくことができました。


 時に協力し、時に反発し(いやそんなことなかったわ)、新たに課せられた上司からの課題にも、自分たちなりのやり方で乗り越えてきました。


 一つの山を越えたことで、新たなステップへと進むことができた。


 そう、思っていたんだ。


 それは違った。H氏が新たなるステージに上るように、自分自身も新たなるステージへの昇華を経験することとなったのだ。


 働いている以上、自分たちの立場や考えだけでなく、事業者や会社などの全体的な流れに身を委ねることとなる。


 H氏は、自分とは違う場所で、羽ばたく機会を得たのだ。


 もっと良くしていきたい。もっとシステムを構築したい。


 共にやるのなら、きっとできるはずだ。


 でも、一緒にはいられないのだ。


 それはある種の卒業である。ステップを踏むのではなく、ステージへ飛び出すのだと。


 ありがとう。きっとこの一年間は、人生の中でもとびきり輝かしいものとして、残り続けるだろう。


 そう思っていた最中







 H氏「おつかれさまでーす」







 お前何普通に来とるんじゃ!





 別れからの再会日数


 1日


 で、H氏とSS氏と飯を食いに行っていたので、今に至る。


 特に悲しみなどない。


 マジで、ない。






 みしょうかん日誌【2020年】 みしょうかん様


 https://kakuyomu.jp/works/1177354054895499372


 コロナの影響でまだ入学に至っていない、新高校生の作者様が日々の出来事や感想を綴る日誌です。


 後にコロナ世代と呼ばれることになるんだろうなあと勝手に憂いを覚えている、ある意味奇跡の世代。なんと新高校生らしい。


 おそらく社会制度や人との関係や仕事の在り方を一変するであろう今の状況で、何を思ってどんなことしているのか、純粋に興味がありました。


 年を取ればとるごとに、かつてもっていた感覚や想いなどは消えてしまう気がする。それはもはや、本当に過去の自分は自分だったのかすら、わからなくなるほど。


 コロナ休校に見舞われた、普通の高校生達は今何を思っているんだろうか?









 うん。


 一個だけ訂正。





 この作者様全然普通じゃないわ(大失礼)





 偉いと言ってしまうのは違うので、すげえと言おうか。


 高校生になったことで、料理の一つでもできなければと練習を始める様は、眩しすぎるぜ。もう夏が来たのか。


 我なんて、料理をまともに始めたのは30過ぎだってのに←それは遅い。


 コツコツと日々勉強したり、健康のために筋トレやジョギングに励んでいる姿には、ストイックさを感じる。こうした方がいいということを実行できるのって、それはとてつもない宝物だと思う。


 そして何よりもすげえと思うのは、もうすでに大切なものは自分らしさだということを宣言しているところ。


 他者の意見は変わるからとか、あてにならないとか、そういうことではなくて、どれだけ思想が変わろうとも、どれだけ経験に打ちのめされて形が変わろうとも、それは自分で象り、あるいは変えられた自分自身でしかないのだと思う。


 人は生きている限り自分であり、自分自身のままで死ぬ。


 個人の価値なんて社会においては虫けら以下でも、価値をもって接してあげられるのは、自分しかいないのだと思う。



 相変わらずわき道に逸れるけど、「われ思う、ゆえにわれあり」というのはデカルトの言葉ですが、デカルトは全てのことを疑い続けるといった思考法を実践していました。


 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。


 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること


 第三は、わたしの思考の順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも、順序を想定して進むこと。


 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも落とさなかったと確信すること。


 方法序説 ルネ・デカルト より


 これだけの思考の流れを形態化して手に入れた彼の心理が、「われ思う、ゆえにわれあり」だったそうです。


 全ての物を疑い続けて、疑いを捨てきれぬものですら切り捨てていった極限の中に、「じゃあこう考えている自分自身はいないのか? いやそうではない、私は私として存在している」という到達点を見出しが故の名言だったのです。


 まあ後に色んな哲学者やらにそれは違うよと批判も浴びますが、批判が大きすぎると言うことは、彼の影響力も強大であったようです。


 他人でない私を尊重できることって、難しいんですよね。


 個性が大事だと謳われるようになって、逆に個性が見つからなくて辛い思いをする人も増えたんだろうなあと思う。


 けれど、個性ってなんだと悩むその人自体も個性なんでしょうね。





 内容紹介よりも結局思想の垂れ流しになったけど、前向きにがんばる姿勢には、とても好感を覚えます。


 やはり中学入学のための受験戦争を勝ち抜いてきたらしい作者様は伊達じゃないぜ……。


 勉強が嫌いな人が多いのって、勉強というものを強制されることで、勉強が楽しいものであるなんて一種の真実を覆い隠している気がする。作者様は歴史や物語がとても好きな様子だけど、勉強しようとして、勉強しているわけでなく、きっと楽しくてこの上ないから書物を漁ったり物語に触れるんだろう。


 歴史やら政治やら、私にはさっぱりだ。本当に脳の構造や使い方や発達が違うんだなあと、とても興味深く読ませて頂きました。


 あなたはあなたのまま、信じる道を進んで欲しい。


 そして時折見せる星がほしーの(そうは言ってない)という欲望を隠さないところ、けっこう好きよ。


 もうなんか小説を読み漁るんじゃなくて、エッセイとか日記とかを読み漁ろっかなー(コラ





 約248万3千






 久しぶりにカクヨムを開いて気が付いたことって、以前よりも✰を貰いやすい環境になっているのかなって思う。


 ピックアップなどに挙がっている作品って、レビューや評価もなくても挙がっているものが以前はいっぱいあったけど、平均的に評価を得ているものが多くなっている気がする。


 いいですねこの謎、社会学の息吹が吹いてきましたよ。


 純粋に読者が増えてきたのか、それともクオリティの高い作品自体が増えてきたのか、それともなんらかの他者に目が触れる機会が増えたのか、読みます系の自主企画が多く開催されるようになったのか、カクヨム人口自体が増えているのか、外部SNSなどとのつながりが強化されてきたのか、明らかに2年前にはない動きを感じます。


 レビューに対するいいね機能なんてのも、昔はありませんでしたしね。


 ここ2年間のカクヨム事情に詳しい方がいたら、誰かおせーて♡

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