第6話
◇◇
十二月初週。
会社の経理部は冬季賞与支給に加え、年末調整による事務作業、そしていつもの月次決算作業とやることが多くなったことで慌ただしいものとなっていた。
「栗花落さん、ここの表記の件で誤りがありまして」
「栗花落くん、君はここに関して営業部に聞きに回ってきて」
「それじゃあ、ここは栗花落さんに教えてもらいながら頑張って」
次期主任、その名の重みが分かるほど。
私はとにかく、藻掻くように仕事をしていく。
休む暇などなく、次から次へと回ってくる業務。
右を終わらせたら左、左を終わらせたら前、前を終わらせたら……。
際限のない仕事ラッシュに体が悲鳴を上げ始めていた。
「ことっち、元気ないね。大丈夫?」
「えっ……あ、あぁうん。大丈夫……だと思う」
「だと思うって、ほんとにかなぁ。うち、ことっちに何かあったら心配だぞ?」
不調、というわけでもなかった。
しかし、なぜか気乗りしない体の重さがあり、少し胸が痛む。
昨日は色々あってあまり寝られなかったし、寝不足なのかもしれない。
そう感じながらも、私は昨日あったことを思い出した。
—―あれは、先輩に声を掛けられる少し前だった。
後輩に振る予定だった仕事を可哀そうだからと言う理由で請け負って、それが如何せん長引いてしまって気が付いたら夜十時。
あまりにも長くなってしまって、溜息すら出やしない。
他の席には誰も座っていなくて、灯りが付いていたのは私のデスクだけ。
こればかりは自分の邪なプライドに、そして面倒見の良さに飽き飽きしてしまいそうになっていた。
とはいえ、文句は言ってられない。
引き受けたことはしっかりやらなければ――と自らを奮い立たせながら帰っている最中のことだった。
『あ――ことり?』
私の耳に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
そして、同時に私の体は尋常でないほどに強張った。
『な、なぁ。聞こえてるだろ、おい、ことりだろ!』
二度目の声掛けで私の疑念は確信へと変わる。
そう、目を向ける必要もない。
いや、向けたくないだけかもしれない。
そこに立っていたのは正真正銘。
元カレ、だった。
もちろん、先輩のことではない。
先輩の次の人。
私を騙し、そして私も騙した――浮気魔のあの男。
『っ――やっぱり、ことりじゃん。ほら、俺だよ』
距離の測り方は相変わらずうまい。女慣れ、からきているだろうボディタッチに優しそうで甘そうな声音が胸に突き刺さる。
あの頃、まんまと騙されてしまったその面影がまだ残っていて、キュッと引き締まった。
無視しても、離れない。
普段のナンパならば適当に無視して、あしらってそれで終わり。
しかし、相手が相手だということで思うように体は動かなかった。
なんとか歩き、でも離れず。
この執拗さは昔と全く変わってはいない。
私に対して、初めて声を掛けたあの時と一緒だった。
—―君、どうしたのさしょぼくれた顔して。
—―もったいないよ、可愛い顔がさ。
今考えれば、そんなの誘い文句だった。
でも、あの頃はそうは思えなかった。
時期的にも仕方なかったと言いたい自分がいるが、それにしてもちょろすぎた。
甘い蜜に誘われる蟻と同じように、ひょひょいとエサにつられて――その結果が体目的という結果。
最初は自分を正当化していたが、浮気を繰り返し他の女子とのワンナイトを重ねていることを知り、激昂した私を軽くあしらうだけ。謝りもせず、微塵も悪いとも思っていない表情で「考えすぎだって」と言う始末。
毎日作ってあげた味噌汁の意味は。
毎日作ってあげたお弁当の意味は。
毎日作ってあげた夕飯の意味は。
ただの一度も”好き”も、”ありがとう”も言わなかった。
そんな当たり前のようで当たり前じゃないことに、気が付いた時はすでに引き返せないまでに汚れてしまったのだ。
—―そんな原因があの日あの駅構内で、私の目の前に立っていた。
『知りません』
否定した。
『いや、絶対にことりだよな。やっぱりさ』
食い下がるわけがない。
『—―知りません。本当に。ごめんなさい』
否定してもさることはない。
そして、手まで掴まれて。逃げるような場所はなく。
『あなたのことは知らないです。すみませんっ』
拒否して、彼が手を引っ張ろうとしたその瞬間に。
「なぁ、栗花落。何してんだそこで」
先輩が立っていた。
我ながら、元カレに元カレから助けてもらうなんてひどい話だと思う。
でも、頼るしか選択肢がなかった。
都合のいい女、自分で罪悪感を感じながらせめてものご飯を奢ったのはあの後のことだった。
「うげ、マジ? あいつが?」
「うん」
そうして、昼休み。
いつも通り会社の下に隣接してある社員食堂でご飯を食べながら、私は昨日起きていたことを純玲に教えることにした。
あいつ、というのは勿論浮気魔のこと。
名前すら、私たちの間では思い出したくもない――そういう認識で”あいつ”となっている。
「それにしてもあんなことしておいてまだことっちに話しかけれるなんて一体どういうメンタルしてるのかね、あいつ」
「さぁ。正直、変わっていないことに驚きだったけど」
「もう何年だっけ? 四年とか?」
「そうそう。そのくらい」
「うわぁ、きもいねそりゃ」
ぶつくさと愚痴大会。
このくらい、言っていないとやってられない。
目の前のかつ丼を食べながら、愚痴を吐きまくっているところで純玲が話の話題を変えて尋ねてきた。
「でも、そんなところに居合わせて助けてくれるだなんてね……どこぞの王子様だよって感じ。惚れるわ、うちなら絶対」
王子様。
今思えば確かにそうだったかもしれない。
ほしいときに手を差し伸べてくれる、言わば少女漫画の王子様によく似ている。
でも、それが先輩って言われるとどこかしっくりはこなかった。
これは元カレだったから、だろうか。
先輩、かっこいいけど、かっこよくないし。
うん、きっと、王子様じゃない。
なんて、考えているところで。
「ていうかさ、ことっちは先輩のこと狙ってはないの?」
「え?」
純玲は唐突な質問をぶっこんで来た。
一瞬、意味が理解できなかったが急に訪れる静寂にハッとし、何のことだか理解する。
ゾワッと熱を帯びる体に少し驚きながら、しどろもどろに首を横に振った。
「—―ね、狙うって私が⁉ ま、まさかっ……別にほら、なんにもないし、一応ただの元カレっていうか、お客さんって言うか」
「お客さんが元カレとか、結構何でもある状況だと思わないかなぁ?」
「う、それは何も言えないけど……でも先輩とは健全な仲を」
動揺していたのは確かだったけど、個人的に思ったことを口にした。
それ以上でも、それ以下でもない。
というか、今はそこまで考えていないし、気楽に行けばいいと言ってくれたのは何より純玲なのだからと思い出した。
しかし、彼女はこれでもかと言うくらいに突き詰めてくる。
「健全な仲ってねぇ……再会したのいつ?」
「えっと……一か月前?」
「それで進展なしとか、どこぞの高校生か」
「だ、でもっ」
でも……言ってみたものの理由は浮かんでこなかった。
というよりも、むしろ案外、高校の時のほうが早かったような気もしないでもない。
急に突きつけられた質問に、私が今どの場所にいるのか分からなくなった。
「ま、あんな奴がいたから歪んじゃったんだし……仕方ないって言われたらそれまでか」
「そ、そうだよ。また気楽に付き合って蔑ろにしたくはないし。せめて準備がいるわよ」
「えぇ〜」
「ていうか、純玲が言ったじゃないの。肩の力抜きなよって」
「あぁ……まぁそうだけどねぇ。でも、でもってことあるじゃないの!!」
「さ、さぁ?」
「……さぁってねぇ」
適当な返事をする純玲。
そこで私はハッとした。
そういうことかと、理解する。
こういう返事をするときは大抵つまらないと思っている時だと相場が決まっているのだ。
「ねぇ、純玲」
「ん?」
「心配とか言ってる割にその顔って、もしかしてさ。私のことをつまらないとか思ってない?」
束の間の静寂。
そして、口からチョコりと飛び出した舌。
「バレちった」
「バレちたじゃないわよ!!!」
「うわぁん! 次期主任がいじめる~~!!」
「うるさいうるさいうるさい、殴らせなさい!!!!」
翌日、私がパワハラをしたという件で係長に御呼ばれしたのは言うまでもなかった。
<あとがき>
サイゼのエスカルゴ初めて食べたけどうまい!
是非是非、フォロー、応援、コメント、そしてレビューよろしくお願いします!!
密かに投稿しました。二作目。
何もかもが完璧な超絶美少女の唯一の弱点をモブな僕が知ってしまったら。 - カクヨム
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