第30話
「そうそう、この子ねずっと数学だけはできないって言って聞かないのなんのって、私これでも数学教師だったのにほんと血は継がないんだなぁってねぇ」
「あはははっ、なんだか目に見えて分かりますよ。栗花落、俺が教えてるときも全然気乗りしてくれなくって! 最初は一緒に勉強できるからって喜んでたのに全然で」
「まぁね~~この子あんまり勉強好きじゃないからね。何せ、性格がちょーっとひん曲がってたからね。高校生の頃なんて家じゃ口も聞いてくれないくらいで。お母さんしんどかったのよ」
「ははは。わかります。俺なんて最初にあったときに凄いグイグイ来られましたからね。大丈夫だって言ってるのに話も聞かず正しい事やってくれましたし。まぁ、助かりましたけどね」
「んふふふ、いい方向に働けば完璧だからねこの子。それに、どう、綺麗でしょ?」
「いえいえ、お義母さんにはまだまだ」
「あらやだ、私口説いても何も出ないわよ~~。あ、でも私、今フリーだから?」
「うぉ、これは……っと、ちょっと右からの視線が痛いんでやめておきますっ」
「ふぅん。どうしたの、ことりちゃん。ママに嫉妬?」
まぁ、ここまでノリノリで話までしておいて今更な気もするが。
失敗かと思われた挨拶はとてつもないほどの成功を収めていた。
話し始めてまだ数分と言ったところなのだが、俺から言った栗花落の高校生時代の話にグイグイ食いついてくるのなんの。
栗花落が傘を他の子に渡して一緒に相合傘して帰ったことだったり、栗花落に栄養について指摘されてお弁当作ってもらったことだったり、勉強会をした時のお話も。
高校時代から今にかけての話はどうやら愛華さんにとっては新鮮だったらしく。
とても嬉しそうな顔をしてくれて、少しほっとしたくらいだ。
「……だ、誰が嫉妬だなんて! 先輩騙されないでくださいっ、この人元気な時は口だけは達者なんですから。あ、というかママじゃない! お母さん!」
と、話し込んでいたところで横やりが入った。
横やりと呼ぶには少しおかしいかもしれないけど。
俺と愛華さんの会話が弾みに弾みすぎてすっかり忘れてしまっていた。
「あらあらぁ、顔真っ赤よ?」
「うっ、別に……違うし。とにかくですね、先輩も仲良くしすぎですよ。お母さんと」
どこか羨むような攻撃的な目で俺を見つめてくる栗花落。
それに、いつもより距離が近くて、少し熱を感じてしまう。
「—―お、おい。そこまで言わなくてもいいじゃないか」
真面目に、正直嫌われていると思っていた人にここまで親しく接せられて俺は心の底から嬉しいのだ。
いくら娘と言えど、仲良くしすぎということもない。
まぁ、さっきの口説いているのくだりは思い切り冗談なのだが……どうやら、そこも怒っているようだった。
「だって、先輩が……」
「冗談だぞ、一応」
「えぇ、冗談なの?」
俺が念のため言うと今度は愛華さんの方から妬ましそうな発言が飛んでくる。
もちろん、慌てた栗花落がグイッと身を寄せてきた。
「あ、いや別に」
「先輩」
「はい、冗談です」
逡巡すると栗花落からの冷たい呼び声に、俺はすぐに白状する。
怒らせすぎたようだ。
「うふふふっ、私に取られて嫉妬かしらね?」
「してないっ。んもぉ、だいたい私の身になってよ……そんな過去の話本人の前でされたら恥ずかしいに決まってるでしょ」
なぜだか嫉妬と言う言葉だけには反応が強いが、それが本音であることは隠し通せていないようだった。
なんて、そういう天邪鬼で抜けているところもあるからこそ、俺には明るく眩しくかわいく映るのだが。
なんなら、さっきから顔がほんのり赤いし、本気で恥ずかしがっているようで。
昨日からと言い、栗花落の豊かな表情はとてもかわいい。
「あらあらぁ、カッコ悪いところ見せたくないの?」
「そういう意味じゃないわよ。普通の意味で!」
「別に気にしなくてもいいのになぁ、栗花落」
「先輩もですっ……とにかく、挨拶は済んだんじゃないんですか?」
「ん、あぁ、そうだな」
その一言により、俺はこの場に来ていた理由を少し思い出した。
あまりにも心地よくて栗花落について語っていたが、今日の挨拶はそういう話をしに来たわけではない。
体を向きなおし、少しだけ身なりを整えて、息を吸い、呼吸を合わせて目を見て告げる。
「あの、栗花落愛華さん」
「……そうか、そうね」
「え、はい?」
「ううん。こっちの話。ことりちゃん、席を外してくれるかしら?」
そんな俺の表情から察したのか、愛華さんは今日一番の真剣な眼差しを向けて頷いた。
愛華さんにそう言われた栗花落はぽろっと「なんでよ」と呟きながらも、結局言うことには逆らえないのか部屋を後にした。
「ふぅ……そうね」
やがて扉が閉まると、しん……と張り詰めた空気が病室を包んだのが分かった。
ピリピリとはいかないまでも、さっきのフランクな感じはまったくなく。
ベッドに座り、窓の外を見る栗花落と同じ色の瞳が静かに輝いていた。
外では音もなく降り続ける雪に、街の喧噪さえかき消されて吐息の音が耳に入ってくる。
そんな状況が俺に対して、合図する。
きっと、真面目な話が始まると。
すると、その合図も正しかったようで愛華さんがゆっくりとこちらを見つめ、そして落ち着いた声で俺に声を掛けた。
「あのね、藻岩くん」
「は、はいっ」
つい一分前とは違う声音に俺は肩を震わせた。
同じ声だったが、何かが違って、加えて見つめる目もさっきまでとは様子が違っていた。
「私からの質問とそしてお願いがあるの」
「愛華さん、からですか?」
「えぇ、そうよ」
栗花落と一緒のエメラルドブルーの美しい瞳に見つめられ、体が少し固まり、生唾を飲み込む。
一秒ほどの間の後、愛華さんが息を吸い、そして口を開いた。
「じゃあ質問。嘘はなしで答えなさい」
「……はい」
嘘はなし、つまり本当のことを言えばいいだけ。
これ以上明確で、分かりやすく、簡単な言葉はない。
ただ、その簡単な言葉はあくまでも意味だけであり、本当の中身は計り知れない。
しかし、その重たさをこの八年間と少しで理解していた俺は胸がガっと痛くなった。
「……っ」
生唾を飲み込み、そして目を見つめ、一歩踏み込んだ愛華さんはただ淡々と俺に尋ねてきた。
「藻岩くん、ことりちゃんのことは好きかしら?」
「っ――」
放たれた質問はそれはもう、ストレートなものだった。
栗花落ことりを、つまり娘を好きかどうか。
当たり前かと聞かれれば、至極当然と言えるほど当たり前な質問だった。そりゃ、思うだろう。元カレだからとか、そういう解決した過去のことが絡まったわけではなく。
ただ単純に、自分の愛娘に寄ってくる男がいれば――
だが、あまりにも当たり前のことを聞かれて、俺の体はそんな冷静には反応できなかった。
「栗花落をっ……」
「栗花落って言われたら私も入るんだし、ことりのことね」
「い、いじわるですね」
そんな空気感の中でもジョークを飛ばしてくる余裕には、さすがに屈服する。
ただ、話は変えず、質問の答えを待っている目に回答を延ばすことはできない。
「俺は……好きです」
決まっていることだからだ。
だいたい、好きでもなければ八年間忘れることもなかったのだから。
意を決して、俺も合わせて、心の底から本気で呟くと愛華さんは少しだけ笑みを溢した。
「ストレートなのね」
「逆にここで嘘ついても意味ないですよ。それに、本当のことです」
「そう。なら、なんでもう言わないの?」
「えっ、あぁ……」
質問は二つ目だったが、その問いは一度目と同様に至極当然だった。
別に無意味に告白を延ばしているわけでもない。俺には俺のやり方があって、栗花落には栗花落のやり方があるように。
正直、今にでも抱き合ってやりたいことしたいけど。
ただ、俺たちにとってはそれはまだ少しだけ早い。
年齢もあるんだからと言われたらそれまでだし、それもそうだけど。数年も先に延ばすつもりももちろんない。
ただ、ただ。
今は忙しいからとか、そういう理由でもなく。
「リハビリ、ですかね」
「リハビリ?」
言わば――リハビリ、のようなものだ。
俺と栗花落には八年以上のブランクがある。
この八年と言う長くもあり、短くもある溝は長さこそそれだけど深さはとてつもない。
「はい。俺たちは軽すぎたんです。昔は」
「……」
お互いに傷つけたと思ってお互いに傷ついた。
傷のある者同士、そんな俺たちが昔みたいに焦ってノリで付き合って、それで別れて――なんて到底できない。
同じ轍を踏みたくもない。
「軽い付き合いっていう意味じゃないです。でもただ、早まりすぎた。お互いの歩むスピードを考えていなかった。だからすれ違った」
だからこそ、今度は堅実に、そして確実に。
お互いがお互いの歩めるスピードで一緒に掴みたい。
「だから、今はゆっくりでも進んで、そしていつか彼女と結婚したい。っていうのが答えですかね」
そんな理由だ。
しかし、それを聞いていた愛華さんはマジマジと俺の目を見つめてきた。
「……っうふ」
そして、再び笑みを溢す。
「え?」
「いやぁ、堂々と宣言してくれるんだなぁと思ってね……そうか、結婚ね~~」
「っあ、お、俺そこまで言ってました?」
「それはもう、今更取り消させませんよ」
「……ま、まぁ本音ですし」
自分でもそこまで言うつもりはなかったが勝手に口走っていたようだった。
本音と言ってにげるも愛華さんは捉えて離さないように言葉でいじめる。
「へぇ~~そぉう?」
「は、い」
「……まぁでも、今のでいろいろ分かったわ。それじゃあ、今日は時間だし、もう帰りなさい。ことりちゃーん!」
すると、もう一つは告げず愛華さんは声をあげる。すると、栗花落が扉から顔を出した。
「いいの、もう?」
「えぇ、いいわ。話せたから」
「え、でも、俺まだお願いは?」
「ううん。聞けたからいいの」
お願いを聞いていない。
しかし、愛華さんは首を横に振り、一段とほほ笑んだ。
そして、極めつけに病室を出る瞬間にその笑顔のままこう言う。
「あなたのことは気に入ったけど。でもね、昔は嫌いだったの。ここに来て話をするまでもね」
「すみませ、ん……」
「だからね、藻岩くん。娘に何かあったら、許さないからね。それだけは覚えていなさい?」
「は、はい……」
と、最後の最後。
別れ際だというのに、俺は愛華さんの満面の笑みをかき消した忠告を受け取ることになったのだった。
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