第61話




◇◇◇◇◇

 


 いつも通りの平日、いつも通りの出社時間、そしていつも通り顔を合わせる研究員の方々。


 特に何も変わらない、普段通りの一日のはずなのに。


 日付から連想する特別な意味のせいで、男どもにはソワソワとした雰囲気が漂っていた。


 そう。

 今日は二月十四日。

 言わずとも知れた——と言うか知れ渡ったバレンタインデーⅩ- DAYである。


 生憎と俺もその、ソワソワとした雰囲気をひしひしと感じている男どもの一員だ。

 何せ、この八年間とはわけが違うのだから。


 高校を卒業してから、去年の二月までは女っ気なんて一ミリもなかった。

 むしろ、俺から女の人を避けてまでいた。何度か克服しようと頑張ったりもしたけど結局何も為すことすらできず。


 結果的に俺はこの八年間のバレンタインデーはあるようでない日だった。

 たまに親と姉さんから「哉くんLOVE♡」と書かれた、とても目を当てられないチョコが送られてくるだけの一日。


 勿論、律儀にこの日にチョコを送ってくれる二人には感謝しているし、家族と言う意味では好きだけど。


 姉さんに関してはそんなことしている余裕があるのなら早く結婚相手を見つけてほしい。


 最近は実家に帰る度に俺の周りにいる男を根掘り葉掘り聞いてくるし、あの姿にはさすがのも胸が痛くなった。


 危うく久遠とのお見合いまで開かされかけたし、割と気に入ってた姉さんからしてみれば今の彼の状況を聞くと泣くだろうな。


 まさか弟の彼女の友達に奪われたって。

 まぁ、写真で見せただけなんだから独占欲おかしいって話なんだけど。


 とにかく、俺にとっては今日と言う日は今までとは違うと言う意味では特別なのだ。


 何せ、この前の夜にことりから約束まで申し付けられた。

 甘いものは好きですか、と。

 十四日空いてませんか、と。

 もちろん甘いものは結構好きだし、会社が終わった後なら大丈夫と答えた。

 

 予定ではあっちの仕事が終わったら俺の家に来てくれるという話で、今からでも胸が変に高鳴ってむしろ痛いまである。


 俺にとって、異性から貰う初めてのチョコだ。

 もっと言うと、初めて貰う本来の意味での所謂「本命チョコ」。

 義理チョコではない。

 小中高の友達から、仲のいい女性社員から軽く頂けるものでもない。


 本来のチョコ。

 

 付き合っていたころには失敗したという理由ではことりから貰えず、悲しい時期八年間を過ごしていた俺にもようやく春の再来かと。


 心なしか仕事も気合が入って、キーボードを叩く手の速さがいつもの二倍にすら感じるほどで自分にも訳が分からないほどに楽しみにしていたらしい。


「——うっす、哉さん」


 そんな胸躍る今の気持ちを落ち着かせようと休憩室でコーヒー片手に一服ついていると聞き馴染んだ声が横から飛んできた。


「久遠か」

「僕っすよ~~。久遠さんも休憩すか?」

「あ、あぁそんなところだな」

「同じっすね~~。んま、休憩って言うか、バレンタインのソワソワ感を抑えるためっていうのが本当の理由でしょうけどね」

「うっ」

「あはっ、図星すね!」


 いつもの何も考えていないような笑みを浮かべながら指をさす久遠。

 さすがというか、言ってもないのに見抜かれてしまった。


「はいはいっ。でも、そんな久遠は緊張もしてないんだろ?」

「まぁ~~というか、もう五個も貰っちゃって」

「まさか、斎藤さんから?」

「いや、普通に女子友達からっす。あんな人から貰えないっすよ。鬼っすもん鬼、赤鬼」

「……おいそれ、絶対に本人の前で言うなよ」

 

 というか、ここにいたらどうするんだ。

 俺まで言っていると勘違いされるし、普通に意外と乙女なところもあるからあまり言いたくもない。


 あの人、普通に傷つくからな。

 普通にサークルで恋愛映画見に行った時なんてギャンギャン泣いてたし。

 人間なんだからそんなこと当たり前なんだよな。


 まぁ、あくまでも仕事場では真逆で日ごろからしごかれてる久遠にとっては思ってもないことだろうけどな。


「でもやっぱり貰ってるなんて流石だな、ビジュアルがモテるもんな」

「うーん、それもあるっすけど。僕、料理得意っすからね~~。ホワイトデーのお返し目当てっすよ」

「ホワイトデーのお返し……てか、自分で作ってるの⁉」

「えぇ、少数派かもしれないすけどね」

「……俺には無理かなぁ」

「っふは、無理に決まってるじゃないすか。家事もろくに出来ないんじゃっ、ふは!」


 ふは、じゃねえよ。

 俺も気にしてんだ、ことりにやってもらってるの。


 さすがの俺も頑張って作ったりしてみようかな。たまにはそういうことしないと。やってもらってばっかりじゃ負担も増えるし、今後の仲を考えたらやってみるべきだろうし。


「……今度やるつもりだよ、悪かったか?」

「いやいやいや。まぁ、最初は失敗しますから気を付けないと嫌われちゃいますよ~~」

「あぁ、余計なお世話だ」

「よし、それじゃあっ。僕戻りますわ。んじゃ、バレンタイン楽しんで」

「ほいほい」


 そうして休憩室を後にする久遠を見た後、缶コーヒーをすべて飲み干して俺も立ち上がる。


「そうだなぁ……」


 バレンタインデーばっかりでもらうことだけを考えてたけど、思い返してみれば貰うと言うことは同時に返さないといけない。


 そう考えると正直どうすればいいかなんて全く思い浮かんでこない。

 最後にもらったチョコなんて小学生、中学生の頃。この頃は親からもらったお小遣いの範囲で500円くらいのチョコを買っていたけど。


 そんなのはもう俺の年齢で許されないだろうし、もっとも俺も挙げたくない。

 でも、ことりは作って返すのと、買って返すのどっちが嬉しいんだろうか。


 俺はことりに何を返せばいいんだ?


「……いや、そうじゃないか」


 大事なのは気持ちだ。

 何を返すかじゃない。

 ことりに対して何を込めるかだ。


 俺が正しいと思うことをすればいい。


「っにしても、楽しみだな」


 ふぅっと息を吐いて、缶コーヒーをゴミ箱へと投げ入れる。

 そうして、午後の仕事が始まり————あっという間にバレンタインのイベントが幕を開けた。




◇◇◇◇◇






 


 

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