第62話
特殊相対性理論。
1905年にアルベルト・アインシュタインが発表した、「時間の進み方や空間の大きさは『絶対的』なものではなく、観測者の置かれた状況によって変わる『相対的』なものである」とする物理理論。
所謂、移動する物体は静止している物体よりも時間の進みが遅くなる――という、一般的な人間には大抵理解しがたい理論でもある。
そんな理論を提唱したアインシュタインはこんなことを例に挙げて、理論の事が分からない当時の新聞記者たちに言ったらしい。
”熱いストーブの上に手を置くと一分が一時間に感じられるが、綺麗な女性と座っていると一時間が一分に感じられるだろう?”(諸説あり)
と。
そう。
まさに今日、二月十四日というものは俺を含めた男性諸君にとってはそれと同様に感じられていた。
ことりからの連絡、今日はどんなものが貰えるのかを知っていた俺は就業時間を今か今かと待ち続けていたせいで時間が長く感じられた。
それに対して恋人がいない人たちはあっという間の時間だったと言っていたけど、今日は如実にそれが感じることができた。
「にしても……これはちょっとなぁ」
思わず、声が零れた。
女性ばかりの研究室から一歩飛び出せば廊下は男性研究員の巣窟だった。
好きだった女性にチョコを貰えて自慢しているやつに、何も貰えずにへこたれたやつ、それを慰めている何個か貰っているやつに、何もかもに無頓着でそそくさと帰るやつ。
それを後ろから眺めて笑い始める女性研究員。
まさにカオス、地獄絵図。
そんな景色いっぱいの廊下を何とか脱出し、ビルの外へ踏み出すとこれまた景色は真っ白だった。
ホワイトクリスマスから始まり、そして昨日の今日まで。
昨年はまったく雪が降らなかったからなのか、そのしわ寄せの様に嫌なくらいに雪が降っていた。
この時ばかりは自分が持ち家の一軒家を持っていなくてホッとする。
実家なんか敷地がそこそこあるから冬の雪かきは最悪なほどに疲れるし、規制しようものならすぐにそういうことに駆り出されるし。
それこそ、小学生の頃は雪だるまやかまくら作れるから楽しかったけど二十六にもなってそんなことは中々できない。
家でぬくぬくこたつの中でくつろいだ方が気持ちいしな。
まあ、とはいえなんだかんだ両親には感謝しているから体が勝手に動くんだけど。
「ふぅ……」
息を吐きだすとそれが白い靄となって空に浮かんで消えていく。
これは空気中の水蒸気が水滴に変わるためだっけか。南極ではこういうことが起こらないと聞いて、最初は驚いたりもした。
空気が多少汚くないとできないとかなんとか。
最近、こういう事柄が気にならなくなった。
大人になると、こういう不思議な現象が気にならなくなるって言うけど本当にそうらしい。
冬の北海道、雪景色の札幌。
喧騒を浴び、それを異に返さず生きていく人々。
自分もその一員になったんだなと思うと感慨深いと言うか。
でも、そうやって変わっていった俺の中でまた一つ変ったものがある。
「————
そんな雪景色の中で、ポツンと傘を差したままビルを背に立ち尽くす一人の女性がいた。
「ことりっ」
名前を栗花落ことり。
言わずもがな、俺の彼女。
出会ったのは高校二年生の夏終わり、そして別れたのが高校三年生の冬。
もう、一生会うことはないと思っていた彼女はある日、唐突に俺の目の前に姿を現したのだ。
まさに運命と言うか、定めと言うか、神様の悪戯と言うか。
でも、たとえ出会いがどうだったとしても彼女との出会いのおかげで俺は一歩前に進むことができた。
だから、神様には感謝してる。
もちろん、ことり本人にも。
「すっかり、名前呼びが慣れちゃいましたね」
「ん、まぁな。さすがに一週間くらい呼び合ってれば慣れるって言うか。でも呼び捨てはちょっと新鮮かな?」
「んふふっ。ですね、ずっと先輩呼びだったので新鮮ですよね」
というか、なんだかこの呼び方だと幼馴染感ある気がする。昔なじみの呼び方で結構好きだ。
「でもまぁ、先輩呼びも嫌いじゃないぞ?」
「そうなんですか?」
「あぁ、なんていうかその……所有欲? 支配欲かな? 擽られるっていうか……」
「しょゆう、しはい……っへ、変態」
唐突な俺の告白にことりは自らの身を包み込むような仕草をする。
それも事実で、立てる顔もなかった。
「面目ないな」
しかし、彼女はそれでも嬉しそうに微笑みながら、俺の袖を掴んだ。
「……でもその。私も分かります」
「え?」
そして、目を合わせずそっぽを向きながら、恥ずかしそうな声で呟いた。
「分かるって?」
「はいっ。だって、ずっと心配でしたから」
すると、握った俺の袖をさらに力を込めて自分の方へと引っ張り出す。決して強い力ではなかったけど、なぜか体は少しだけよろめいた。
「今日バレンタインですし、他の女性社員に渡されてないかなとか、それで私のよりも凄いの渡しちゃってるんじゃないかなとか。色々と」
ようやく一緒になって、そしてここからというところで不安と心配ももちろん脚を引っ張ってくる。
勿論俺だって不安はある、この先この関係は上手くいくのか、同棲とか、その先の結婚とか。
ついさっきまでホワイトデーのお返しを悩んでたくらいだ。
でも、ことりが俺に対して感じていた不安。
そして、 その理由はあからさまなまでの嫉妬だった。
「か、かわいい」
思わず、本音が零れる。
なんてったって、そんな不安がありかよって。
「か、かわ⁉ 私、すごく心配だったんですよ……ほんとに」
「すまん、でも嫉妬してくれてるのが可愛くて」
「か、かわ……いいって。褒めてもいいものは出てこないですよ?」
「別にそう言うわけじゃないって! 裏とか、何もなしで可愛いって思っただけだよ」
それに何より、悪態をつく割には顔が真っ赤だった。
口元もややほころんでいて、口角が少し上がっている。
見るからに嬉しそうな横顔だった。
「だいたい、別に貰ったとしても俺が本気で受け取るのはことりのだけだよ?」
「失敗しててもですか?」
「当たり前だろ。というか、あんなに料理ができることりがチョコ菓子作れないわけないし」
「は、ハードル上げないでください。作れますけど……」
「いや、失敗するのはそれはそれでギャップで最高かも?」
「ど、どっちですかっ!」
「ま、とにかく気にするな。俺はなんでも嬉しいんだよほんとっ」
「……あ、逃げましたね!」
「逃げてないって!」
「だって、どうせ貰ってるんじゃ……女性社員から」
否定はできない。
「……さ、さぁ?」
「あぁ!」
「じょ、冗談だって! いや貰ってるのは事実だけど、義理だし。毎年貰ってる研究室の女性社員で合わせて買ってるデパートのやつだよ」
「ほんとですか?」
結局、白状するとことりは疑ったかのように上目遣いで見つめてくる。
なんだかんだで冗談だと思っていたけど、しっかりと嫉妬してくれていたことに感心した。
「あぁ、ほんと。今はことりからのバレンタインチョコが待ち遠しくてたまらないよ」
「……な、なら、いいんですけど」
「おう」
「じゃ、じゃあ。その、私の部屋に来てくださいっ」
そうして袖を引っ張って俺の半歩先を歩き始める彼女。
わざとなのか、本気でやっているのか、結局のところは分からないけど。
ことりの仕草一つ一つがとても可愛く見える瞬間だった。
◇◇◇◇◇◇
「どうですか?」
「う、うまっ。なにこれ、お店?」
そして、あれから十数分後。
地下鉄に乗り込み、それから歩いて彼女の家に到着してソファーに座って待っているとことりが冷蔵庫から持ち出してきたのはかなりの大きさのチョコレートケーキだった。
「お店じゃないですよっ。わ、私が作ったんですからね」
「いやでも、これ結構凄くないか? デカいし、材料費とか……」
さすがにお店で売っているホールケーキほどの大きさとはいかなかったが、それを差し引いても盛り付けや中に入っている具を含めるとクオリティは最高だった。
チョコレートムースに、生チョコレート、上にトリュフチョコまで乗っかっていて切り込みを入れると中からはバナナにイチゴと果物ずくし。
考えてみたら分かる、不味いわけがない。
「そこまですよ。哉に喜んでほしかったので作ったんですから。金額は気にしなくて大丈夫ですっ」
「な、ならいいけど……って、ことりも食べないのか?」
「私は大丈夫ですよ。一週間前に一回作ってますし」
「いやでも、さすがに俺一人でこれ全部は」
「ま、まぁ言われてみれば確かに……でも」
「でも?」
すると、ことりは少し恥ずかしそうに俯いた。
「んと……その」
「その?」
「哉は……デリカシーないんですか?」
「え⁉」
「だ、だって、女子が食べないなんて理由は……ひ、一つだけじゃないですか」
えっと、ひとつ?
いや、考えてみてもことりに欠点なんて、食べない理由だなんて……あるわけがない。
別に太ってもないし、むしろ痩せてるし、ていうか俺はちょっと太めの方が好きだし。
「た、体重増えた?」
「——哉の馬鹿っ‼‼‼‼」
「うがっ⁉」
もちろん他意はない。
理由はなにかと聞かれたから答えただけなのだが、直後平手打ちが飛んできてた。
「……じょ、冗談だって。別に思ってないから」
「哉の馬鹿、アホ、変態」
「最後の関係なくないか?」
「だって、そうだもん……」
そうだもんってなぁ……それを言うなら、さっき部屋に入ったときに見たあれは何だったのかと言ってやりたい。
「それに、ことりは別に太ってるようには見えないし」
「お、女の子は数字に怯えてるんですっ! 見た目とかじゃないですよ」
「そうかなぁ……お風呂とか一緒に入るなら褒めるくらい自信あるのに」
「お、お風呂一緒はまだ早いです!!」
「……す、すまん、そういう意味じゃなく」
「変態っ」
さっきからめっちゃ変態って言ってくるな。
期待してるのか。
「だったら俺も聞くけどさ」
「なんですか?」
「玄関にあった赤の長いリボンはなんだったの?」
「……り、ぼん? ……あっ」
訊ねた瞬間、ことりの顔色が一気に真っ赤に変わった。
「え?」
「……は、はだか、りぼん」
「は、はい?」
「なんでもないです。良いから食べてください!!」
「ちょ、ははだかりぼんってなn—————⁉」
結局、その日のうちは彼女が言い欠けた”ははだかりぼん”の真相は知る由もなく。
翌日、ピクシブで見たバレンタインデーイラストで意味を知ることになるとは思いもしなかった。
”ははだかりぼん”ではなく”裸リボン”だったのだ。
『私が、哉のチョコよ』
あとがき
かぁぁぁあああああああああああああ!!!
変態はどっちだよってな?
というわけであとがきはお久しぶりです。藍坂いつきです。
カクヨムコン9の中間選考が発表されましたね。私の作品は二作品、本作品と短編作品が突破できました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
まずは突破出来て嬉しいです!
とはいえ、ここからですのでよかったらぜひコメント付きレビューの方をしていただけると嬉しいです!
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