第36話

 —―なんて、身勝手なことできるわけないじゃないか。


 キスをしそうになり、ほんの少し。

 やがて、触れた場所は唇ではなく。



 熱に焼かれる真っ白なだった。


「……いつも、ありがとうな栗花落。好きだぞ」



 告白は今じゃない。

 栗花落が元気になって、それで余裕ができたときに絶対に告げるのだから。



「……………………っ寝るまで、待つか」





◇◇◇◇





「あの……ぱぁ……い?」


 あれ、そう言えば俺……何してたんだっけ?


「っぅ……ぁぁ」

「あのっ……せ、先輩?」


 うっすらと朧げな視界から、ぼやけた視線が俺を覗いていた。

 目が覚めない、覚めたのか覚めたか分からない微かに保てている意識の向こう側から誰かが肩を揺らすのが見えて、振動とその温かさを感じる。


「っな、なんだぁ……?」

「だから、もうお昼ですっ。起きてください……先輩?」


 先輩?

 俺の事をそんな呼び方をするのは一人しかいないが、どうしてこんな休日の朝っぱらから彼女がいるんだ?


 疑問と疑惑と、そしてまだ覚めて切っていない意識をなんとか引きづり出す様に目を擦る。


「あ、あぁ……栗花落?」


 目の前にいたのは栗花落ことり、俺の事を先輩と呼んでくれる元カノであり、後輩の彼女だった。


「ようやく起きましたね。一応、朝ごはん用意しているんですけど……食べますか?」

「っえ、あぁ……」


 擦ると徐々に明らかになっていく視界。

 俺が答えると、その足音がどんどんと遠ざかっていく。


「っな、なんで……栗花落が」


 疑問に思いつつも、ゆっくりと目を開いていくと見えてきたのは見覚えがまったくな一室だった。

 いつも俺が寝ている殺風景な部屋ではなく、可愛らしいぬいぐるみやモフモフの絨毯などが敷かれた変わった寝室。


 そういえば、そうだ。

 俺は栗花落の家で一夜を過ごしてしまったんだ。


 日付は十二月三十日、それも十一時。

 ほぼ昼、久々にここまでの惰性を貪ったな。


 まぁ、今日から年末年始のお休み。たまにはこう言うのもいいけど。


「っうぅ……あぁ」


 腰の痛みを我慢しつつ、体を起こそうとすると肩から何かが落ちていく。

 毛布があった。


 

 かけてくれたのは栗花落、だろうか。

 まったく、朝起こしに来てくれて、朝ごはんまで作り、それでいて毛布まで掛けてくれているとはなんてできた人なんだ。

 やっぱり、色々言ったけど嫁にもらいたい。


 って、あぁ、そうじゃないな。

 そういえば、なんで俺はこんな場所で寝ているのかだ。

 日付が三十日ということを考えてみれば、寝落ちしたのは二十九日。記憶では仕事納めで忘年会があった日だ。

 いつもよりも少しだけ長くなった仕事を終わらせて、研究部のメンバーで居酒屋にお邪魔してそのまま始まった忘年会。


 それで、確か三澄さんから連絡がかかってきたんだ。

 栗花落も栗花落で忘年会があったのだが、仕事での無理とか諸々が原因で倒れてしまったらしく……そして俺がその連絡を受けてこの場にやってきたと。


「……」


 それで、三澄さんに騙されて実は栗花落は微熱で、微妙な味のお粥作って食べてもらって……。


 それから、家事をした。


 で、あぁ……っとやばい事思い出したぞ俺。

 栗花落がガーターベルトの下着来てたという事実に気づき。


 結果、栗花落から帰るなと言われてそのまま。



 そのまま、そのまま、あれ、そのまま……。


「っ……ぁぁ」


 そうだ。

 額にキスしたんだっけ。

 あの熱く濡れた唇に目を奪われ、危うくそのまま彼女の貞操も何もかもを貪ってしまいそうになった俺の手を止めたのは紛れもない彼女の目を瞑った表情だった。


 健気で、律儀で、いつも気づかいがあり、それでいて強いところも弱いところを見せてくれる彼女。


 そんな彼女の気持ちをないがしろにはできないと。気持ちが働いた。


 って、でもキスしてるんだよな額に。

 栗花落が起きてたらどうするんだよ、まったく。



「せんぱーい、早くこっち来てください!」


 冬の眩しい日差しに目を閉じ、逡巡しているとリビングの方から栗花落の呼ぶ声が聞こえてくる。

 

 色々しでかしてしまったことは仕方ないし、やっぱりどんなに考えても寝ている彼女の唇を奪うのは良くなかったはずだ。


 慎重すぎないまでも、やや慎重に。

 結果、生まれた答えがそれだったわけで。


「ん、すまん。すぐ行くよっ」


 栗花落とのこの一日一日を大切にしていこう。


「食べちゃいますよ~」

「行く行くっ」


 重たい腰を上げると、一気に圧し掛かるお尻の痛み。

 やはり、床に腰かけて寝るのはさすがに体には負担しかなかったようだ。


「……ふぅ」


 ゆっくりと立ち上がり、そして背伸びをする。

 抜けていく疲れと、新たに始まった年の瀬に若干の期待を抱きつつ。


 俺はせかされながらも、いい匂いにつられて寝室を後にした。




◇◇◇◇





「ふぅ」


 寝室から出ると栗花落の言う通り、ラップで包まれたご飯が食卓を埋め尽くして出汁巻き卵に時間からして昼食も兼任しているのだろう。

 朝食用の出汁巻き卵に、かつおだしが効いたわかめと舞茸の味噌汁。そして、鮭のムニエルにヨーグルト。

 普段なら確実に食べることがない料理に喉を鳴らしつつも、目的はそれではない。


「先輩、そっち座ってください」

「あ、あぁ」


 彼女の申し出に答えて、俺は栗花落とは反対側の席に腰かける。


「なぁ、熱はもう大丈夫なのか?」

「はいっ。おかげさまですっかり治りました。ありがとうございます」


 俺が尋ねるとにこりと微笑み、さっき測ったと見られる体温計を見せてくる。

 ディスプレイには昨日の微熱から「36.5℃」と平熱を示す数値が写されていた。

 どうやら、本気で具合は良くなったようだ。


「そ、そうか。なら良かったけど、でもあんまり無理するなよ? 本調子じゃないんだし」

「っ分かってますよ、そのくらい。私も自分の体調くらいは管理できます」

「いや、それは体調崩した栗花落が言う話じゃないと思うんだけどな」


 自信もって「えっへん」と言わんばかりに胸を張る彼女。

 しっかりと元気にはなってくれたようだが頑張りすぎるところがある彼女からして不安だ。


「むぅ……もう、作りませんよ絶対に」

「すまんすまん、つい、な?」

「そうやって……まぁ、でも今回は正直私が悪かったですしね。すみません」


 どこか嬉しそうに頬を膨らませると、彼女はぺこりと頭を下げた。


 正直、以前俺が倒れたときのことも思い出して、悪いことしたんだなと思ったくらいで、俺が何か言える立場ではない。

 申し訳なさそうに言う栗花落の肩に触れ、顔をあげさせる。


「仕方ないって、栗花落も次期主任なら忙しいんだろ?」

「……先輩も言うんですか、そのいじり」


 と、元気づけようとしたつもりが彼女から向けられたのはジトッとした冷たい瞳だった。


「あ、え……別に、いじったつもりはないんだけど」

「ほんとですか?」

「そ、そりゃ、ほんとだよ」


 むしろ、自分でもリーダーを最近やったけど。

 その辛さはよく分かる。後輩の面倒を見つつ、それでいて上にも頭を下げる。常人ができることではない。


 俺よりも年下なのに、そんな責任の多い仕事を任されている栗花落は尊敬する以外の何物でもない。


「……き、昨日から……なんですか、もぅ」

「え?」

「なんでもないですっ。うるさいですっ」

「んな、理不尽な」

「いいですから、ほら。冷めないうちに食べましょう?」

「ま、そうか」


 不服のようで頬を膨らませる彼女に、苦笑いを浮かべつつ手を合わせる。

 いただきますと合掌し、そして出汁巻き卵をパクリと一口で口に入れる。


「—―ん、美味しいな」

「それは、どうも……」


 いつもの、変わらない美味しい味を舌で感じ、溢す。

 ポーカーフェイスをして、自らも卵焼きを食べる彼女の耳はやや少し赤くなっていた。


「ありがとな、栗花落」

「っ……は、はい」


 そして、感謝を告げると彼女はより一層頬を赤くさせる。

 困惑の表情を浮かべつつ、何をするかと思えば彼女はやけ食いをし始めたかのようにお茶碗で顔を隠した。










 それにしても栗花落、なんであんな顔赤かったんだろう。

 





あとがき

 あげて落としてほんとすみません。

 してみたかったんです。

 それと、前話の最後やや変えました。ネタバレもしたというところで。


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