第54話





◇◇◇◇◇




「えっ――――」


 絶望的だった。

 エレベーターが来るまで十秒、乗ってから十数秒、降りてから数秒。

 たった三十秒程度の時間でも、確実に母の部屋まで入れる十分な時間があった。



 でも、あの人は病室に入らず、その目の前で立ち止まっていた。



 —―いや、立ちすくんでいた。



 目の前に立ちふさがる一人の男とよく見る腐れ縁の親友によって、身動きを取れず。


 そして、三人は音の鳴ったエレベーターから出てくる私の方を見つめ、そのうちの二人は私へ手を振ってきた。


「栗花落!」

「ことっち!」


 その呼び方をするのはたった二人だけ。

 二人それぞれの呼び方だけど、浸透しているのそれぞれ一人ずつ。


 ジャケットを片腕に掛け、季節には合わないワイシャツ姿の藻岩哉先輩と。

 昨日の仕事まで一緒だった親友であり、同僚の三澄純玲。


 私にとって気の許せるたった二人の友達が経っていたのだ。


 何が起きたか、さっぱり分からなかった。

 目の前にいる二人は認識しているし、その二人によって道を塞がれて動けず仕舞いの父親が立ち尽くしているのも見えている。


 ただ、その現実が私には信じられないことだった。

 

 このことは二人には言っていない。何しろ、母にも。もっと言うならば誰にも言っていない。

 あくまでも私の中での話。

 私が、私一人で片づけようとしていた話だったから。


 何よりもこの二人にまたしても迷惑を掛けたくなかったから言わなかった。

 

 純玲は初めてできた彼氏との時間があったし、先輩は月末に仙台で行う大事な学会を控えていた。


 そのことは再三聞いていたし、その頑張りは先輩の家に行けばよく見られた。

 仕事を頑張りすぎて倒れたのも見たし、純玲の彼氏で同僚の久遠さんから幾度も話をされた。


 そんな中、こんなことを相談してしまえば先輩や純玲に被害が及ぶかもしれない。

 そこまでいかなくても、二人は全力で私の見方をしようと尽力してくれる。


 だから、言わないように、悟らせないように振舞っていたつもりだった。


 なのになぜ、純玲は、先輩は――二人はここにいてあの人を止めるように働きかけているのか。


 そんな疑問が頭の中を巡り巡った。

 

「だ、大丈夫か?」

「先輩っ」


 駆け寄ってきたのは先輩のほうだった。

 今にも倒れかけている私に寄り添うように、すぐにやってくる。

 

 夢なんじゃないかとさえ思った。

 でも、胸が高鳴り、バクバクと痛みを抱えるほどなっているのを感じる。


 それだけで、夢ではないことは理解できた。

 事実目の前にいる先輩に縋るようにして、尋ねた。


「どうして……ここに。先輩っ、仙台にいるんじゃ‼」


 夢でもなく、事実だけど。

 日曜日まで仙台にいる話だった。

 月曜の夕方にこっちに戻ってきて、それで一緒にご飯を食べに行く約束だったのに――なぜか先輩は土曜日の今日に、こっちにいる。


 そして、こっちにいるだけでなく私の目の前にいた。


「今朝、帰ってきた」

「えっ」


 しかし、先輩はなんでもない表情で、あたかも当たり前かのように呟いた。


「いや、でも。なんで……学会は」

「途中で抜け出してきたんだよ。んま、俺の発表は明日の昼頃だからさ、大丈夫」

「大丈夫って、でも上司とか後輩とかに」

「声だけ掛けたから大丈夫だよ、多分—―それよりも、今は栗花落の方だろ?」

「あっ」


 この状況は先輩だったヤバイはずなのに、そんなことすら意に返さずあの男の方へ眼を向けた。


「話は聞いたよ」

「聞いたって、誰から?」


 聞いたも何も、誰にも話していない。

 今回の件は何にも。


 まして、先輩には離婚のことすらあまり話してすらいない。

 なのに、誰からこの状況を聞いたなんて。


「愛華さんだよ。三澄さんに連絡とってもらってさ。んまぁ……推測だったんだけどな」

「でも、お母さんは……そんなの」


 昨日、お見舞いに行ったときそんな素振りなんてなかった。

 むしろ、私が隙を与えて墓穴を掘ったから。


「栗花落、いい加減頼ってくれよ」


 やらかしたはずなのに、先輩は私の手を掴みそう呟く。

 

「た、頼るって……でも」

「でもじゃない。いい加減だよ、栗花落」

「いや、でもこれは私の――っ」

「私のが何だ……どうせ、家族の話だからとか言うんだろうけどさ。俺ら、そんな程度の仲なのか?」

「で……でも、これはやっぱり」


 先輩は優しい。

 言ってしまえば、こうやって私が嫌でも割り込もうとする。

 だからこそ、言わなかったのに。


 でも、そんな迷っている心情をかき消すかのようにこう言った。


「—―俺、栗花落が好きだから何でもしてあげたいんだ」

「…………へぁっ⁉」


 途端、唐突、いきなり、衝撃。


 今、先輩……なんて言った。

 


”好きだから”



 って言ったわよね。


 わ、私のことが……やっぱり、好きって。

 そうだよね、前、前ははぐらかされてなぁなぁになってしまったけど、今はしっかり好きって‼‼



「お、お前ら、一体誰なんだ⁉ というか、愛華さんとか言ったよな、さっき。どういうことだ⁉」




 —―なんて、ドキドキし始めた私を一気に現実へ引き戻すあの人の声。



「っふ。んま、俺らからできるのはここまでだからさ、話をつけるのはやってくれ。三人で」

「っわ、分かって……三人?」


 その違和感に気づいた私よりも先に、先輩は母の病室の方へと指を差した。

 すると、すぐにその指さした先の扉が開き――中から出てきたのは。


「お、お母さん⁉」


 当たり前、と言われたら当たり前。

 母のいる病室から母が出てきたのだから。


 ただ、この状況で。

 あの人がいる前に飛び出してきた病衣を着た母が出てきたのは驚きで、目を疑った。


「ことりちゃん、ごめんね。お母さんのせいで」


 出てきた、一度目の前にいるあの人を一瞥した後。私の目を見つめ、悲しげな表情を浮かべる。

 ただ、これはお母さんのせいではない。

 何でも自分勝手な父親とも言えないあの人と、そしてすべて請け負おうとしていた私のせい。


 だと言うのに母は重苦しい表情で呟いた。


「いや、そんなことはっ……でもなんで。あの人が」

「いいの。あなたに対して、あんまり母親らしいところできなかったし」

「できなかったなんて私はそんな! だって、背中を押してくれたのはっ……お母さんで」

「ううん。あれは、ことりちゃんが頑張ったんだから。だから、今日は母親らしいところ見せてよね」

「お母さん……」

「守らせない、たまにはね」

「っ……」


 結局、そこまで言われてしまえば私も何も言えなくて。

 その場から、離れることしかできなかった。


「言ったろ、愛華さんにも話を聞いたって」

「……先輩」

「なんだ?」

「ありがとう、ございます」

「あぁ、でも愛華さんと三澄さんにも言ってあげてくれよな」

「はい……」



◇◇◇◇◇


*第二章エピローグ*


 そして、その日の夕方。

 一件は落着した。

 あまり詳しいところまでは聞いていないが、一度話をつけた母が再び栗花落を呼び戻し、最後は三人で会話をしたらしく。

 あの父親があきらめず「せめてことりだけでもなんとか」とすり寄ってきて、そんな元父親の股間を蹴り上げたらしい。


 極めつけには「あんたの顔なんか一生見たくない」と言い放ち、今度近づいたら警察案件だと念を押されて何もできずに帰ったとのことだった。


「—―すみません。いや、ほんとに、明日の朝には帰れるかと思うので」


 と、事の顛末は何とかなったのだが。

 俺はと言うと、大目玉を食らっていた。


 何せ、出張中に急に飛び出したのだから。

 仕事中に家に帰るようなものだ。

 公私混同もいいところ。


 もちろん、こっちに戻ってくるためのお金は自腹のつもりで出かけたがそう言うことではなく。


 電話口の鮎川さんは俺の言い訳と理由を聞くだけ聞いて納得はしてくれたが、こう一言。


『……だから、なんだい?』


 と。

 俺に言い返せる手段も事柄もなく、ただただ平謝りを繰り返すだけ。


「すみません、今度奢るので許してください」

『そういうことじゃないから。まぁ、明日の朝気を付けて戻ってきなさい』

「わ、わかりました」

『それじゃあ。私は田中さんと念のため打合せしておくから、打ち合わせしたらメールで送っておくからね』

「ありがとうございます!」


 —―ブツ。

 そうして、電話が切れる。

 

「っはぁ……」


 漏れるため息、そして背を預けるとギリギリとなる古めの椅子。


 現在、俺は駅前のビジネスホテルに滞在していた。

 一度、家に帰り、泊まることも考えたが明日の昼過ぎまでには仙台のホテルまで行かなくちゃいけないことを踏まえると、すぐに列車に乗れるここしかなかったのだ。


「—―先輩、これを」

「ん、あぁ、ありがとう」


 なんて疲れを見せてしまったがためか、栗花落は背後から俺の目の前に温かいココア缶を持ち出した。

 頭を下げて受け取ると、彼女はベッドに腰かけた。


「この度はすみませんでした」


 俺がココア缶を開け、喉へ流し込むとすぐさま頭を下げてくる。

 今更、何をかしこまっているのか肩を叩いた。


「いやいや、気にしなくていいからさ」

「でも、今回は先輩のおかげっていうか……私は、本当に、助けてもらってばっかりで」


 しかし、肩を叩いても栗花落は顔を持ち上げることはなかった。

 むしろ、元気づけようとする俺の笑みを見ると居心地悪そうに苦笑する。


「本当に、何をやってるんでしょうかね。私は」

「いいこと、してたと思うぞ?」

「い、いいことって……先輩、慰めるの下手ですか」

「否定はできないけどなぁ」

 

 そう突っ込まれて何も言い返すことはできなかった。


 ただ、何をやっているか、そう訊かれたら答えはそれしか思い浮かばなかった。

 愛華さんから聞いた話だったり、栗花落から聞いた話だったり。諸々総じてみても、彼女は自分なりに頑張っていた。


 家族のトラウマともなる相手に対して、最後まで守ろうと奮闘していたんだから。誰も咎められるわけもない。


「でもさ、頑張ってたじゃん。頼ってはほしかったけど……よくやったじゃないか」

「ほんと、ですか?」

「あぁ、もちろん」


 涙ぐんだ瞳で見つめられ、喉を鳴らし、頷いた。

 きっと、イケてる男ならこのままアレに持ち込むのだろうが俺にはそんなことできるはずもなく。


 ココアを飲み込んで、ゆっくりと考える。

 何を言うか、何を言えばいいか。


 すると、栗花落がぼそりとぼやいた。


「……先輩」

「な、んだ?」

「その、ですけど」


 もったいぶっているのか、不自然にも間を刻む彼女。

 何を言われるのかと身構えていると、栗花落が恥ずかしそうに目を合わせずに言ったのはこんなことだった。


「私って面倒くさいですよ」


 この期に及んで、そんなこと。

 もっと、凄いことを言われると思って、なんて励まそうか考えていたのに俺は少しだけがっかりする。


「っふは」


 そして、あまりにも軽すぎる話にクスっと笑みを漏らしてしまった。


「えっ」

「っははは。い、今更かよ、そんなことっ」

「っあ、え、ちょ……先輩っ!」


 目の前の彼女はと言うと、途端に笑われたのが恥ずかしかったのか頬を真っ赤に染める。

 そして、ベッドを立ち上がり、あわわわ――っと腕を揺らす。


「う、うぅ……どうして笑うんですかぁ」

「っい、いやさ……今更だなぁって」

「今更⁉」

「あぁ。そんなこと分かってるよずっと。なんて言ったって、栗花落は律儀な人だからな」

「……馬鹿にしてるんですか?」


 クスクスと肩を揺らしていると、栗花落はあのジト目顔を見せる。


「ほら、それとか」

「えっ。あ、いや、これはその……ちょっと不機嫌になったっていうか。ていうか、笑わないでください!! 私は真剣ですっ」

「すまんすまん。意地悪したくなったってだけだよ……」

「ひ、ひどいです……」

「ごめんごめん。ついな、栗花落は男の扱いが慣れてないのかなってさ」


 なんだかんだ、三澄さんの話じゃ後輩に言い寄られてなんぼ――ってレベルらしいが。

 こうしてみると、女性の扱いが慣れない俺と同等なくらいそう思える。


 子供と言うか、なんというか。

 まぁ、それが可愛いんだけども。


「父親があれなんですから。こうなっても仕方がないじゃないですか……身近に良かった男の人なんてまったく、ですし」


 なんて――その姿に好意を寄せているなんて知れず、栗花落は悲観的にぼやいた。

 だからこそ、俺は言い返した。


 これこそ、真面目に考えた結果。

 失敗を重ねそうなことを。


「—―お父さんは俺がなってやるよ」


 決めたつもりだった。

 ただ、俺の宣告は――愛の告白よりも先だったことを言ってから思い出した。


「え?」

「あ、あぁ……そのさ、ほら、俺がその役割を受け持ってもいいかなってさ」


 今度の今度こそ、本気のジト目が俺へと向けられる。


「……私、そんなプレイは」

「プレイって、んなわけ‼‼」



 —――一月末。

 そうして、不意に始まったピンチは俺と三澄さんと、愛華さん、加えて栗花落の頑張りによって去り。


 二月がそろそろ幕を開けることになったのだった。


「んははははっ! 冗談ですよ、先輩こそ人のこと言えませんね」

「あ、あぁ。そうだな! でも栗花落」

「なんです?」

「帰ってきたら、話があるんだ」


 今にも真っ赤に燃え盛りそうな頬とは裏腹に、俺は決意する。

 この後輩に。


 栗花落ことりに、今度こそ告白をしようと。






あとがき

 というわけで、長かったですがひとまず一件落着。

 そして、次回です!


 ここまで読んでくれた読者様に感謝を込めて、八年間にも及ぶ大恋愛の終わりとそして始まりを見ていただけられるように頑張ります!

 

 





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