仕事に疲れて家政婦さんを雇ったら、垢抜けた元カノだった。

藍坂イツキ

第一章「ツタエアイ」

プロローグ

 


 今思い返してみれば悪かったのは俺のほうだった。



 高校三年の冬、大学受験期真っ最中。


 勉強で忙しいとかこつけて、

 彼女の優しさに甘え、

 そして会話すら疎かにしていた俺に。


 彼女は痺れを切らして恋人の関係を辞めようと提案してきた。


 勿論、俺は動揺した。


 その子は俺にとって人生初めての彼女だったのだ。


 容姿は特段可愛いと言えるわけでもなかった。

 顔は好みじゃなかったし、体目当てでもなかったが男としては気になる胸も大して大きいわけでもない。

 よく言えば清楚で、悪く言えば地味。

 黒いフレームの丸眼鏡のほうが目立ってるほどだった。


「あの、膝大丈夫ですか?」


 出会いは体育祭の日の保健室。

 保健の先生が他の子の手当てをしている時、サッカーの試合で膝を擦った俺の消毒をしてくれたのが彼女だった。


 特段印象に残ったわけでもない。

 地味なくせに、突っかかってくるそんな程度。

 ただ、そんなありきたりで、くだらない。

 なんでもない出会いからと言うものは発展していく。


 なんとなく、なんとなくで付き合い始めた。

 

 今となっては若気の至りというか。

 あの頃の俺はなんていうくだらない憧れで、言ってしまったのだ。


 でも、住めば都と言うように付き合ってみれば可愛く見えた。


 そして、何より彼女の性格の良さに俺は惹かれていった。


 優しさというか健気さというか、律儀さと言うか。


 言葉では簡単に言い表せないほどの真っすぐな心に俺は惹かれたんだ。


 何でもかんでも一生懸命な、あからさまなくらいに真面目で、可愛いくらいのひたむきさに魅力を感じた。







 と今では思う。


 





 —―でも、そんな日々はたった一年だけだった。


 俺は慢心していたのだ。


 好いてくれた、だから気にしなくていいと、彼女のこと蔑ろにしても分かってくれる、大丈夫だと。


 何より俺の辛さは理解してくれるだろうと、馬鹿みたいな根拠のない確信を持っていた。


 移り変わらないものなどこの世にはない。

 少しでも支えているネジが外れたら、それは連鎖していく。


 お互いのすれ違いだった。

 俺も、彼女も、何かを支える余裕さえあれば、多少でも努力していれば。


 いや、彼女は努力をしてくれたじゃないか。

 勉強で疲れた俺のために、毎日のようにお弁当を作ってくれたり。

 勉強で死にそうになってる俺のために、お菓子だって作ってくれた。

 

 誕生日にはクッキーを、クリスマスにはケーキにシャーペンのプレゼントも。

 手紙には『応援してます』と書かれてあって。


 でも、そんなプレゼントをあの頃の俺は当然だと考えてしまっていたのだ。

 なぜなのか、それは俺が馬鹿だったからだ。


 俺にも努力する余地さえあれば。

 分かってくれるとおごり高ぶっていなければこうはならなかった。


 当たり前だった日々、それは俺の怠慢さで少しずつ瓦解していき、そしてその皺寄せはやがて自らの首を苦しめるとも知らずに。


 

「—―先輩」

「栗花落……」


 あの日、雪降りしきる真夜中の大通公園。

 土曜日の予定のない時間に呼び出されて、顔を合わせたときにはもうこと切れていた。


「今まで、ありがとうございました……でも、ごめんなさいっ」

「いや、待ってくれ!!」


 そのありがたみに気づいた時にはもう、遅く。

 彼女はこちらを振り返らない。

 一滴。

 彼女の垂らした涙が雪と混じって消えていく。


 そして、涙が地に落ちた頃には彼女はもういなくなっていた。


「こ、とり……」


 一度も名前を言えることもなく、俺の一年と半年はもう彩られることを忘れたのだった。

 




 




「あぁ……今日もこの時間かぁ」


 時刻は夜十時、駅ホームのベンチに座りながら俺—―藻岩哉もいわはじめ齢二十六は呟いた。

 冬が少しずつ顔を出してきた肌寒い十一月上旬、世間は食欲だのスポーツだの読書だのと現を抜かすこの秋の中。


 我が会社の研究室ではこの時期には研究員が総出となり、実験や試験や修正を繰り返す忙しい時期、いわば繁忙期真っ最中だった。


 普段ならここまで忙しくはない。


 ましては定時で帰る日ばかりだ。

 しかし、時期は時期。

 この業界は常に流動的であり、不規則。


 それも学会や国際発表を控えたこの時期はとてもじゃないが楽はできない。


 勿論残業の分の給料はでるがこの期間の仕事時間は労働基準法など無も等しいほどだ。


 今日はリーダーが徹夜で実験すると言っていたな、来週は俺の番かもな、なんて想像をしながら数分で来るであろう電車を待っていた。


「そっすね~~。僕のところも今週は忙しいっすよ」

「へぇ……変わんねえんだな」


 そんな疲弊しまくった俺に声をかけてきたのは同僚で同期の久遠博也くおんひろや二十四歳だった。


 誰にでも笑顔を振りまき、まさに今時の女性が好きそうなイケメンの男である。


 黒髪マッシュってやつだな。

 似合うのが余計に女性たちを恍惚とさせるのだ。


 ちなみに、なぜ俺のほうが年上かと言えば院卒か大卒かの違い。


 配属された研究班は違うが、入社すぐの新入社員合同研修会で俺から声をかけたことで仲良くなった。


「変わんないっすねぇ~~来週はリーダーがドイツに行くらしいんすよ。ひゃぁ、怖いってもんすよ。ドイツ語なんてかっこいいくらいでまったく分からないすもん」

「そっちのリーダーもエリートだから安心しとけよ。それに、今はAIが進歩してるんだから翻訳で事足りるだろ」

「えぇ……ていうか、遠回しに否定されてる気がするんすけど?」

「どうだかなぁ」


 ぶっきらぼうに言うと博也はむすっと口を突き出した。

 こんななりだが大学は俺よりもいいところを出てるし、人生で一度しか付き合えたことがない俺に比べて女性経験も多い、人生経験では先輩にあたる。


 そんな彼には敬語はしなくていいと言っているんだが、「僕は後輩プレイが好きなんすよ」と意味わからない理由を突きつけてくるので最近はもう気にしなくなった。


 駅のスピーカーから「前の駅を発車しました」とアナウンスが鳴り、そろそろかと立ち上がる。


「—―っていうか、あれっすよ哉さん。変わらないって言ったら、僕の彼女! この前急に別れを切り出してきたんすよ」

「ほー急だな。んで、どうしたんだ?」

「僕も嫌だったんでこっちから願い下げだって言ってやりましたよ」

「ノリノリだな」

「だって、あれすよ? あっちは働いてもいないのに少しの家事もやってくれないんすよ? 僕が料理までしてるのに家に帰ったらぐーたらスマホ見てるし。んま、最初が悪かったんでだと思ってましたけどね~~」

「……そうか、災難だったなぁ」


 ちなみに、博也の言う「締り」というのは行動がしっかりしてるとかの意味ではない。


 意味的にはそう、女性のだ。

 繁殖を司るあれだ。


 まぁ、ある意味ではの意味ではあるだろうがな。


「うぅ~~さむっ」

「っ」

「ん、どうかしましたか?」

「い、いや。別に」


 そう、こいつはさっきも言った通りに女性経験が多い。

 多いと言ったが多いなんてどころではなく、めちゃくちゃに多いのだ。


 大学時代には言い寄ってくる女性や気になった女性は口説き落としてワンナイトをしまくったらしく、そこでの経験か、締りがいいといい女とのことらしい。


 全く意味が分からないが、彼には彼なりのプライドがあるようだから気にはしていない。


「—―てか、彼女作らないんすか?」


 そんなところで、彼は思い出したかのように質問をしてきた。

 

「あぁ、まだかなぁ」

「っぶ。できないの間違えじゃ?」

「うっせ」

「はははっ! まぁ、哉さんってセカンド童貞こじらせてるすもんね~~」

「……うっせぇ。くそ」


 事実、高校三年の春。

 経験はいい雰囲気になったあの日の一瞬だけ。

 あまり思うようにいかず、断念したのが最初で最後。

 あれ以来、俺は少しセッ〇スがトラウマでもある。

 

「まぁ、せいぜい頑張ってください~~」

「ったく、分かってるよ……」


 しかし、二十五にもなってたった一回だなんて恥ずかしいだけで何度も体を重ねたことがある久遠にできる抵抗は「うっせ」の一言だけだった。


「にしてもそうだな、家事はそうだな」

「お、哉さんやってくれます?」

「やだよ、俺もめんどい」

「ひぃ~~、いっそのこと家政婦さんでも雇っちゃいますかね?」


 思えば、帰ってから家事はたんまり残っている。

 今の仕事についてからはずっと一人でこなしているがやはり、時間がないときはそのままなことも多く、特に今なんか部屋が散らかりまくりでやらなくてはいけないこともたんまりとある。


「家政婦かぁ」

「んま、雇って帰り際にそのまま~~」

「馬鹿言うな」

「っちぇ。それができないならぁいらないっす」

「……何のための家政婦だよ」

「無論、エッ――」

「はいはいそこまで」


 横にいる性欲馬鹿はおいておいて。

 家政婦を雇うのはないことでもなかった。

 むしろ、かもしれないと思った。





 そして、翌日。

 俺は玄関の前でドキドキと胸を躍らせながらぐるぐると歩き回っていた。


「ふぅ。安心しろぉ、別にそんなことないからなぁ」


 そう、俺は家政婦を雇うことにしたのだ。

 インターネットで調べ、近いところでやっている家政婦宅配サービスで予約をし、週末の午前中に設定。


 それであっという間に予約した時間になり、待っているのだが胸がそわそわして止まらない。

 どうやら来る人は女性らしく、別に期待しているわけでもないが博也のせいで妙に緊張している俺がいたのだ。


「って、さすがにこれはきもいな。普通にしよう」


 立ち止まり、数秒間。


 —―ピンポーン。


 インターホンが鳴った。

 体がびくついた。


「ふぅ……」


 ため息を吐き、生唾を飲み込んだ。

 

 緊張を胸に仕舞い、俺は落ち着きながらゆっくりと鎖を外して鍵を解除する。


「は、はい……お待ちしてましたぁ」


 そしてドアノブを捻り、扉を開ける。


 


 —―その瞬間だった。




 扉とかまちの間。

 燦燦と輝く秋の太陽の逆光に照らされて、目を細める俺の前に頭を下げる彼女が顔を見せる。


 その瞬間、俺はどこか既視感を感じた。


 どこかで会ったんじゃないかと思う、あの雰囲気がまだ忘れられていない記憶に突き刺さる。


 ただ、顔は記憶違いだった。


 亜栗色の艶やかな長髪に、どこかで見覚えがあるエメラルドブルーの瞳。

 色白で滑らかな肌に、すらっとした体型で目の前の女性に俺は突き刺さるものを感じる。


 一言でいえば美しかった。

 よく言えば清楚で、悪く言っても垢ぬけた超絶美人。


 完全無欠の美人。

 私生活では確実にモテないわけがないほどに綺麗な女性だった。


「—―本日、家政婦宅配サービスで参りました。栗花落つゆりことりです。よろしくお願いしま――」


 頭をゆっくりと上がっていく中、途中で目と目が合った。


「え」


 予感が確信に変わる。


「あっ」


 そう、俺の目の前に立っていたのは何を隠そう――俺の、高校の時に付き合ったあの地味な後輩だったのだ。


 

 




あとがき

 次回もプロローグです!

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