96 馬鹿のガラス瓶 ミヤシタ桜様
相変わらず治らない肩こりに加えて、草むしりをしたことで腰まで痛くなってきた。
デスクワークのおかげで、これからも慢性的にこの痛みと戦っていかなければならないのか……。
いや、立場上仕方がないことだとはわかっているのだ。自分も望んだことなのだし。
そんな自分を心配してくれたのか、長月そら葉様がある物を勧めてくれた。
あまり薬には頼りたくない系男子だったが、おススメとあらば使ってみようと使ってみた。
スーッとする感覚に、ほぐされていくコリ。
ちょっとすっきり(恍惚)
ありがとう長月様
ありがとう
アンメ〇ツ
やっぱり愛してる。
馬鹿のガラス瓶 ミヤシタ桜様
https://kakuyomu.jp/works/1177354054897223724
私立の中学(男子校)に進学した自分。家庭にも恵まれ、優しい親、優しい友達、優しい先生。すごく恵まれている。それなのに、底知れぬ不安が自分を襲い来る。自分ってなんだろう。命ってなんだろう。そんなある日、ある女の子に出会った。彼女は、あなたを殺してあげます、
と言った。
作者様紹介分より引用
もうタグに書いてあるから言っちゃいますけど、ボーイズラブです。
恋愛対象が同性であるということで、確かに生きづらさはあるだろうなあと思う。
それを受け入れるか受け入れないかは、それは個人の感性に任せるしかない。
否定も肯定もしない。拒否も推奨もしない。ただそうなだねって思う。
LGBTに関する認知は進んできて、性も恋愛も自由であるという思想は随分と深まったけれども、やっぱりまだ偏見に満ちているんだろうなあと感じる。
今の時代であるからこそ、生きづらさを訴える権利、自分らしく生きて行くという権利はあるけれど、その権利という概念自体が昔はなかった。
キリスト教徒たちも、同性愛はいけないものだと公然と言っていたらしい。となると、今の時代に生まれているだけで、まだましなのかもしれない。
けれど、きっとマシなわけがない。
昔の時代の苦しみは体験のしようがない。今の自分の苦しみしかない。
どれだけ恵まれていると考えたとしても、それは慰めにはならない。
個人という生き方が尊重される時代だからこそ、個人の苦しみは個人のものであるという自己責任で収められる。
その苦しみですら尊いものであると思うのだけど、そこまで思える人はほとんどいないだろうな。
あまりネタバレできないから端的に言うけど、この物語は報われない。
いや、それもこっちの見方なだけで、ある意味解放された結末なのかもしれない。
おそらくそういった意図で書かれているわけではないけれど。
この物語を見て、LGBTに関する権利や人権を広げようとか、何かしらの活動をしようとか思えるのだったら、それはもう前向きでいいのだろうと思う。
僕はそうは思わないけど。
どんな人がいてもいい!
そう思うし、これはきっとこれからもそう思っていく予定なのだけど、この考え方は大事な点を見逃している。
どんな人の中に含まれる、個人の苦しみなどについては考慮をしていない。
ある意味無責任な理想論だとは思っているし、自らの苦しみも含めて愛せよなんて無理難題は言わない。
自分自身がそこまで辛くないし、他人事だから言えることだ。
それでも、貫こうと思う。
女性が好きな女性も、男性が好きな男性も、両性が好きな人も、体と性意識が解離している人もいるのだろう。
男性が好きな女性がいれば、女性が好きな男性もいる。
目玉焼きに何をかけて食べる? という質問に
塩 しょうゆ ソース マヨネーズ ケチャップ こしょう 七味唐辛子 何もかけない
のどれを選ぶかによって、価値の差はないように思う。
どこまでも他人事で誰がいてもいいと思う僕にとっては、目玉焼きになにをかけるかの違いでしかないのだ。
軽薄かもしれないけど、この大した問題ではないという価値観で、もし誰かが楽になる可能性もあるなら、それでいいんじゃないだろうか。
約707万4千
この前読ませて頂いた小説にコメントをした時に、知的障害者のことを「天使」だと持ち上げて特別扱いするのは人間扱いをしていないんじゃないかとコメント返しをもらい、それは僕もとてもよくわかるので興味深かった。
知的障害者の親御さんの中には、自分の子供を「天使ちゃん」という人は本当にいるらしい。
思い通りにならない。他のことは違って言葉もしゃべれない。差別や偏見に苦しめられる。
そんな辛い経験をすることで、心理的には、「こんなに辛い思いをしたことには何か意味があるのではないかと」と考えることがある。
というか、知的障害の子を持つことで苦労したことに、自分で意味をつけているのだろう。
「この子を育てることには、本当に苦労しました。でも、この子が普通と違ってわがままだったり、うまく人と付き合えなかったりしたことで、私は本当の親になることができました」
どこかでこんなことを言っていた人の話を聞いた。
その苦労について、本当の親になることができたという意味付けを行うことによって、報われた気分になるのだ。
『ホモ・デウス』ユヴァル・ノア・ハラリ著でフランスの戦争の話が出てきた。国民全員国のために一丸となって、男性は兵士に、女性は病院や救護者として働くことが義務付けされたという。
それでも、国民はそれに従ったのだと言う。
で、おもしろいのは、日本もそうだったけど、どうしてあきらかに負けてしまうような状況になっても戦争は止められないのか。
もし、自分の子供が戦争に行って亡くなってしまった時、国のトップがあなたなら、その遺族にどう説明ができるのだろう。
もしももう戦争には負けそうな状況であることがわかっているとするなら、どう言えるだろう。
「あなたの息子さんは、敵の銃弾に打たれて非業の死を遂げました。ですが、そこにはなんの意味もありません。もうすぐ我々は戦争には負けてしまいます。あなたの息子は犬死でした」
おそらく、そんなことは言えるはずがないとほとんどの人は直感すると思う。
では、こういうのはどうだろう。
「あなたの息子さんは、敵の強靭に遭いながらも必死に戦い抜きました。その命は礎となり、この国の恒久の平和のためには欠かせないものだったのです。敵を討ち果たし、我々の正義が証明されるまで、戦い抜きましょう」
たとえ嘘でも、たとえ慰めでも、そう言われたほうが救われる。そう思えてならない。
話が大分逸れたけど、自分自身の行いが無駄なことだった、ただの苦しみにすぎないものだったと知った時、人は耐えられない。
知的障害者の親御さんが本当に不幸かどうかは僕は知らないし、考察することもしないのだけど、そう思わなければ、やっていけないのだ。
で、知的障害者だけの話ではないけれど、本当に「天使」なんだろうか?
人を他の人の上に見ても下に見ても、それは人間扱いをしていないように思える。
差別とは逆の意味で持ちあげることって、幸福度だったり立場は変わるかもしれないけれども、同じ人間扱いをしていないことには変わりないように思える。
精神障害者支援に携わっているからこそ、こういったことはよく目にする。
特にまだ職業に就いていない実習生たちはそう。
精神障害者は怖い。
歴史的に迫害されてきたから、優しくしてあげなきゃいけない。
なんとかしてあげなきゃいけない。
そういう風に、善意をもって手を差し伸べようとするとき、その手は一体どこから出ているのだろう。
多分、遥か上の方。
穴に落ちた人を掬い上げるように、上から差し伸べているようなイメージを感じる。
それもまた差別とまでは言わない。
ただ、ちょっとおかしかろうがおもしろかろうが足らなかろうが逆にものすごく能力があろうが、同じ人間なのだ。
いいことはよくてわるいことはわるいってハッキリ言ってからんで関わればいいだけの話だ。
障害の有無も、人間性の違いも、能力の違いも、全部目玉焼きにかける材料の違いくらいの気軽さで語ることができてもいい。
そんな風に思っている。
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