第8話
◇◇
「あぁ……くそぉ、やっちまった」
金曜日の午後、俺は仕事を途中で切り上げて退社し、家の寝室で横になっていた。
ピピピピピ。
温度計の計測音が鳴り、ディスプレイを見てみれば熱の具合は”38.6℃”と表示されている。
完璧なる熱、正直なところ微熱くらいだろうと高をくくっていたのだが、割と本気で風邪を引いたようだった。
インフルエンザの季節ではあるが、関節痛はないし、熱も言うほど高くないからおそらく風邪だとは思う。
ただ、どっちにしろ。
「すんません、鮎川さん」
目に浮かぶのは研究室長、自分の上司の顔だった。
こんな時期に風邪をひくのは思っても見なかったし、忙しい時期に休んでしまったことへの後悔の念が押し寄せてくる。
しかし、そんな俺に対してあの人は優しい表情で「無理は禁物だからね、また来週回復したら来なよ」と一言。
余裕が全く違う。
年もほぼ二倍離れているからだろうけど、それにしても自分が情けなるほどに気にかけてくるし。
人間ができすぎてるよ、あの人は。
出来すぎてるのはそこだけじゃないしさ。
現在では俺が所属する次世代パワー半導体開発を担う第一研究室のリーダーであり、同時に近くの私立大学の客員教授でもある。
高校時代から全国模試で理系分野で一桁順位をマークし、大学では一年からいきたい研究室に通いつくし、四年生の時には現在の半導体薄膜の作製技術の確立に関わり、大学院修士、博士課程を通して海外の学会で技術発表を経て、一般企業の研究職に就職し、翌年には私立大学の助教へ就任。
三十歳になると講師になり、三十五の歳には准教授、翌々年には教授に就任。現在ではその凄さを買われて会社の研究チームのリーダーをしているという。
俺なんか修士課程でようやく一つの成果を出せたと言うくらいで、当時はそれでも凄いと褒められたがここまで次元が違う人が周りにいると大したことなかったんだと考えざる負えない。
将棋界には藤井聡太がいるが、うちの研究室には鮎川一郎なるものがいる。
ここまで言ったら分かると思うけど、経歴から見てもやばい人だ。
—―ぐぐぐ。
「……さすがに腹減ったなぁ」
よく見知った天井を見つめて鮎川さんのことを考えていると、お腹がぐぐぐと音を鳴らした。
今日は作ったサンプル試料の測定をぶっ通しで行っていたため昼食を抜いていたせいか、お腹が空くのがいつもよりも早い。
「動きたくねぇ」
一度体を起こしてみると、いつもよりも体が重かった。
トイレに行くのも一苦労だというのに、ご飯を作ると考えると少々きつい。
とはいえ、ずっとポカリだけで済ますのもちょっと難しい気もしているし……食べずにはいられなかった。
どうせなら外に出てドラックストアで薬とゼリーでも買ってくるのが最善作の気がしている。
体のだるさはあるが食欲はあるので、まだいい部類だろうか。
「よいっしょ……あぁ、っと……俺も歳なんかなやっぱり」
この程度、高校生とかの頃なら気にもならなかった。
だるさはあっても軽く走ることもできたし、ほんの数時間寝ることですぐ直るし、高校生の時の軽い体が本当に愛おしい。
風邪どころじゃなく徹夜で研究で来ただろうしな。
「ってありえないこと考えてないで……財布を」
ふらつく体でリビングを徘徊する。
明日掃除をしてもらう予定だったため、少し散らかっているがこれは来週までの辛抱だろう。
ソファー前のテーブルに置いてあるのを見つけ、ポケットにしまう。
ダウンジャケットは玄関に掛けてあるのを羽織って、靴を履き、ドアノブを一捻りして、扉を開けようとした――――その瞬間だった。
——ピンポーン。
インターホンが音を鳴らし、そしてコンコンコンと扉をノックする音が聞こえてきた。
こんな時に一体誰が俺の家に来るのだろうか。
不思議な気持ちで、扉を開けてみる。
すると、そこにいたのは――何を隠そうスーツ姿で買い物袋をぶら下げた栗花落ことりだった。
肩まで降ろした亜栗色の長髪に、ラーメンを食べた日にも見たリクルートスーツ。
スカートの下からあらわになっているのは黒いタイツで包まれた細く長く、それでいてどこかムチッとした綺麗な脚。
そして、それを包む白いコート。
仕事帰りな彼女が買い物袋にぱんぱんの食材らしきものを詰めて、俺の目の前に立っていた。
「—―な、何をしてるんですか」
開口一番、彼女はキョとんとした表情を浮かべてそう言った。
何をしているのか、と聞かれれば俺がしているのは食材の買い出しだった。
しかし、それよりも先に一つ。
どうしてここに彼女がいるのか、と言うことだった。
「栗花落……どうして、ここ、に……」
汗ばむ体。
どうしてかあまり声に力が出ない。
口にしたところで、体がぐわんと大きく揺れる。
「先輩っ――‼」
目の前の栗花落が叫ぶ声が聞こえてきて、しかしどうしようもできない俺は足元がふらついた。
すると、気が付けばそんな俺の手を彼女がグッと引っ張っていた。
「あ、危ないですよ! とにかく今はベッドで安静にしててください‼」
一喝。
歪んだ視界の中で、栗花落が肩を組んでいるのだけが見えて、俺は気を失うように倒れた。
「……つ、ゆり」
◇◇
次に目を覚ますと、俺の隣にはまっすぐと見つめてくる栗花落が座っていた。
「え……?」
状況が呑み込めない。
そういえば、俺はどうしてこうなったんだっけか。
熱でおぼつかない頭をなんとかフル回転させて、思いだす。
「おはようございます。よく寝れましたか?」
「……あぁ、うん」
そうだ、俺は栗花落に寝かされていたんだった。
食材を買いに行こうとしたら扉の向こう側から栗花落が現れて、それで気を失った。
あれ、でも……俺は栗花落に熱のこと言ったんだっけ?
いや、確か明日の家政婦はいらないとだけ言ったような気がする。
「栗花落、どうして来たんだよ」
「どうしてもこうしても、あんな連絡されたらほっとくわけにはいかないじゃないですか……」
「いやでも、この時間って仕事終わってすぐとかじゃないのか。今って経理部の忙しいときなのに」
「いいんですよ、そんなことは。一応、同期の友達に任せてきましたし、大丈夫です。それにこれでも私、仕事はできるほうですからね」
横に首を振ると、両手をあげてファイトのポーズ。
その笑顔が疲れ切っていた体に染み渡る。
元カノの笑みで何を考えてんだか、俺は。
「栗花落が……そうか」
「先輩今、意外そうとか思いましたね?」
「……いやいや、そういうことじゃなくて。ただただ感心したっていうか――って、あんまり近くにいるとうつるぞ」
焦って指摘すると、栗花落は首を横に振る。
「……あのですね先輩。うつすうつさないは覚悟しています。それに私のことよりも、自分の心配してください」
余裕のある返しだった。
まるで母親のような目で、俺は胸が少しだけ痛くなった。
「あ、そういえば……お腹空いてますか?」
「い、いや」
さすがにここにいてもらう気にもなれず、嘘を言う。
しかし、俺の体は正直だった。
—―ぐぐぐ。
「で、どうですか?」
「え、あぁ。結構」
「食欲があるのなら良かったですよ」
栗花落、怖し。
見透かされているように安堵のため息を漏らした。
「よいしょっと……はい、これ」
そう言って下から取り出したのはお盆に乗っかっていたお粥だった。
木製のお皿に乗った白いお粥、上には梅干しと青のりがあり喉が鳴る。
「え……これ?」
「はい、私が作りました。少し冷めちゃいましたけど……熱いと喉に悪いですし、ちょうどいいと思いますよ」
見るだけでも、それはもうおいしそうで熱が引いていくような気がした。
体が勝手に期待しているようだ。
にしても、喉の心配とはどこまでお人よしなんだか。
受け取り、俺は起こした体の膝の上に置く。
スプーンを手に取り、まず一口分掬って口に入れた。
「—―っむ」
捻りも、何もない。
優しい塩の味と、ふやけた海苔と米がつるりと喉を通って消えていく。
しかし、その捻りのなさが優しくて、ただひたすらに美味しかった。
「どうですか、お味は大丈夫でしたかね?」
大丈夫なんて、どころではなく。
ものすごくおいしい。
「いや、めっちゃ美味い……ん」
スプーンが止まらない、俺はひたすらに口に入れては飲み込みを繰り返し。
無音の部屋に嚥下の音が響き渡る。
ものの数分もたたず、俺はすべてを平らげてしまった。
「早いですね……さすが」
「いや、本当に……美味しかったから」
「んふふふ、良かったです。甲斐がありましたよ」
素直に感想を言うと、栗花落は少し頬を朱に染めて笑った。
「お金は……今度」
「え、いやいいですよ。そのくらい」
「でも、さすがにここまでしてもらって……今日、家政婦じゃないのに」
「別に私は個人として来てるんですよ? そう思ってくれれば大丈夫です」
「個人……そ、そうか」
その言葉の響きに胸の内が引っ掛かって、反芻していた。
しかし、そんな俺に栗花落は薬を取り出して言う。
「あと、これも」
「あ、あぁ」
飲み込んで、体を倒す。
「—―明日も来ますね。一応」
「えっ。いやそこまでは……本当にもったいないし」
「心配ですし」
「俺も子供じゃないんだから……明日くらいは休んでくれ」
さすがに明日まで来られたら悪い気にしかならない。
何よりも、今日だけでも十分なくらいだ。
「今日ので元気になったしな」
サムズアップして見せると、栗花落はこくりと頷いた。
「分かりました……お言葉に甘えます」
「あぁ、頼むわ」
そして、それから数十分。
くだらない話をしながら、気が付けば俺は気を失うように横になった。
あとがき
この辺から勝負ですね。
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