第59話
◇◇◇◇◇
そして、仕事終わり。
俺が地下鉄の駅のホームのいつものベンチで座っていると後から、彼女がやってきた。
「お、お待たせしましたっ。先輩」
「よ、栗花落。すまんな急にさ」
何かあるわけでもなく、なんとなくで開いたSNSを眺めてから十分ほど。
そろそろ来るかなと体がそわそわとしていたところで、彼女がやってきた。
顔を上げるといつも通りの栗花落の顔。
ある程度化粧をして、手入れを欠かしていないのが分かる亜栗色の髪の毛。
会社ではかなりあるあるなのか、スーツでもないそこそこラフ目な女性の仕事着に身を纏い、その上から隠すように白色のコートを羽織っている。
まだまだ寒い二月上旬の夜風には当たり前の恰好を俺はふとまじまじと見つめていた。
しかし、そんな俺が謝っているのを見て呟いた。
「—―って、そんな他人行儀なこと言わないでくださいよ。別に、先輩に呼ばれたなら私はいつでも行きますよ?」
「はははっ、いつもそうってわけにもいかんだろ?」
「いきますっ。私、彼女なんですからね、先輩の」
栗花落はやや上目遣いで、それでいて偽りの胸を虚勢のように大きく張りながら”えっへん”とばかりに言って見せる。
「……っふ」
「あっ、なんで笑うんですかそこで!」
「いっ、いやまぁ。ちょっとな」
もうバレてるっていうのに、まだ胸にパッドなんか入れちゃって。
面白いというか、可愛いというか。
なんかそうしている彼女が愛おしくてたまらなく思ってしまう。
「ちょ、ちょっとって? なんだか、馬鹿にされてるような気がするんですけど」
「ば、ばかにはしてないって! ただその、可愛いなって」
「……いっ、いきなり……なんなんですかっ」
俺がぼそりと誉め言葉を囁くと栗花落はより一層、頬を赤らめた。
「ううん。ここまでかわいい子が彼女になったって、感心してるだけ」
「あがっ……は、恥ずかしいからそう言うこと言うのやめてください」
「言っちゃだめなのか?」
「別に。いい、ですけど。ば、場所が。周りに人だって」
「あ、あぁ」
そう言えば、ここは駅のホームだったか。
周りには会社帰りや部活帰りの学生が並んで次の電車を待っている。
電光掲示板を見ると”次の電車が前の駅を発車しました”と文字が流れていた。
「……だから、続きは家でお願いしますっ」
「そ、そうだな」
「夜ご飯、スーパーで買っていきますけど何がいいですか?」
「えっと、うーん。簡単なものでもいいよ、仕事で疲れてるだろうし」
「二人ともほぼ定時なんで、気にしなくてもいいですよ? それとも先輩の方は疲れましたか?」
「ん、いやいや。でもそんなに言うならお言葉に甘えて……」
「はいっ、どんとこいです!」
そして、彼女はまたない胸を強調させながらサムズアップした右手をその胸元に押し当てる。
だからこそ俺は少しだけ意地悪にこう言って見せた。
「—―――天ぷら、食べたいかも」
「え、て、天ぷら?」
ぽかんと目を見開き、それでいて驚いた顔を見せた彼女を引っ張ってちょうど停車した電車に乗り込んだ。
◇◇◇◇◇
「う、うまっ。マジでうまい……さすがだな、料理の腕っ」
「っそうですか、まったくもう」
時間はとっくにゴールデンタイムが過ぎていた。
お互いにテーブルを挟み、付き合ってからは特等席になったこの場所に座って栗花落が作ってくれたご飯をいつも通り食べている。
しかし、彼女はと言えばどこか呆れた表情で俺の顔を見つめていた。
俺からの無茶ぶりを振られた彼女は俺と共に近所のホームセンターやスーパーを駆け巡り、やっとの思いで出来上がった――という時間を込みで機嫌がやや悪いらしい。
「おいおい、そんな顔しなくてもいいだろ?」
「……だって、いきなり天ぷらが食べたいとか言い出すからですよ。いきなり、ほんとにいきなりっ」
「誰だよ、なんでもいいですって言ったのは?」
「気にしなくていいよって言ったんです」
「それを言うなら、俺は簡単なものでもいいって言ったんだけどな?」
「あぅ……い、言い訳、屁理屈ですっ」
自分からこっちの穴を狙って言い放ったのに、いざうまく言い返されれば全く反撃はできずそのまま墓穴を掘り始める。
そんな姿がやっぱり可愛くて揶揄いたくなるのは俺の性格が悪いからだろうか――と考えたくなるのだが。
生憎と今日はそういうわけでもない。
ただの弱さ。
久遠の前では”なんでもない”と明言したというのに、いざこうして顔を見てしまうと俺はなぜか言えなくなっていた。
—―そう、名前を。
「おいし……」
「自画自賛」
「ほぼ毎週、というか毎日私のお弁当作ってるのならそのくらい当たり前だって分からないんですか?」
「っそういうこと、自分で言うのか?」
「い、意地悪ですよ。先輩ばっかり、私のこといじめるから」
「意地悪になるのか、それは?」
「なります。彼氏なのにそのことも分からないのかって」
あぁ、ちょっと栗花落拗ねてる。
どうやら揶揄いすぎたらしい。
ムスッと頬を膨らませ、彼氏なのに彼氏なのにとぶつぶつと小声を呟き始めた。
「あ、あぁ……すまん」
ただ、なんとなくその拗ね方は俺の胸に少しだけ刺さった。
さっきからどうしても勇気が出なくて呼べない名前を、どうしても言ってほしいと言われているような気がして。
実際、栗花落の方はどう思っているのだろうか。
昔、付き合ったときに名前で呼ぶことを拒絶したくらいなんだから呼ばれたくないと思っている可能性の方が高い――と俺は思っている。
ただ、久遠の言うように女子なら誰でも言われたいって。
どっちなんだろうか、やっぱりいかんせん浮かばない。
お父さんの件だったり、俺たちが伝え合う時だったり、いざというときには体が勝手に動くのにこういう時は全く動かない。
意味もなく、くだらないところで情けないやつなんだなって自分でも思う。
我ながら、こういうところだけは高校生の頃から変わってないことをヒシヒシと感じさせる。
「—―」
そして、栗花落は続けて黙りこけた。
これまた、さっき膨らませた頬のまま。
「お、おい、栗花落?」
俺が名前を呼んでも彼女はその頬のまま、目を合わせない。
そっぽを向いて、目を合わせないように視線を逸らしながら、目の前の天ぷらと白米を口の中へかき込んでいく。
「ん、ん……」
噛んでは飲み込んで。
そして、箸をつついて、また食べて。
「ちょっと、栗花落。悪かったって」
いじめすぎた。
だからといっても、栗花落は視線を逸らしたまま。
「んっ……んっ!」
「ちょ、栗花落っ」
「—―っ」
俺が名前を呼べば呼ぶほど、彼女は息を荒くして。
そして、ついに箸を止めて、ムスッと機嫌の悪そうな顔を俺へと向ける。
「っ」
「つ、ゆり……」
「—―っ!」
でもその顔は、怒っているように見えなくて。
どこか嫉妬心のようなもので、栗花落はしびれを切らして呟いた。
「栗花落栗花落って……うるさいです」
「えっ」
俺が声を出すと、栗花落は身を乗り出した。
そして、さっきまで合わせなかった目を見つめてきた。
「……つ、栗花落って……違いますっ。私の名前、違いますっ」
「えっ……あ」
そう、その理由は俺がいじめすぎたからとかではなく。
さっき、俺が俺の中で消化しようとした。
—―逃げていたものだった。
「……ことり」
「っ」
「ことりっ」
「な、なんですかっ」
虚勢を言葉では紡ぎながら、体は跳ねて。
「ことり」
「っ……」
黙りこけたかと思えば。
「こ、とり?」
「も、もっと呼んでくださいっ」
もっととねだり始めて。
「こ、とり」
「もっと」
「ことり、さん」
「さん、いらない」
注文まで付けて。
「ことり」
「……せんぱい」
自分のことは棚に上げた。
「おい」
「…………はじめ、せんぱい」
まだぎこちなく。
「ん」
「は……は、はじめ」
そして、形勢が逆転する。
「っ」
「はじめっ」
「ことりっ」
まっすぐ目を見つめ、近づいて。
「哉」
「ことり」
名前を呼びあった。
そして、直後。
言わずもがな。
これでもかというくらいに縮め合った距離感で、そのまま彼女しか見えなくなった俺は。
俺たちは――――名前を呼びながら、口づけをした。
◇◇◇◇◇
「……って、ことりが嫌がったかのような顔したからさ」
「えっ、私、そんなことしてたんですか?」
「あ、あぁしてたよ? だからちょっとトラウマだったんだよ」
「……そ、それは、すみません。でもっ、そんな昔のこと……抱えなくててもっ」
「それは俺たちが言ってもいいのか?」
「うっ、まぁ……そう、ですけど」
「ていうか、敬語はやめないのか?」
「なによ、哉」
「……あ、あれ、もうちょっと優しくないのかため口って」
「自分で言って何よ、哉のバカっ」
「バカって……いうな」
「バカバカバカ」
「あぁ――――」
午前1時。
お風呂も入り、寝る身支度を済ませた俺たちは一緒のベッドに入って振りかえ合った。
なんで名前で呼んでくれなかったのか、その理由だったり、なんで名前で呼んでほしくなったのか、その理由とかを。
「哉のバカ」
そして、今の俺は。
「分からずや」
昔のことりも、こんな感じで噛みついてきたなと過去の記憶を刺激してくるようで。
「…………哉、好き」
ことりにため口で話しかけられて、貶されて、攻められて。
俺は。
認めたくないけど、嬉しがっていたようだった。
—―そう言えば、明々後日にはバレンタインなんだな。
あとがき
卒業発表、卒論とも終わり。
そして、二か月半間かけてWhiteAlbum2オールクリアしました。
すごく長かったけど、少なからず僕のこの作品に影響を与えてくれましたね。
すごかったです。最高。時間がある方はやってみてみてください、後悔はしませんよきっと!
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