プロローグ②

 今思い返してみれば悪かったのは私の方だったと思う。


 高校二年の冬、まだまだ何も知らなかった純粋無垢で馬鹿な私は当時の彼氏を凄惨に振ったことがある。


 高校一年の甘い、あまりにも甘すぎるあの夏の出会いから始まった恋愛劇。


 あの雪降る情景は今でも鮮明に覚えている。

 

 きっと彼にとっても、私にとってもあれは酷かった。


 秋が明け、雪が降り――忘れたくても忘れられないあの冬。

 永遠に振り続けて積もっていく雪を見ながら。


 私は大通公園十一丁目のベンチに座っていた。


「栗花落……」


 彼が言う。

 その声音は少し震えていたが、私はよく考えてもいなかった。

 彼の目はとても虚ろだったんだ。

 目の下にはクマができていて、心なしか痩せているようにも見えるほどで。

 私が、あの純粋な私が、彼の実情に気づかないわけがなかったんだ。


 でも、見ていなかった。

 私は、私のために、私だけの快楽のために、それらすべてを蔑ろにしていた。


 見えていたが見ないようにしていた。

 知っていたが知らないふりをした。

 分かっていたが分からないふりをした。


「っ」


 満身創痍の彼が憎く見えていた、そう見ようとしていた。

 豪雨の中身を投げ出し、傘なんか取り出すことも億劫で、彼の目の前に体を入れる。


 握った拳を硬く、爪の間に挟まった肉を剝がすようにぎゅっとする。


「ごめんなさい」


 傲慢だった。

 それ以上に、稚拙で矮小で、馬鹿だったんだ。


 いや、お互いにすれ違いがあった。

 私がばかだったがゆえにすれ違いがあった。


 お互いがお互いに少しでも寄り添いあおうという気さえあれば、何かが変わっていたはずなのに。


 それでも、何もしようとせず、ただただ現状維持が続いた。


 馬鹿は私だ。

 私が阿呆だった。


 背中を向けて、べしょべしょになった髪を揺らし、溢れだす涙を置き去りにするようにして走りだす。


「いままでありがとうございました」


 彼しかいなかった。

 後々気づくことだったけど、あんなにも優しかったのは彼だけだった。


 でも、最後の最後でもう、ダメなんだとあきらめてしまった。


 くだらない一目惚れから始まった私の初恋は、自らの身勝手さで終幕を迎える。

 



 思えば、あの日以来。

 私の恋愛は毛糸の結び目のように深く捻じれて、拗れておかしくなった。






「栗花落さん、経費の欄の部分なんですけど提出書類と乖離がありまして、見ていただけませんか?」

「それなら、私が後で見ていくわ。ゆっくりご飯食べに行ってきなさい」

「え、でも——」

「いいの。ほら、行ってきて」


 ——栗花落ことり、二十五歳。

 私はデスクの前で立ち尽くす一年目の後輩の背中を押し、パソコンのモニターを見つめ直した。


 日付は十月五日、時刻は十二時十分。

 蒸し暑く苦しかった夏の季節が過ぎ、冬の寒さを感じさせる秋の季節。


 世間は体育やら読書、食欲の秋とやらに現を抜かす中。

 私たち会社員はそんなもの感じることなく業務を続けていた。

 経理部の繁忙期はそろそろ来るので、ボーっとしてはいられない。


 後輩のためにも色々とまとめている私に隣に座る同僚が話しかけてくる。


「いやぁ、次期主任は忙しそうですなぁ」


 ニコやかに、そして意地悪く笑みを使って肩を小突いてくるのは大学一年の時から一緒の同期で同僚の三澄純玲みすみすみれだった。


 私と違って綺麗でモデルのような顔立ちに、大人びた黒く艶のある長髪。

 そして、リクルートスーツの上からでも容易に分かるほどに大きく起伏のある胸。


 文字通り、モデルや女優と引けを取らないほどに綺麗な女性であり、私の親友でもある。


「私たちが後輩だった頃、先輩もこうやって親身にサポートしてくれたからね。それに、誰にでも優しくするのはモットーだし」

「んまぁ、そんなことっちの配慮が後輩君たちを悶々とさせてるんだけどねぇ~~」

「悶々って何がよ」

「ほら、見てみな」


 視線で誘導する彼女の方を私も一緒に目を向けると、すっと視線が合う後輩社員。

 私が気付いたことに驚いたのか、ビクッと肩を震わせて視線を逸らした。


「んで、どうですかいなぁ。自分が実は人気だったことを知ってさ?」

「……人気ってねぇ。まぁでも、嬉しいけど。あんまりこういう経験してこなかったから。というか純玲だって人気じゃない? 昨日は飲み誘われてなかった?」

「うちは二番目よ。それにあの後輩君可愛いけど、前にことっちにも誘ってたの見たし遠慮した~」

「……そぉ。ていうか純玲さ」

「ん? どしたん?」

「結局、男って言うのは誰でもいいのかな」

「んははは、そうかもね。ことっちが言うと説得力が凄いね」

「まぁ、そうね」


 説得力、そう言われると少しだけ心外な気もしてくるが、実際にそう言われると高いのかもしれない。

 

 これまでに付き合った人は三人。

 高校で一人、大学で二人。

 高校生の頃にあった初恋を経て、色々と経験してきたが難しいことばかりだった。


 大学生の頃付き合った二人は顔こそ凄くよかったけど、それ以外は酷かった。

 結局目当ては体で、浮気をされて、それで終わった二人。


 こんな経験をしたのは私だけなのかもしれないけど。

 もう恋愛したくないとすら思った。


 まぁ、正直な話。

 あの頃だったら無理はない。


 今まで日の目を浴びない、所謂教室の端で一人でいた地味だった私の事を見てくれた先輩を凄惨に振り、何も見えていない私は次の恋愛に行こうともがいていた。


 それからが酷かった。

 見方を変えれば信頼できる人を裏切ってしまった私への罰だったかもしれない。

 今ではそうして考えが及ぶが自分勝手で身勝手だった私はそう思っていなかった。

 

「世間で一番遊ぶのは大学生って言うらしいからね~~そこで、ほら。ことっちみたいな純粋だった女の子を騙してくる人もいたわけだったし」

「なんの警戒心もしなかった私も私だわ。ほんと」

「おぉ~~これは随分な変わりようになってますな。恋は盲目、その権化だったことっちが……うちは嬉しいわ!!」


 ハンカチ片手に涙をだらだらと流し始める同僚。

 それを横目に私は苦笑いをすることしかできない。


 しかし、モニターに映る自らのあの時とは変わった顔を見てふと思う。


 盲目だ。

 ことの本質が分かっていない。

 まさにその通りだった。


 私の事をこの人だけは分かってくれる。

 私だけが理解してあげれる。


 そんな馬鹿なことはない。

 お互いに、お互いを見ていられないと成り立たないのが恋愛なのに。


 自分に絶望してから。

 恋愛することがどんなに難しいか気づいて。

 そして、後悔の念が溢れる日々。


 どうしてこう思ってしまうんだろう。


 あの日、振った先輩に……謝りたい。


 俄然無理なことを心の奥底に抱いている私に、私は心底呆れていた。


「何考えてるんだろ、私」



 ◇


 しかし、週末に事件が起こった。

 午前中、日課の読書をしているとスマホが通知を知らせる音を鳴らした。


 スマホを手に取り見てみると、副業として始めていた家政婦宅配サービス専用のメッセージアプリに連絡が届いていた。


『新規の依頼が一件来ています。至急確認お願いします』


「……最近は少なかったのに珍しい」


 この副業を始めて早二年。

 本社の方からぜひベテランのあなたに依頼したいとのメッセージだった。この頃、あまり家政婦の方も依頼がなく、特に私の家があるこの地区周辺。

 比較的に田舎の住宅街でもともとそれほどだったが、この数か月は特に何にも依頼がなかった。

 

 それだと言うのに、一件の新規の依頼。


 詳細画面をタップして覗いてみると名前を「藻岩」という人だった。


 その二文字で私は少しだけ心がざわついた。


「……もい、わ」


 苗字に見覚えがあった。

 というよりも、見覚えどころではなかった。

 それは……。


「いやいや、何考えてるの私は。そんなわけないじゃない……」


 まさか、わけない。

 あるはずがないんだ。

 首を横に振る。

 この広い地球上の中で、また出会うなんてあるわけがない。

 あり得たら、それはもう天と地がひっくり返るような確率だ。

 天文学的数字に可能性はない。

 

 このとき、私は目を瞑った。


「えっと、場所は……」


 住所の欄を見てみると電車で一駅ほど進んだ場所にある歩いても行ける近い距離のマンションの一室。


「これならすぐいける……久々にやるのもありかな」


 今日は目覚めもいい。

 それに、一軒家じゃないならこの手の仕事は大抵楽だし、お金ももらえる。

 やらない理由はないなと思い承諾し、いつも通りの支度を済ませて家を出た。


 朝の陽ざしと、公園で遊ぶ子供たちの声に耳を澄ませながら駅までの道を歩き、電車を待って次の駅まで。


 やがて家に付き、インターホンを鳴らす。


「は、はい」


 小さな声が奥の方から聞こえてきて、マニュアルを思い出す。


 ここまでは特に何もなかった。

 本当に変わらない空間で、何もない日々を過ごす予定だった。


 だが、しかし。

 そうはいかなかなかった。


 久々に思いだす、会いたかった人の顏。

 いつしか謝りたいと思っていた私に……彼は少し変わったような顔で見つめていた。


「—―本日、家政婦宅配サービスで参りました。栗花落つゆりことりです。よろしくお願いしま――」


 頭をゆっくりとあげて、疑念が驚きが確信に変る。

 目と目が合った先。


 まさかとは思わなかった。


 確かに予約していた相手の苗字には見たことのある二文字が書いてあったけど、でも、そんなわけはないと自分に言い聞かせていた。


 高校から一切顔も見ていない、会ったこともない、そんな疎遠の関係からまた巡り会える可能性なんてなかったのだ。



 しかし、現実は違った。


 そこに立っていたのは、私の初恋相手、その張本人――――藻岩哉もいわはじめ先輩だった。



 そう、天と地がひっくり返ってしまったのである。

 


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