第3話
—―からんからん。
扉を開けると鈴の音が鳴った。
駅前の背の高いビルの地下一階。
人気の少ない薄暗い階段を下りて、廊下を抜けたその先。
あまり飲食店に詳しくない俺が唯一、足しげく通っているこじんまりとした雰囲気の喫茶店のランチタイムに俺たち二人は入店した。
「すごい……ですね。私、こういうところ初めてで」
「んはは、だろ?」
一歩踏み込めば、栗花落は隣で目をパチパチと見開きさせて溢すように呟いたので、俺は少しこわ高らかに自慢げに言い返す。
店内にはあまり人は少なく、パッと見渡しただけでも見えたのは談笑を楽しむ夫人たち数人と新聞紙を広げてコーヒーを一杯飲むお父さんくらい。
奥の厨房をちらっと見ると、白いひげの生えた老人が黙々と食器を洗っている姿が見えて、なんでもなく流れるジャズ楽曲がこじんまりとした雰囲気を醸し出していた。
そんな騒がしいわけでも静かというわけでもないちょうどいい空気感の中を、俺たちはカウンターの横を通り、奥のテーブル席へ向かっていく。
席に座り、着ていたジャケットをハンガーにかける。
すぐさま栗花落のコートを受け取ると彼女は「すみませんっ」と後輩らしい挨拶を浮かべた。
ゆっくりと席に着き、一息したところで栗花落がメニュー表を手に取ってその場に広げた。
「おすすめとかって何かありますか?」
「んと、そうだなぁ。めっちゃうまいのはここと特性ハンバーグかな。肉汁たっぷりでおいしいぞ」
「そこまで言われたら即決ですね、じゃあそれで!」
「了解っ」
メニュー表を見て約十秒。
我ながらその手際の良さに感服する。
注文を言うために手を挙げようとすると、店主のおじさんが丁度よくお冷のグラスをトレイに乗せてやってきた。
「久しぶり、はじめくん」
「久しぶりです、おじさんっ」
俺が返すと店主のおじさんはぺこりと頭を下げて、トレイからお冷を下ろしてテーブルへ。
その間、俺から目の前に座っている栗花落の方へ視線を移した。
そこで何かを察したのか、すぐに俺の方へ戻して尋ねてくる。
「今日は……あぁ、そういうことかいね。色男になったんだね?」
「やめてくださいよ。ただの後輩ですから」
「ほぉ……そうかいそうかい、それじゃあメニュー聞くよ」
いつにもましていじってくるおじさんに、頭を横に振って答えるとそれ以上は聞いてくるわけでもなく頷いて呟いた。
カツサンドとハンバーグと答えて、戻っていくおじさん。
そんな最中、ずっと無言だった栗花落に目を向ける。
「お、おい。栗花落……大丈夫か?」
「…………っは、えっ。あ、すみませんっ」
「具合でも悪いのか、あれだったらどこかで休むけど?」
「い、いやっ、ほんとなんでもないです。なんかほんとびっくりしただけで」
「びっくり?」
もう一度聞き返すと慌てて頭を上下に振る栗花落。
どうやら本当にそうらしい。
「はっ、はいっ!」
「そ、そうか」
まぁ、それもそのはず。
こんなよぼよぼ白髪おじさんに色男だとか言われている俺を見たら、嫌でも分かってしまう。
もちろん、俺もその気は多少なりあるし、そうなってくれれば何か変わるのではないかと思っている節もある。
ただ、いきなりそこへ直球でいこうだなんて考えてはいない。
あの時みたいに、なんでもかんでも楽に考えられる歳ではなくなっているわけで、慎重に物事を選ばないといけないこともよく分かっている。
それから少し待つと、ハンバーグが二つやってきた。
ナイフで真ん中に切り込みを入れると溢れ出す肉汁。
香ばしいショウガと胡椒が効いた独特な匂いが広がり、鼻腔を刺激する。
目の前に置かれたそれは何度も見てきたものだったが、やはり「美味しそう」の一言に限るものだった。
「いただきますっ」
ぱっとフォークを手にすると目の前から手を合わせながら挨拶をする声が聞こえてくる。
それから、手の間から覗き込むような鋭い視線が飛んできた。
「先輩っ。いただきますはしないんですか?」
「ん、あぁ。ごめんごめん」
「ほんと、先輩は昔から挨拶忘れますよね」
「確かにな、社会人になってからは気にしたこともないや」
「でも、しなきゃ駄目ですよっ」
「おぅ。わかったよ」
すまんすまんと手を合わせて、俺は栗花落に合わせて口にする。
「「いただきます」」
実に、これを口にするのは何年ぶりだろうか。
大人になって、いや大学生になったころからもう何年間も口にしていなかった気がする。普通に考えてみれば面倒くさいことだけど、そういえば彼女はこういうところに厳しかったような気がする。
『先輩っ、しっかり手を合わせて』
『えぇ、またそれぇ?』
『またも何も、感謝は大事です! 将来、先輩のお母さんにも挨拶するんですからね!』
『俺の親みたいだなほんと』
『女子に親みたいは悪口ですよ』
『わ、悪かったよ……』
思い出せば、湧いてくる情景。
今ではもう感じられることが出来ないであろうあの頃がよみがえると自然に手が止まる。
「……んっ、おいしい!!」
感傷に浸る間もなかった。
気が付けばその本人がハンバーグを一口しているところが見えて、続けて嚥下する音が聞こえてくる。
休日の昼ご飯。
普段なら一人きりで食べていたものが――今日は少し、味が変わっていたような気がした。
「美味しいな」
「はいっ」
◇
ハンバーグを食べた後、俺と栗花落は気分で店主特製チョコパフェを頼んでしまい、それはもうお腹がいっぱいになった。
高校生の頃なら一瞬でぺろりと行けたものもさすがにアラサーになると食えなくなってくる。理解が追いつかない速さで体が衰えていくのは本当に末恐ろしいものだ。
結局、すべて食べ終えた後、今回の代金は俺持ちとなって店を後にする。
しかし、ちょうど地下から階段を上り地上に出たところで隣から申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「あ、あの……本当にいいんですか?」
横を見ると栗花落が申し訳なさそうに財布を片手に見つめている。
どうやら、俺がすべて払ったことを気にしているらしい。
まぁ、昔なら一緒に割り勘にしていたかもしれないが俺も大人の男だ。この程度、ランチで三千円と少し、このくらいならば痛くはない。
「何々、いいってことだって。これでも俺、結構稼いでいるんだぞ?」
「でも。さすがに私だって社会人ですし」
頭を横に振って言い返すと、彼女も中々食い下がらない。
どうやら、本気で気にしているようだ。
「何より俺が誘ったんだから。というか、今日はご飯を食べる栗花落を見れただけで十分だよ」
「な、なんですかそれは……」
「チャラにしていいぞってこと」
「……ま、まぁ先輩がそういうのなら甘えます」
「おう。甘えてくれ」
目を瞑るように、バックの中に財布を仕舞う仕草を見て俺は一歩歩き出す。
それを見て、栗花落は少し小走りで後をついてくる。
「大丈夫か?」
「はいっ」
ヒールで踵を鳴らし、すぐに俺の横へ。
我ながら、本当に今更思うが……とても懐かしい感覚だった。
ぽっと出。行き当たりばったり。
それでもいい。そう思っているところで栗花落が一言。
「あの先輩、ちょっと化粧品コーナー寄ってもいいですか?」
「ん、いいぞ」
「ありがとうございますっ」
「てことは、あれかな? 駅横の?」
「はいっ。そっちで」
「りょーかい」
信号を渡り、再び来た道を戻っていく。
一歩前に出た彼女の背中がふと目に入り、俺は思った。
訂正しよう。
とても懐かしいなんて言ったけど。
やっぱり、栗花落と化粧品を買いに行くなんて、とても新しい感覚だった。
あとがき
卒論なう
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