第49話
◇◇◇◇
そして、あっという間に時は過ぎ去り、一月末。
『髭剃りと革靴、それと資料と、あとは気持ち……しっかり持ってきましたか?』
「大丈夫だよ、栗花落。さすがの俺もそこまで何もできないわけないから」
『そうですかね……私、心配です』
電話越しに栗花落が心底心配するような声が聞こえてきて、ちょっと悲しくもなる。にしても、俺はどこまで栗花落に心配をかけているんだか。
日々の生活を今一度改めなくてはいけないかもしれない。
『ご飯とかも、しっかり栄養保ててるもの食べてますか……やっぱり私がお弁当を作った方が』
「いやいや、大丈夫だって。何せホテルの料理出てるし、しっかり野菜も取るようにしてるよ」
『本当ですか? 先輩のことだから、お肉ばっかり食べて』
「そんなことないよ。栗花落に言われるし、気を付けてる。それに時間ないときは野菜ジュース飲んでるからね」
『……甘いやつじゃないですよね? あれは栄養ないですからね。しっかり美味しくないやつじゃないと』
「あ、あぁ」
思い浮かんだ野菜ジュースと言えば普通に甘いやつだ。
てっきり甘いやつでもいいのかと思っていた。考えておかないといけないな。
『せんぱい?』
「ぜ、善処するよ」
『頼みますからね、私、心配ですから』
ちょうど今。
ちょっとだけ、その心配を実感した。
にしても、最近は栗花落から学ばされることばかりだな俺は。
「あぁ、ちゃんとする。少なくとも野菜ジュースはまずいやつを飲むようにする」
『はい。頼みますっ』
【三番線に函館行北斗12号が到着します。少し下がってお待ちください】
栗花落の声が聞こえた後、すぐに駅構内のアナウンスが鳴った。
「おう。それじゃあそろそろ切るわ、ちょうど今から電車乗って向かうし。あっ、田中さん。このバック持ってもらっていい? 鮎川さん、これで大丈夫ですね?」
「分かりました!」
「うん、12号だし、時間もお昼丁度であってるね」
「了解です」
そして、ちょうど隣に立っていた後輩の田中さんに一度バックを持ってもらい、鮎川さんに確認する。
すると、電話越しでまた栗花落の怪訝な声が聞こえてくる。
『先輩、後輩の子をこき使わないでくださいよ……』
「わ、分かってるってもう。そんなことはしないから安心してくれ」
『ならいいんですけど……それに…………ぃ……だし』
今度は栗花落が何かを口籠った。
「なんて?」
『—―なんでもないです!』
俺が聞き返すと、ぐぐぐっと喉が鳴る音が聞こえ、何か言ってくれるのかと思うと今度は大きな声で怒鳴られる。
「え、えぇ……悪い事言ったか?」
『悪いことは言ってないです……けど』
「けど?」
『やっぱりなんでもないです!』
「えぇ」
そしてまた、理不尽にも言い切られる。
『とにかく、先輩はしっかり学会発表に集中してくださいね! では!』
「あ、ちょ、栗花落!」
そして、駅に電車が付くと同時。
栗花落の電話は唐突な別れ言葉と共に切れられたのだった。
「……俺、悪いこと言ったのかな」
まったく、何をしたのか頭には浮かんでこない。
しかし、どうやら俺は栗花落に対して何かしてしまったのだろう。
「藻岩君」
「藻岩さん」
そして、スマホ画面をただ茫然と眺める俺に対して、ジト目を向けてくる鮎川さんと田中さんの二人。
「君は鈍感だね」
「鈍感ですね……あ、いや。私が言うことじゃないのかもしれませんが」
「え?」
結局、栗花落が起こった理由も、二人がジト目を向ける理由も分かるわけなく。
俺たちは電車に乗り、仙台へ向かった。
◇◇◇◇
「はぁ……私はどうしていつも」
電話を切った後、軽く自己嫌悪に陥った。
先輩の後ろから聞こえてきた声。
おそらく、この前聞いた上司の鮎川さんと後輩の田中さんという人だと思う。
以前から、三人で行くと言っていたし私もそれを分かったつもりではいたけど。
「あぁ……先輩、取られたりしないよね」
不安がぬぐえなかった。
先輩は誠実でそんなことしない人だって分かってるつもりだけど。
だって、田中さん女性だし……前に見せてもらった研究室の集合写真じゃ結構かわいかった子だったし。
嫉妬しちゃうというか、なんというか。
「ほいほい、そこで独り言はやめなさいな……みんなに聞こえちゃうわよ?」
「あっ、純玲」
休憩室のベンチ、そこに座りながら自販機で買ったお茶を片手に何も映っていない真っ暗なスマホの画面を眺めていると後ろから純玲が話しかけてきた。
「何々、色恋事?」
「違うって、別に。この前に言ったでしょ、先輩が仙台に出張に行かなくちゃいけなくなったって」
「あぁ、それで。そっか、今日だったんだね」
「うん。一週間くらい」
「ふぅん……寂しいわね、まだ付き合ってもないのに」
「っな!」
全く持って真実だけど、芯を食っていてちょっと胸が痛い。
そんな私の顔をニヤニヤとした顔で見つめてくる純玲は心底、性格が悪いと思う。
「そ、そうやって自分は順調だから人を笑いものにして……」
「まぁね~~純情に恋してるからじゃないかなぁ?」
「私だって純情だけどっ」
「あはははっ。そうだね~~んまっ、そんな女々しい顔はやめて。せっかく仕事が落ち着いてきたんだしさ」
「落ち着いたってね、もう少し残ってるでしょ!」
「いやいや、まだ残ってるでしょ」
「すぐ終わるも~ん。あ、今日二人で焼き肉行っちゃう?」
なんて呑気に騒ぎ始める純玲を前にパンパンと手を叩く。
「今日は無理よ。私、部長に提出しないといけないものあるから。ていうか、女々しいは女性にあまり使う言葉じゃないと思う」
「うわぁ、さすが次期主任……そして読書家」
「はいはい。まぁ、明後日当たりなら多分いいわよ。せっかくだし、飲もう」
「よし、それじゃあ明日ね! んじゃ、さっそく終わらせてきて!」
そして、背中を押されながらデスクへ戻り、最後の後片付け仕事が始まった。
◇◇◇◇
「……ことり」
薄暗い夕陽の中、一人の男がそう呟いた。
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