57、58 スーパー隅田 天美様タイム

 今回はほんと勢いで始めてしまったため複数作品参加もOKにしました今回。


 参加をされた作品に対しては、「そこまで読んで欲しいなら読んでみようじゃねえか」と挑戦的な気持ちになった。そのことは別に良いのです。


 で、今回のミスは、どの作品で参加を頂いたのかという統計をとっていないことです。


 前回は読む順番をくじびきで決めていたことで、作品の名前と数を書き写すことで把握ができていたのです(約2時間)


 複数作品OK。作品の把握をしていない。


 では何が起こるかというと


 複数作品で参加されている方を見つけたら、他にも参加作品はないかと1個1個確認をする羽目となりました(迂闊)


 作者様の作品を企画参加しているか確認していると、何をやっているんだろうってなりますね。


 微妙過ぎて苦行にすらならない苦行。


 でもなぜか気持ちがいい(ん?)





 何も知らない先生の話


 https://kakuyomu.jp/works/1177354054897404633


 すみません


 ごめんなさい


 自分が悪いんです




 そんな言葉に苛まれた人生。どう思いますか?



 短編故、あらすじも書きづらい。というより、一体どうあらすじればいいのか(そんな言葉はない)わからない。


 過去にあった辛い経験が現在とごっちゃになって、耳にした罵倒、感じた悪意、常に付きまとう自己否定感でいっぱいの主人公。


 現実と過去は違うものだとわかっていても、否定的な思いは残り続ける。ヘドロのような残滓。


 でも、先生は何も知らない。そんな辛さを何も知らない。


 辛かった私も、何も知らない。


 知らないからこそ、きっと気遣ったような言葉が言える。たとえが適切ではないかもしれないけど、いつも挨拶をしている隣人のおじさんが、殺人犯であったとしたら、きっともう同じように接することはできないかもしれない。


 知っていることは武器になる。理解の手助けになる。自分の有利になる。特に今は情報化社会。あらゆるものが情報という器に集約される。


 コロナウィルスの感染状況から、株式会社の年収まで。秘匿されていたあらゆるものも、インターネットのクリック一発でわかってしまう。


 でも先生は何も知らないらしい。


 知らないから、当たり前のようなことが言える。


 気を遣わないでいえるそんな当たり前のようなこと。


 これが案外、救いになるのかもしれない。


 死を間際に見た喫煙者も、自分への挑戦として禁煙を始める人もいるらしい。


 でも周囲は、やさしさとして禁煙を推奨しない。もうすぐ死んじゃうんだったら、好きなだけ吸えばいいじゃない。


 そうすると、禁煙を始めた元喫煙者は、悲しい気持ちになるらしい。


 気を遣われているということは、ある意味では特別扱いである。だってそうでしょう。もし嫌煙家の女性がいて、20歳の息子にはきっと、禁煙を勧めるだろう。でもそんな彼女だって、明日死ぬじいさんに、禁煙を勧めたって意味がないように思ってしまう。


 特別扱いに悲しくなる。こともある。


 特別じゃないあなた、一般的な道徳をもって誰もが口にする普遍的な言葉。


 そんなことをただ言われる。


 すみませんなんて言わなくていい。言われた方も、自分が悪いのかもしれないって、自分を責めてしまう。


 良くも悪くも特別な環境に傷つけられた人だからこそ、普遍的な言葉がより温かいのかもしれない。





「創作物はいらない」という人


 https://kakuyomu.jp/works/1177354054897410502


 創作物はいらないのか?


 私の作っているもの(小説やらエッセイやらなんやら)に何の意味があるのだろうか?


 もの書きなら一度は考えたことあるかもね。


 こんなもん書いて、一体何になるって言うんだ。




 作者様はコロナが渦巻く現在の状況について、製造業であれば大量に作って大量に売れば回復するが、劇作家などはそうではないといった趣旨の話に対して、そもそも職業に上下や優劣などあるのだろうか? と問いを投げかけます。


 無駄なものなど何もなくて、世界が効率的に回る機械のようならつまらない。


 しかし空想ばかりのアホでもなりたたない。


 つまりは全て必要であり、尊ぶべきものであると言っているように感じる。


 職業に上下や優劣がないというのは、そうと言えなくもないように思う。職業自体を比較するのであれば、従事している人数や得られる賃金、満足度など、なんらかの比較で表せる基準はある。


 しかし、職業と職業をという観点だけで見た場合、どうやって比較するのだろう。


 工場の作業員と映画俳優。上記のような基準で比較はできるかもしれない。


 けれど、工場の作業員と映画俳優のどっちが優れている? と聞かれても答えられない。職業自体の有用性や必要性は言うことができるけど、優劣の比較は、少なくとも僕にはできない。そういう意味では正しいのかもしれない。


 職業の優劣や上下があるとしたら、資本主義経済の時代において、職業による賃金を稼ぐ効率性の上下、賃金報酬を基準とした優劣といったものかなと思う。


 危険な仕事や専門的な知識、技術が必要な仕事ほど報酬は多い。


 誰にでもできるような普遍化された作業は報酬が低い。


 尊く意義深いけれども、金にはならない仕事もいっぱいある。


 人類は農業を覚えた時から、農作物に支配されるようになった。


 人類が群れをなした時から、神に支配されるようになった。


 人類が神に救いを求めることに飽きたら、金に支配されるようになった。


 今度は一体何に支配されるのだろうけ、想像もつかない。




 作者様の主張に対して、今の自分には特に意見がない。


 創作物に関わる人も、そんなものはいらないという人も、別にどっちもその通りだと思うからだ。


 ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」において、言語の限界が世界の限界だと論じていた。


 今自分はノートPCで文章を書きながら青と白のギンガムチェックのシャツを着て、黒のスラックスを履きながら青縁のブルーライトカットメガネをかけている。右手と左手は世話しなく動いて、必死に脳を働かせながら文章を紡いでいる。入力作業に疲労を感じてか、右上腕二頭筋あたりに痛みを感じていて、両肩も凝り固まって首回りに違和感を感じている。


 これだけの文章に、一体どれだけの単語、文字、言葉、概念が含まれているのか。言語として存在しているから、そもそもこんなエッセイもあるのであり、正しく表現ができるのだ。


 言葉のない世界では、実在しているものはあっても、存在として認識ができないのかもしれない。


 それでは、言語の限界が世界の限界であるのならば、その先には何もないのだろうか。


 実はそう言っているわけではなくて、


「語りえぬものについては、沈黙をしなければならない」


 世界と定義づけられるものの外側が存在していないのではなく、おそらくあるのだろうけど、何も言うことはできない。存在を認めているが、言語の限界である以上語ることはできない。


 創作物はいらないと思う世界観の人にとっては、創作物に意味はないという、意味付けが行われているのかも。


 逆もまたしかり。


 人は自分の知っているものだけしか知ることができないし、自分の世界ですら物事を見ることができない。


 だから、別にいいんじゃないだろうかね。


 色んな人がいて、色んな人がいる。


 どちらが正しいとかはなく、優劣があるとかはなく、上下関係もない。


 でもなんらかの条件においては正しさもあるし優劣もあるし上下関係もある。


 どっちも正しく、どっちも間違っている。


 そんな意味があるようでないようなことの繰り返し。


 色んな意見があっていいんじゃない?


 その意見をどうとらえてどう武器にするかは、自分次第だと思うわけですよ。





 約101万8千












 ヤバいマジで感想が長くなる病が治らない。

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