第51話
◇◇◇◇◇
今更、どうして目の前に現れたの。
心の中では反芻し、響いていくその本音が喉元をつっかえて出ることはなかった。
もう何年もあっていない。
最後に見たのは先輩と別れた次の年、恋人と別れ、そして傷心した私に振ってかかってきた災い。
凍るような感覚に襲われながらも、その場から逃げおおせるわけでもない。
まるで呪いの様に縛り付けられて強く言い返すことすらできなかった。
その元凶が目の前にいたのに、私はなぜか拒否することもなく声を返してしまったのだ。
「大きくなったんだな、ことり」
「お、とうさん……」
「あ、あぁ……その。かける言葉もないよな」
「……」
かける言葉なんてあるわけがない。
数多いる文豪が寄ってたかって相手しても見つかるわけなんてない難題を、あたかもこれでいいよなと言った顔で済ませる父。
私にはあるようで、ないような父がそこにはいた。
「その、な。父さん……さ」
その名前を名乗ることすらやめてほしい。
でも言い出すこともできない。
「……や、やり直したいと思ってな。昔の知り合いに聞いたら、この辺に住んでるって」
何を今更。
何が今更。
なんてたって今更。
「本当に後悔してるんだ。でもさ、あの人にも言えないから……まずはことりならって思ってさ」
虫が良すぎるでしょ、そんなの。
「だから、さ」
ふと、視線を逸らした。
すると、見えてきたのは横の大きな車。
外車、だろうか。
Bから始まる何かは分からないけど、よく見たことがあるロゴが目に入る。
暗闇に溶け込み、近づくと見えてくる自分の肩くらいあるシルエットは誰がどう見ても高級と言える外車だった。
何せ、私が大学を卒業するまでの学費はこの人が支払っていた。
多少なりの感謝は存在していたが、この人がやったことを考えたら割にも合わない。
あくまで、それは私へのお金であり、お母さんへの謝罪もない。
勝手に出て行って、勝手に捨てた男。
私やお母さんを抜きにして、こんなものを買っていたのかこの人は。
一体、どれだけ自分勝手なんだ。
まぁ、家柄だけは良くて、仕事だけは熱心にやっていたのはあの頃の記憶でも鮮明に残っている。
本当に、仕事だけ。
私の入学式にも、卒業式にも、小学校の発表会にも、運動会にも、一度だって来てくれたことはない。
家族サービスなんて存在しないくらいで、何か文句を言えば怒号が返ってくる男が今は私に頭を下げていた。
理由は、やり直したいから。
笑わせるなと思った。
そんな文句はツラツラと胸の内に浮かんでくる。
痛いっていうか、辛いっていうか、怖いっていうか。
だからこそ、口に出した。
「—―なんで、今なのよ」
「色々考えが変わってな」
「色々?」
何が色々だ。
そんな言葉でどうにかできるのか、私たちの溝は。
どうしてこの人は辛そうな顔をするんだろうか。
「……あぁ、そうだ。俺も仕事ばかりやってもだめかなってさ」
「もう遅いわよ」
はっきりと言ってやる。
昔とは違う。
母と父の喧嘩を見て何も言えなかったあの頃とは違う。
母に守られてばかりだったころとは違うんだ。
「でも、思ったらいてもたってもいられなくて」
「それがなによ。知らないわよ。都合考えてよ」
「は、反省してるんだ俺も! だから、協力してほしいんだ……あいつ、愛華……いるんだろ?」
いるもこうも、当たり前だ。
「あいつなら、やっぱり話せば分かってくれるからさ……だから、お前に」
でも、そんな母はもういない。
目の前のもう父でもない男が破壊したんだ。
「絶対に会わせないよ」
「今はだめかもしれないけど……きっと、さ」
「きっとなんてない」
私だって会いたくはない。
でも、今度はお母さんが守ってくれたように、今度は私が守りたい。
正直、怖い。
自分よりも大きな男の人、それもトラウマを抱える父を前にしている。
足が小刻みに震え、この震えが寒さだけではないのもよく分かっている。
でも、今は頼っていい人がいない。
これはあくまでも家族間の話だ。
純玲は、ダメだ。
巻き込みたくはない。
先輩は、きっと助けようとしてくれる。
でも、こんな話、頼らせていいわけもない。
今、先輩は大きな仕事を抱えていて、目を逸らさせるわけにもいかないんだ。
だから――私が。
「無理。絶対に無理だから」
「……そうか、でも、俺は待つよ。いくらでも」
そう言われ、私は踵を返し部屋へ戻る。
どんどんと離れていくその姿に安堵しながらも、誰にも話すことが出来ず、そのまま時間が過ぎていき、やがて目を閉じて眠る。
それで終わり、一度追い返せばいいのだろうと考えていた。
でも、私が甘かった。
翌日の仕事帰りもその男は執拗に私を追ってきていた。
◇◇◇◇◇
ホテルの一室、夜の食事も終わり、最終的なチェックと色々と気になった論文予稿を読み込んでいると扉がコンコンとノックされた。
「……ん、はいはい」
ガチャリとドアノブを回すと、目の前に立っていたのは未だリクルートスーツ姿の田中さんだった。
「あれ、どうしたのこんな時間に」
「すみません。ちょっと、確認したいことがあって」
「あぁ、了解」
プログラム資料を大事そうに抱えて、のこのこと入ってくる彼女。
その姿を見て、相変わらず不用心だなと思いつつ、久遠のところには行かせないでよかったと心底安堵する。
あいつならば、この調子で食ってしまいそうだから。
やっぱり、赤ずきんをオオカミのところには行かせてはいけないしな。
という馬鹿なことを考えながら、田中さんに指摘されたことを答えて数十分。
用を済ませた彼女はぺこりと頭を下げて、そのまま部屋を出て行った。
そして、時間ももう二十二時過ぎ。
明日も朝から人の発表を聞いて気になったのはチェックして、明々後日は自分たちの番だからとこっちの確認も欠かせない。
そのためにも早めに寝ておこうなんて考えていると突如としてスマホがポケットの中で震え出した。
「うわっ」
慌ててスマホを取り出すと、画面は電話の着信となっていて――そこには栗花落ことりの六文字が書かれてあった。
どうして、こんなときに彼女が。
初日の、新幹線に乗る日以外はまったく電話なんてかかってこなかった。俺がメッセージを返すようにしていたら、集中してくださいと活を入れてくるくらいだった。
そこまで律儀に俺のことを思ってくれている彼女が、どうしてこんな時間に、それも急に電話をよこしてくるのか。
なんて疑問を抱きつつ、俺は通話ボタンを押して出てみることにした。
「もしもし、栗花落?」
『あの……先輩、今大丈夫ですか?』
なんでもない、いつも通りの声。
でも、どこか寂しそうで甘えるような声が聞こえてきて、胸がキュッと音を立てて引き締まる。
「あ、あぁ。俺は大丈夫だけど……珍しいな?」
『すみません。でも、先輩と話したくなっちゃって』
明らかに弱々しい声で。
縋るようなもので、その口調は同じでも雰囲気がどこか違っていた。
「話したいって……まだ二日目だぞ?」
『違います、三日目ですよ。一日目は電話でしか話してないですから』
「そ、そうだったな」
相変わらず、変なところでしっかりしている。
感心していると彼女の方から質問が飛んできた。
『その、順調ですか?』
「え、まぁそうだな。さっきまで後輩に教えてたよ」
『へ、へぇ……さすがですね。そうですか』
「うん。これでも、一応先輩だからな」
『これでもってなんですか?』
「いや、俺まだ入社三年目なのにって意味で……栗花落にとってはずっと先輩なのかもしれないけどさ」
『……んふふ、ですね』
嬉しそうな笑い声がスマホの先から聞こえてくる。
ただ、やはり、何かがおかしくて……俺は尋ねてみることにした。
「なぁ、栗花落。何かあったわけじゃないよな?」
『何かって何ですか?』
「いや……その、なんか元気ないなって思って」
そう言うと、栗花落は途端に沈黙した。
しかし、それは一瞬で。
何か悟られたくないと彼女はすぐに言い返した。
『そんなわけないじゃないですか~~私よりも、先輩の方が心配ですよ?』
そして、その矛先は俺へと移る。
「そ、そうか?」
『はいっ。そりゃもう、しっかり発表できるのかなって』
「俺も低く見積もられたな……これでもこういう発表は初めてじゃないぞ? 大学の頃を含めたらもう……六回目とか?」
『……凄いんですかね、それは?』
「自画自賛はしたくないから言わないでおくかな」
というよりも、俺よりも凄い人が自分の直属上司にいるし。
あの人見ると、ミジンコみたいに感じるからな自分のこと。
『ひどいですよ~~まぁ、でも先輩だから凄いですよね、きっと』
「どうかな。でもまぁ、関係ないよそんなのは」
『……その、先輩』
「ん?」
笑みを溢しつつ、そして俺のことを呼ぶと彼女はぼそりと呟いた。
『頑張ってくださいね、私も頑張るので』
「え、あ、あぁ。分かった」
『それじゃあ、朝も早いと思うのでおやすみなさい……』
「おぅ」
そうして、電話が途切れる。
結局、どういった状況下はよく分からず。
—―ただ、私も、と言う言葉がどこかつっかえてあまり寝ることはできなかった。
あとがき
一種、賭けのような展開でしたので、何か違うなと思われるかもしれません。ただ、栗花落ちゃんの家族の話は書きたいと考えていたので二章でケリをつけます。そして、二人の恋仲にも一区切りさせていくつもりです!
思うことがあればコメントでかいてくれると嬉しいです!
よろしくお願いします!
それと読者選考期間終わりましたね〜。
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