第1話
昔、この世界に神様がいるのかと考えたことがある。
理由はよく覚えていない。
確かの微かな記憶だと思うけど何でもない、くだらないものだった気がする。
友達と遊んだベイブレードで負けたとか、サッカーの試合で負けたとか。
その辺のありきたりでくだらない、小学生がげんなりするだけの内容で。
ただ、結局のところ。
いるかいないかなんて子供の頃の俺の頭で理解できるはずもなく、一つ分かったことは”神様はとてつもなく意地悪で、そして悪戯が好きなんだ”ということだった。
◇
そんな神にこの歳になって悪戯を仕掛けられるだなんて、数分前の俺は思ってもみなかった。
なぜなら、今、この瞬間。
俺の目の前に家政婦が立っているからだ。
いや、自分から家政婦を頼んでおいてその家政婦が来て神様の悪戯だなんて言っているのではない。
原因は家政婦の正体にある。
思いがけない事実だった。
焦った。
というよりも、目を疑った。
目の前に広がる光景に、何より俺の目の前にいる女性に。
地味子の象徴だった黒いボブカットはいつの間にか、ウェーブがかった亜栗色のポニーテールになり。
素しかみたことがない色白な肌にはファンデーションが塗られている。
唇には淡い赤色のリップが薄く塗られていて、目元にも煌びやかなチークが控えめに輝いている。
服装は動きやすいスキニージーンズに胸の起伏が目立つ中に入れた黒いニット、そしてそれを覆う雪色のコート。
特別感はなかったがどこか昔とは違う自信と落ち着きに満ちた大人の余裕なものを感じる。
一言でいうなら別人だった。
ただ一つ、面影があった。
何気ない、目元にある涙のようなほくろが昔の彼女だと連想させる。
それだけで、本当に彼女だと分かった。
彼女と別れてから、何よりまともに恋愛などできなかったんだ。未練も後悔もありありで、忘れられるわけがなかったその相手を今更俺が忘れることができようか。
—―否。
言わずもがな、唯一の心残りであり、俺が初めて好きになった相手—―元カノその人だった。
「も、藻岩……先輩っ?」
「つ……ゆりっ⁉」
目の前の事象に、俺は対応できていなかった。
あり得ないことが目前で起きている。
ただ、その事実に驚いていた。
何が起こっているのか分かずにひたすらに固まっている。
「ひ、久しぶり」
「ひさし……ぶりです」
週末、休日の喧騒をよそに。
市街にあるマンションの廊下では、閑散としている。
それが故に、小さな音が気になった。
生唾を飲み込む音。
服がこすれる音。
靴が床を滑る音。
そして、吐息。
しん――とした空間に、ただひたすらにいつもなら聞き流す音が延々と広がっていく。
考える時間が十分にあった。
あれ、と。
そう感じた。
おかしい、異変しかない。
俺が知っている栗花落ことりという女性は言ってしまえばここまで可愛く、美人ではなかったはずだ。
もともとの目鼻立ちはとても綺麗だと気づいていたけど、自信がないのかずっと眼鏡をしていて、前髪も長く、あまり目を合わそうとしないのがあの頃までの彼女だった。
しかし、目の前にいる栗花落はそんな面影はない。
言葉にしてみれば分かりやすいけど、言葉以上に、想像以上に美しかった。
まさに”美”の化身。
目の前にいるのが天使、いや女神と言われても納得してしまうほどに。
大人になった彼女は微かな雰囲気だけ残し、見事なまでに垢ぬけていたのだった。
◇
玄関での無言での悶着は数分ほど続いた。
俺も、栗花落も目を見開いて固まって。
しかし、数秒後。
たまたま後ろを通りかかった軽トラックの排気音の後に、こう尋ねてきた。
「その……どうして、先輩がこんなところに?」
「え、いや、それはこっちのセリフ」
咄嗟のことで、脊髄反射で答えてしまう。
あたかも仲のいい女友達と会うかのようなテンションで答えると栗花落は少し眉間に皺を寄せる。
「っあ、ごめん! その、びっくりして……外寒いし、と、とりあえず入れよ。」
「ありがとう、ございますっ」
それに気が付いて俺が玄関を大きく開いて、先に彼女を中へ入れようとした。
すると、栗花落は頭を一度コクりと下げて頷くと横を通って玄関に座り込み、秋用の黒革ブーツを脱ぎ揃える。
ドキドキと極度な緊張感が胸の内を支配する。
もはや、今まで行ってきた研究成果の社内発表や学会発表なんて屁でもないほど心臓がバクバクと鼓動を鳴らしていた。
正直な話、俺も俺でそれはどうかとは思うが仕方ないと理解してほしい。
たかが元カノ、されど元カノ。
高校三年生、あの十八歳の冬から二十六の秋の今までおよそ八年間。
そんな若いころの貴重な時間を引きづってきた初恋なのだ。
むしろ、これで動揺するなと言う方が無理がある。
何より、ただ再会したわけでもなく。
相手が家政婦で、そして垢ぬけている事実にも驚いていた。
「とりあえず、ほら。ソファーに座ってろよ」
「先輩っ。私のコートは」
「ん、あぁ。俺がかけておくから、ほらっ」
「ど、どうも……」
少しぎこちない感謝をする彼女。
コートを脱ぐとニットなセーターが現れて、起伏のある胸に視線が吸い寄せられる。俺も男、相手が誰であろうが逃げようもない。
しかし、すぐに自制して首を振り、台所へ向かった。
動揺で震える手で冷蔵庫から出した麦茶をコップに入れる。
いつもならばなんでもないこの作業も、思うようにできないことで自分が思った以上に動揺しているのが感じられた。
久遠ならこういう時は適当に話聞いて、色々聞き出して、ワンナイトに持っていくんだろうけど……相変わらず凄い、そういう行動力だけは尊敬したい。
うん、そこだけはな。
ただ、ひとまずは。
この状況をどう、打開するかだな。
会話をしないことには始まらないだろう。
「すまん。粗茶しかないけど」
「粗茶じゃないです。ありがとうございます」
「おぉ、そうか。ならよかった」
嬉しそうに頷くと渡したコップを口につけ、傾けて喉へ流し込む。
その動作も昔と違って、今では研ぎ澄まされたかのような上品さがある。
俺が八年間引きづっている間に、何か変わったのだろうか。そんな考えが浮かんできたところで頬をつねった。
八年間。
生まれた子供が小学二年生になるくらいの時間だ。
当たり前に、何かあるだろう。
変わらないわけがない。
むしろ、怠惰な生活送っていた何もかもあの時のままの俺のほうが珍しいくらいだ。
「栗花落、久しぶりだな」
「私もびっくりしましたよ」
「あぁ、ほんと」
唐突な話題に驚き、目を見開く彼女。
それを見て、俺は続ける。
「っ……なんだか、色々遅れたけど。その、まさかこんな形で出会うとは思わなくてさ。栗花落って家政婦さんしてたんだな?」
尋ねると、こくりと首を縦に振った。
そして続けて呟く。
「一応、はい……ほんとは他にも仕事してるんですけどね。副業で」
「あ、副業なんだっ。てっきり、本業だと。ほら、お茶飲む動作とかも洗練されてたから身に着けたのかなぁって」
「えっ。私、そんな感じでしたかね……」
「おお。メイドみたいで。うん」
「……メイドって。先輩、まさかそういう理由で呼んだわけではないですよね?」
「まさか!! 普通にだよ、普通に。いやまぁ確かに同僚にはそれっぽいことも言われたのは事実だけど……」
「え?」
「あぁ、いや、なんでもないけど」
緊張感は少し消える。
もしかしたら、と考えが浮かんだ。
これは、もしかすると神様がもう一度俺に機会を与えてくれているのではないかと。そう思った。
意を決する。
結局、思えば受け身だった初恋なんだ。
もしも、もう一度あるならば――その思いで彼女の方を向く。
「なぁ、栗花落」
「な、なんですか?」
あの日、止めようとも思わなかった手を。
きっと意味ないと感じて。
もう直せなかったと思って。
何もかも、悟ったように。
あの日見た、雪が少し積もった背中が見えて。
俺は惹かれるようにその手を掴んだ。
「せっかくだし、終わったらご飯食べないか?」
そうだ。
いつまで、止まっているんだ俺は。
あの日止まった時計の針を動かすために……。
「—―先輩」
すると彼女はマジマジとした目で見つめながらこう言った。
「私、掃除をしにここに来たんですよ?」
「っえ、あ、あぁ~~そうだったな。ははは、ごめん。なんか急にちょっとその、感極まったっていうか……うん、ごめん」
ゴクリ。
そりゃ虫がいい。
生唾を飲み込む。
しかし、続けるように栗花落は溢し笑みを見せた。
「っふふ。でも、そうですね」
「え」
「なんだか……はい。硬くするのもよくないですし、一緒にご飯でも食べに行きましょうか?」
肩が揺れ、結んだ髪が上下に揺れる。
クスクスと笑いつつ、何か思い出したかのように言いつけた。
「あ、でも。仕事上そういうのはいけないのでいったん家帰ってからになるので、明日でもいいですか?」
「お、おぉ」
なにからなにまで、変わっていたと思っていたものも。
変わらないわけがないとか言ったけど……。
—―律儀なところは変わっていないみたいだ。
あとがき
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もうすぐクリスマスですね。
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