第7話



◇◇


 辛い日常に変化はなく、私たちの経理部は午後も慌ただしさを忘れていなかった。


 廊下を走り去っていく課長に、電話の受け答えで激しい同期。

 いつも茶化すようなことをしてくる純玲でさえ、余裕がなさそうな表情でパソコンを打ち込んでいる。


 しかし、こういう時こそ変なミスを犯さないためにも休憩が大事であると分かっている私は純玲とは反対の隣のデスクに座る後輩社員へ声を掛けた。


「逢坂くん、そろそろ休んできなさい」

「……え、ぼ、僕ですか」


 ググっと背伸びをして、目を擦る彼は唐突な声掛けに目を丸くさせた。


 勿論、この方向に顔を向けているということは彼しかいない。

 というのも、私たちのデスクは経理部内の一番端に位置している。

 そして壁際の端っこに並んでいるのが逢坂くんと私、そして純玲の三人である。


「逢坂くん意外に人がいるのなら、それは幽霊か何かじゃない?」

「っ幽霊……縁起でもないこと言わないでくださいよ。知ってますか。幽霊って隅に集まるんすよ?」

「え、そうなの? ……ってそうじゃなくて、逢坂くんの休憩の話」


 目を擦っていたから少し不安だったけど、どうやら冗談をつく余裕はあるらしく少し安心する。

 しかしまぁ、相手が私—―つまりは先輩だと考えると無理に元気にふるまっている可能性もあり、後輩社員へのマネジメントも仕事の一部でもあるため言わないわけにはいかないし。

 何より、経理部ここの後輩たちはちょっと無理する節がある。


 まぁ、私が言えたことじゃないかもしれないけど。


「いやいや、僕大丈夫ですよ」

「だめよ。君、寝てないでしょ絶対」

「え、どうしてわかるんですか……」

「うーん、女の勘かな」


 私が言い当てた勘はどうやら本当だったようで、ギョッとした目を見せた。


「怖し、優しい氷姫」

「何それ」

「栗花落さんのあだ名ですよ。って、あ、これって本人に言っちゃだめだっけ」


 彼は慌てたように口を手で覆う。


 勿論、今更遅い。

 みるみると顔を青ざめる彼には悪いけど、私の耳にはばっちりと聞こえていた。

 どうやら、私—―栗花落ことりのことを経理部の男性陣は”優しい氷姫”と呼んでいるらしい。


 姫、なんて言われると少しむず痒い気がするけど……氷姫と言われるのは、どうしてだろうか。


 というか、男はいつまで経ってもこういうことをするよね。まったくだ。


 とまぁ、そんなくだらない名前に怒る理由もない私は青ざめた逢坂くんに念押しを込めて言う。


「—―とにかく、休憩行ってきなさい」


 それに対し、なぜか再びギョッとした目を見せつつ、こくりと頷き、逃げるようにして部署から飛び出していった。


 訳も分からずにいると隣の純玲が一仕事終わったのか、肩をポンポンと叩いてくる。


「ねぇねぇ、コトコトコトッチ」

「……いつから私は冬の定番飲料になったのよ」

「最近。ていうか、そうじゃなくて……もうちょっと自重しなさいな」

「自重も何も、後輩社員に休ませるのは上司の仕事じゃないの?」


 私の肩を掴んだままの純玲はどうしてか、呆れたような顔を見せる。

 なぜだか分からないままで首を傾げると、すぅっと息を吸う音が聞こえた。


「—―――はぁ、まったく。ことりってほんと……律儀で繊細なのにさ、変なところ抜けてるよね」

「……それは悪口か何かかしら?」

「んとね。ただひたすらにバカにしてる」

「ば、馬鹿……そうね、私は大学の時から純玲に試験の点数で勝てたことないからね」


 割と恨み節で言ってやったというのに純玲はまだしても呆れた顔のまま。


「……はぁ」


 純玲はその場で立ち上がる。

 私の顔を一瞥し、そして大きなため息をつく。


「やっぱり……コトっち。心に決めてる人がいるんなら、後輩くんたぶらかしたら駄目よ」

「たぶらか……す」


 それで言い捨てて、純玲はその場を後にした。

 結局、その理由が分かったのはすみれが部屋から飛び出して数秒後のことだった。



◇◇


「ことっち、さすがに忙しすぎるわね」

「そうね……この季節はいつでも慣れないわよ」


 午後の仕事も夕方過ぎにはひとまず終わり、私と純玲は自販機の前のベンチに座りながら愚痴を溢し合っていた。


「……でもさ、ことっちは自ら忙しくしてる気がするけどね」

「自らって言われたらそうだけど。でも、マネジメントは大事だし、最近は色々と怖いからね」

「まぁ、それがたぶらかしになっていたんだけどね」

「やめてよ、一応優しくしてるつもりで……」

「あれは惚れちゃうと思うなぁ、私なら一目惚れするくらい可愛いもん」

「う、うるさい……もぉ」


 純玲相手に褒められるのはいつも通りだけど、なんだか今のは少し恥ずかしくなった。


 それにしても、私は毛頭たぶらかしたつもりはない。

 でも、そうやって捉えられたらそれまでの世界だからと割り切って、一応、あの後後輩くんには謝った。


 なぜか、謝り返されたけど。 「栗花落さんみたいな人が頭下げないでください! (ぼ、僕が殺されるんで……)」


 殺されるって聞こえてきたけど何だったんだろう。


「でも、上司としてはかなりいいことしてたわね。もしかして……ああいうのって、あの先輩の押し売りとか?」


 真面目に思い出しているところで、純玲は唐突なことを質問してきた。

 

「え、先輩?」

「うん、ほら、高校の時の元カレくん」

「それは……どうだろう」


 後輩に優しくする、それが先輩もやっていたことかと言われれば確実に頭を縦に振るけど。でも、私は真似しているのだろうか。少し分からない。


 もともと、他人に物を言い聞かせるような性格じゃなかったし、中高での文芸部とかでも比較的に後輩には優しく接していた。


 なんなら、特に男の部員には絵が下手だとかいじられたくらい接しやすい人でいたつもりだ。


 ただ、一つ言えるのはいつも心のどこかにその思い出が鎮座していたということ。


 それだけはあったと思う。

 

「ん」


 すると、ポケットに入れていたスマホがぶるぶるとバイブレーションを鳴らした。

 

「ん、まさか噂をすればなんとやらってやつ?」

「噂って……まさかそんなことあるわけないで、しょ……?」


 スマホを開き、メッセージ画面を開く。

 すると、あて先は――藻岩哉と書かれてあった。


「噂をすれば、なんとやらじゃん」


 メッセージの送信元は先輩だった。


 やり取りするため、ラインは交換していたけど毎日のように連絡をするような間柄ではない。


 前回のやり取りは「ラーメンありがとうございました」という私のメッセージに対して返された先輩の「サムズアップ」のスタンプ。


 別に嫌なことはなく、自然な形でラインのやり取りは終わっていた。


「せんぱい……どうしたんだろう?」


 名前の欄、そしてトーク画面をタップする。

 すると、出てきたメッセージはこうだった。



”なぁ、風邪ひいたから明日の家政婦なしにしてくれ。うつしたらよくないし、頼むわ”



「え」

「どうしたの、ことっち?」

「先輩が……風邪引いたって」

「風邪? それはまずいわね」

「うん」


 うつしたらよくない。

 というのはその通りだったけど、わざわざそんなメッセージを送られたら。


 見て見ぬふりはできないというのが自然だ。


「ねぇ、純玲」

「何?」

「今日はもう、仕事ないわよね」

「残業しようと思えばできるけど?」

「ごめん、頼むけどいい?」

「……はぁ。まぁいいけど、それじゃあ今度ラーメン奢ってね」


 ラーメン。

 またか、と思いながらも「いいわ」と答える。


 時間は十六時。

 あと一時間と少しで定時、私は速攻で残り物を片づけて先輩の家に向かうことにした。




<あとがき>

 チキンと手巻き寿司ちょーうまいっす。


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