第58話



◇◇◇◇◇◇




「……だ、だって先輩が」

「だってって。何もまんざらそうではなさそうな顔で言いやがってこのこの~~バレンタインの話がいつの間にか惚気自慢大会になってるわよ?」


 平日のなんでもない、いつも通りのお昼休み。

 私たちはビルの食堂でお弁当と定食をつついていた。


「そんなこと言ったら……純玲もでしょ」

「うちはいいのっ! 自慢してるからねーん」

「じゃ、じゃあ私も自慢よ」

「へぇ……」

 

 最近はどうなの? とバレンタインに向けてのお互いの進捗報告がいつの間にか拗れてしまったためか。

 あの日に白状しなかった秘め事を素面の純玲に意図も容易く言い当てられていた。 


 別にどうせすぐにバレると分かっていたし、いつかは言うつもりだったけど数日でバレるとは考えてもいなかった。


 もちろん、目の前に座る純玲はニマニマと口角を歪め、ジト目を向けてくる。


「だ、ダメ?」

「別にぃーー。ダメじゃないけどね?」

「けどねって、何よ?」

「いやぁ、言っていいの?」


 すると、彼女は途端にもったいぶったかのように尋ねてきた。

 空気を読んでいるんだろうけど。

 別に、そういうキャラでもないから読まなくてもいいのに。


 なんだかんだ色々と分かっているくせにこういうところがあるのはちょっと嫌いなところだ。


「い、いいわよ。何?」

「んとね……」


 そして、一息つき。

 大きく空気を吸い込んでまるでため息の様に呆れた顔で呟いた。


「まだまだ名前呼びできない関係が自慢かってね」

「っ」

「あら、反応あるってことは効いてるってことかな?」

「……う、ぅ……別に」


 別になんでもない。

 とも言えない私。


 無論言うまでもなく図星だった。


「まぁまぁ、二人とも色々あったし無理にとは言わないけどさ? せっかく結ばれたんだし、そろそろいいんじゃないかなって?」

「……い、いいのよ別に! 私たちは私たちの速度があるんだし」

「へぇ、ま、ことっちがいいのならいいんだけど」


 速度、か。

 別に無意味に急ぐ必要はあまりない。


 でもやっぱり、名前で呼ばれたい私もいて。

 それを言い出せない私がいて、ちょっと辛い。


 ことり。

 ねえことり、味噌汁美味しかった。

 ことり、行ってくる。


「あ……あぁ」


 染み渡る。

 考えているだけで頬が朱に染まり、みるみると熱くなっていく。


「どしたん、急に?」

「……何でもない」


 でも、先輩って言って欲しい時に言ってくれる人なんだよなぁ。

 って、なぜだか信じきってる私もいたのだ。


 でもやっぱり、クリスマスのことと言い、正月明けのことと言い。

 なんだかんだで頼りがいのある先輩だからこそそう思ってしまうんだろう。


「それならいいけど……あ、そう言えば今日はうち、先に帰るから」

「知ってるわよ。それに、いっつもでしょ」

「あははは〜把握されてる〜〜、ストーカー?」

「な訳ないでしょうがっ」

 

 くだらないツッコミを食らわせ、時計を確認すると時間はすでに十二時四十分。


「よし、それじゃあ戻るわよ」

「はい、次期主任~~」


 もはやあだ名にツッコミすら忘れ、席を立ち上がりデスクへ戻る。

 途中トイレに抜け出した純怜を置いて、戻ろうと廊下を歩いているとスマホが振動した。


『今日、仕事が早めに終わるから俺の家に来ないか?』


 ほら。

 と、こうやって求めてる時にきちゃうんだし。


『大丈夫です! 待ってますね!』

 


◇◇◇◇◇



「そういえば哉さんって栗花落ちゃんのこと名前で呼んだりしないんですか?」


 それは今日のお昼のことだった。

 この前の学会発表にて途中で抜け出した俺に課されていた報告書や、諸々の書類の修正を一週間程度でなんとか終わらせ一息つけるようになった週初め。


 昼休み中にも仕事をやる必要もなくなり、ようやくゆっくり食べれると思っていた俺をわざわざ第二研究室から呼び出しに来たのが久遠だった。


 そんな中、なぜか俺が奢る話になり近場の定食屋へ足を運び、付き合ってから何をしたのかとか強制的に惚気話を話させられて落ち着いた頃。

 

 久遠はお冷を啜りながらそう言った。


「名前……あっ」

「あ、って。もしかして把握してなかったんですか?」

「あ、あぁ。そう言えばそうだったな」

「マジすか、哉さん」


 言われてみればそうだった。

 あまりにもいつも通り過ぎて気づきもしなかった。


 そんな俺の反応に久遠はあからさまに引いた視線を向けてくる。


「ちょ、なんだよその顔」

「い、いや……哉さんがそこまでの恥知らずだったなんてと思いまして」

「恥知らず⁉ そこまで……か。いやまぁ、そうだよなぁ」

「そうだよなぁって、いいんですか呼ばなくて? 付き合い始めたのに」


 恥知らずは言いすぎだろと驚きつつ、ただ言われてみて確かにそうだなと悟った。


 何で栗花落のことをことりと呼んでいないのか。

 あまり意識したこともなかったが確かに俺は彼女をそう呼んではない。


 というよりも。

 本当に意識すらしていなかった。

 別に他意はない、ただ。


「—―なんていうか、その。俺って昔からずっと栗花落呼びだったからさ」


 そう言うと目の前に座る久遠は米粒を口の端につけたまま、目を見開いた。


「ずっと、すか?」

「あぁ、ずっと。出会ってからずっと。高校の時も、あんまり名前を呼んだことなくてさ。ていうか米粒ついてる」

「……あ、すんません。って、マジすか?」

「うん。嘘はついても意味ないだろ?」


 よく考えたらちょっとおかしいことだったかもしれない。

 おかしいと言うよりかは、あまりにも純情すぎるというか。

 熱烈なキスまでしておいて、変わりすぎというよりか。


 言った通り、俺は今までおそらく”ことり”と呼んだことはなかった。

 正確に言うのなら、俺は”ことり”と呼んだことはなかった。


「で、でも……元カノっすよね彼女? だったら普通は言わなくないすか?」

「まぁ、な。さっき気付いたけどそうだよな。ていうか今も彼女な?」

「そこは気にするんすね」

「気にするだろ! 俺の彼女だぞ、栗花落は」

「あ、苗字。なんでなんすか、理由はありますよね?」


 勿論ある。

 なんで一回だけ呼んだことがあるかも含めてある。


 別に特段深刻な話でもないし、絶対に誰かが傷つくようなものでもないけど。それがあってから、特に高校の時は呼べなかったというものがある。


「……まぁ」

「教えてください、哉さんっ。僕、相談に乗りますよ!」


 俺が頭を上下に振ると、久遠はいつにもまして食いついた。


「なんでいつにもまして前向きなんだよお前?」

「いや、だって栗花落ちゃん可愛いっすし――」

「……」

「あ、いや、冗談っすよ?」

「……っ」

「冗談でもないですけど……」

「……!」

「どっちにすればいいんすか、哉さん」

「まぁ、冗談。でもどうしてそんな前のめりなんだ?」


 少し冗談も挟みつつそう尋ねると帰ってきたのは久遠にしては安直なものだった。


「それはまぁ、純玲ちゃんの友達っすからね。大事ですよ、僕も?」

「……っ」

「え、なんすか⁉」

「少し感動したっていうか。すまん」

「すまんってなんすか! なんかディスられてないすか僕」

「いやいや、そういうわけじゃないって。ただなんかな」


 久遠の成長っぷりに少しだけ驚いてしまった。

 一体、三澄さんは彼に対して何をしているのか知りたくなってくる。こいつは初めて会った時から色々と高スペックなのに女性への価値観がおかしかったからな。


「って、そうじゃなくて……どうしてなんすか?」

「あぁ、いやな――」



 ――というわけで、俺はその理由を話した。

 


 それは高校二年の秋、俺と栗花落が付き合い始めて一週間とかの頃。

 栗花落に声を掛けようとしたとき。

 

『つゆ――――ことり!』


 意を決して名前を呼ぶことにしたんだ。

 付き合うことの「つ」の字すら分からなかった俺は色々とネットで調べ、女子のことは名前で呼んだ方がいいと検索結果が出てきたから。


 なんていう安直な理由で。

 まぁ、単純に呼びたかったっていうのもあるけど。


『え、ど、ど、どうして急に名前……?』


 ただ、そんな一大決心をした俺に対して、彼女は振り返りながら引き気味な顔を浮かべられたのだ。


 ほんとにくだらない話かもしれないけど、なんだかその時の顔が忘れなくて……ってわけでもないけど。


 多分、深層心理で悩んでいる俺がいたのかもしれない。

 だからこそ、自然に名前が出てこなかったはずだ。

 名字で呼ぶのが普通だと思ってしまっていた。


「—―――てなわけでさ」

「……っふは!」


 すると、久遠は少しだけ黙った後に、馬鹿笑いを浮かべた。

 それも、腹を抱えて。さっきまでの感動がどこかに消え去ったかのように。


「お、おい……どうして笑うんだよ」

「い、いや、あまりにも臭くてっ……ふは、ははははは!! なんとも哉さんっぽい!」

「く、くさ⁉ 何がだ、俺は臭くないぞ!!」

「いやいや、この……なんというか、いままで感じても来なかった懐かしい思い出がよみがえるっていいますか。純情にもほどがあるっぷは……ど、童貞っすもんねぇ」

「んぐ……う、うっせぇ。悪いかよ!」

「……ははは、はは、はぁ…………それは、その、なんっていうか」


 クスクスと笑みを浮かべ続ける。

 それがむかついて、足の先を踏みつけた。


「っふん!!」

「あが⁉ いっ~~な、何すんすか!!」

「何って、馬鹿にして笑ってるからだよ。腹立つ」

「……ぱ、パワハラで訴えますよ?」

「そこまでじゃないだろ。ていうか、馬鹿にするな」

「普通に痛かったし……馬鹿にも何も、だって大人になってそんなこと引きづるなんてねぇ~~~~あ、いや、あり得るか、この人なら」


 真面目に言っているつもりが久遠は一人で呟き、急に考え出したかと思えば真剣な眼差しで途端に悟ったかのように言い出した。


「おい、やめろ。一人で解決するな」

「解決してないっすよ。あり得るなって思っただけっす。んま、でも、やっぱり呼んでほしいもんなんじゃないんすかね?」

「……そうかなぁ、まぁ呼んでもいいんだけどさ?」

「なら呼びましょうよ」

「そ、そうか」

「はいはい、今から送っちゃう!」


 そうして、その後。


『今日、仕事が早めに終わるから俺の家に来ないか?』


 とラインを送ることに至ったのだった。

 





あとがき

 たまには二人をイチャコラさせたい!

 純情すぎるけど( ´∀` )

 


 





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