第60話



 お互いに名前を言い合うことで精神をすり減らし、結局のところ糖度過多で共倒れするというなんとも情けない結果から八時間ほど経ち、一夜明け。


 早起きして栗花落――じゃなくて、ことりの寝顔を見るぞ! なんて言う意気込みは何のことやら失敗し、俺が気付いたときには彼女はシャワーを浴びてすっかりと目覚めた様子で俺に話しかけてきた。


「あ、おはようございますっ。哉先輩」

「……お、おはよ。ことり」

「こと――っそ、そうでしたね。名前……なんだか慣れないですね」

「まぁ、俺も一緒だよ。哉先輩だなんてな」

「だめでしたか?」

「いやいや、そんなことないよ。ただ新鮮だなって思っただけ」

「それなら、よかったです」

「ゆっくり慣れていけばいいよ、ゆっくりでさ」


 お互い朝と言うこともあり、鉢合わせたような感じ。

 そんな中で、昨日の夜から始まった名前騒動。


 歳からしては痛々しいことこの上なく、ましては中学生みたいな話だと理解してはいるが。


 これまでの経緯が経緯。

 この八年間のブランクを埋めつつ、ことりと添い遂げていくためならゆっくりでも進んでいくほうがいい。


「そうですね。ありがとうございますっ」

「おうっ」


 そんな思いを込めて告げると分かってくれたようで、ことりは満面の笑みを浮かべた。


 にしても、破壊的な笑顔だ。

 俺だけに向けてほしいがそうもいかない。


「っ……」


 支配欲に駆られながらも、なんとか頭を左右に振り邪念を振り払う。

 すると、今度はことりが申し訳なさそうな顔を見せた。


「それでその、シャワー借りちゃいましたけど……良かったですかね?」


 シャワー。

 言われてみれば確かに彼女はシャワーから上がったばかりだった。

 タオルを首に賭け、ドライヤーで乾かした綺麗な亜栗色の長い髪からは艶のある光沢が輝いている。


 それでいて二月中旬に差し掛かるこの日に見せる格好ではないキャミソール短パンが言葉にしがたく妖艶で、喉を鳴らす。


「……き、綺麗だな」


 そして、俺はいつの間にか幽霊にでも乗り移られたかのように口が勝手に動いていた。


「えっ⁉」

「——あっ‼ いやその、それはそうなんだけどっ。すまん、変なこと。とりあえずダイジョブ!」

「そ、その別に私は変なことだなんて思ってませんけど……?」


 俺が慌てて謝ると、ことりは頬を赤らめてまんざらでもなさそうに悪態をついた。


「っそ、そうだよな。変じゃないよな」

「はい……でも、勝手にシャワーはすみません」

「え、いやいや、シャワーはいいんだってほんとに。好きな時に使ってくれ」


 恥ずかしそうな顔で俺の目を見ず、ぺこりと頭を下げる彼女を見てさすがにいたたまれなくなりなんとなくで肩をぽんぽんと叩いた。


 さっきまで寝顔がどうのと言っていた自分が今になって情けなくなる。

 ゆっくりでいいとは言ったが、さすがにゆっくり過ぎるのも違うというのが今さっきの反応で伝わってきた。


「とりあえず、すっきりしたか?」

「はいっ」

「それなら良かったよ、掃除とかご飯とかしてもらってること多いし。俺も入ってこようかな」

「それじゃぁ、私は朝ご飯作っておきますね」


 そうして、リビングを後にして、パンツとバスタオルだけを物干しざおから手に取り脱衣所へ向かう。





 ゆっくりだけど、決してゆっくりではなく。

 とはいえ、確実に踏みしめていく。

 ふつうとは言えないけど、そのやり直していく過程がどうにも俺達っぽくて恥ずかしながらも居心地が良かった。





 まぁ、アラサーがすることでもないんだろうけど。

 それは重々承知で、俺達の朝が再び始まった。




◇◇◇◇◇




「哉先輩、その――甘いものって好きですか?」

「えっ……まぁ、好きだけど。どうして……ぁっ」



 一泊した朝。

 ご飯を食べ終わり、一服ついていたころ。

 何とも今更で、しかしそれでいて過去の古傷を抉る、それでも掘り返さなきゃいけない質問をすると。


 先輩は頷きながらも何かに気が付いたかのような顔を見せた。


「……お、おう、俺は好きだぞ。チョー好きだ、うんっ」


 日付。

 二月十日。


 節分も恵方巻も社会人になれば特に気にならないイベントと化していたが、それでも消えない二月の一年に一度の行事ごと。


 その名もバレンタインデー。


 そんな日のために今更、関係値の深い先輩の舌の好みを聞いているのは過去に犯してしまった失敗が原因なのである。


 思いだすと懐かしさと、年齢を重ねた悲しさで胸が痛くなる――忘れたくても忘れられない、いい意味でも悪い意味でもたくさんの事があった頃。


 遡ること九年前。

 今やアラサーで、課内では次期主任などともてはやされて茶化される私もまだまだこれからのピチピチ十六歳の二月十四日、バレンタインの日。


 もう十六度も繰り返したバレンタインの日も、あの頃の私にとっては特別なものだった。


 何せ、初めての彼氏ができたのだから。


 付き合ってから凡そ半年程度。

 夏終わりの体育祭で出会ったイケイケな先輩に告白されてから付き合い始め、何度もデートを重ねて、もはや周りの友達たちも気にしなくなった頃合い。


 そんな中、やってきたのが日本中の男子たちが胸を躍らせ、女子たちが腕を震わさんと頑張る――恋の祭典。


 海外では男子から女子へ贈り物をするのが主流と聞いたことがあるけど、あの時の私にとってはそんな知識なんて関係なく、居ても立っても居られない。


 単なる、あまりにも純粋な恋路の途中にあるその日のせいで私の胸の内はドキドキとおかしくなっていた。


「え~~私は義理チョコしか作んないよ? いないし、好きな人」

「あ、そうやってうちは好きなのに~~。あげないよ?」

「んもぉ……」

「あ、そうだ! ねね、つゆちゃんは誰にあげるの?」


 クラスの隅で話をしている女子の一グループに所属していた芋っぽい私こと”つゆちゃん”へ、バレンタインの話題が矛先を向く。


 さっきまで女子同士で手を繋ぎながら友チョコの話をしていた二人が、あたかも分からないかのように聞いてきた。


「っ——ま、まぁ、うん」

「うんって何~~」

「教えて教えて?」


 最近付き合った先輩の男子。

 なんて、報告する間でもなく広まっていたのはさすが女子高生の噂探求力と言うか。


「ぇっと……せ、先輩の、彼氏に」

「ひゃあ!」

「きゃあ!」


 見透かされているような顔でニヤニヤ顔を向けられて、結果言ってしまう自分も自分なんだけど。


 そうして、始まったバレンタイン。

 先輩にあげるために色々と考えて、結果的にはショコラケーキを作ることになり何度も練習を重ねて、バレンタインデーの夜。


 作っている最中にうっかり寝てしまった私は翌朝、焼き上がっていたショコラケーキが真っ黒こげになっていることに気が付くと言う――今なら絶対にしないであろうことをしでかし。


 そして、結果翌日の放課後。


「——す、すみません。黒焦げにしてしまいました」

「あ、え……あぁ」

「ほ、ほんとに……すみませんっ」

「や、いや、大丈夫。気にするなっ」


 なんて笑顔で首を縦に振ってくれたけど、悲しそうだった顔は覚えている。


 


 そんな経験、ちょっとしたトラウマを超えて——私は今。





 


「哉、先輩っ?」

「……ん?」

「その、十四日って空いてますか?」




 一歩一歩進んでいくのです。








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