第29話


◇◇◇


 そして、翌日。

 俺はいつもよりも早く会社に出社し白衣に着替え、発表用の資料作成に励んでいた。

 もちろん、そんな俺よりも早く来ていたのは言わずもがな鮎川さん。

 開口一番言ってきた言葉は「おぉ、朝早いね」だった。


 朝早いね、と言ってもせいぜい二十分とかそこら。

 通勤ラッシュには掠っているため人も多く、あまり恩恵は受けられないのだが。

 だいたい、誰が朝早いだよって話だ。


 一番早いのは間違いなく鮎川さんだと言うのに。


 我らのリーダーの朝は早い、それもとてつもなく。

 この前なんてここで寝泊まりして夜通し作業やってたなんか聞くし、まぁ、教授とかやってる人なら普通のなのかもしれないけど。修士課程の時はよく教授の部屋が深夜に来た時でも灯りついてたし。


 根性が違うっていうか、多分この人の場合はこれが生きがいでもあり、趣味でもあるんだろうけど。


 と、そんな朝を過ごした俺は普段よりも少し急いでスケジュールをこなしていく。いつもなら頼らないが今日だけは仕事を後輩に(無理のない程度で)回したり、お昼の時間を少しだけ削ったりしつつ。


 鮎川さんからは「大丈夫、無理してない?」と心配されたくらいだったが定時を少し過ぎたくらいにはすべてを一区切りつくところまで終わらせることが出来た。


 まぁ、心配は嬉しいけど背中押してくれたのは本人でもあるんだけどな――なんて思いつつ、俺はすぐにスーツのまま最寄り駅から電車に乗り込んだ。



「ふぅ、あっ、先輩!」

「おぉ、栗花落。ちょっとだけオーバーしちゃったかな、待ったか?」

「三十分前ですよ今、むしろ早く来すぎちゃったくらいですから」

「ははっ、考えてること一緒だな」


 やってきたのは市立病院。

 ローカル市電の近くに建てられた大きめな病院であり、そしてちょうどこの前栗花落を送り届けた場所でもあるところ。


 なぜ、そんなところに来たのかと言うと理由はただ一つ。


「あれかな、早すぎて栗花落のお袋さんには迷惑だったかな?」

「えっ……いや、そんなことはないですよ」


 少し逡巡し、ぷるぷると首を横に振る彼女。

 俺がここへ来た目的は何を隠そう、彼女の親御さんに挨拶にきたためだ。

 ただまぁ、別に娘をくださいとかいきなり飛びまくったことを言い来たわけではなく、高校の時は一度もお目にかかれなかったからこれまでのことも含めて挨拶したかったから。


 正直、後々話を聞いたら栗花落が不安定だった時に相談に乗っていたから、あまり俺への印象はよくないらしいけど。


 もとはと言えば俺の責任でもあるし、そのくらい覚悟もあってきている。

 それに、俺としても栗花落と将来的に関係に持っていきたいと考えているならこのくらいするのは礼儀でもあるのだ。


「でも……私、先輩のことを」


 病院を前に、栗花落は少しだけ暗い顔でそう呟いた。


「大丈夫。それは分かってるから、俺も承知の上だよ」

「……すみません、私が」


 あれからまだ二日。

 思っていた気持ちをぶちまけてすっきりとしたと言っても、まだ根底から覆せたとは言えない。

 栗花落も不安そうな顔を浮かべているということはやはりまだ思うこともあるのだろう。

 

 実際、俺もまだ心の棘は取りきれたと言えるわけでもないし、まだ心配や不安、懸念もある。最近は仕事も大詰めのところまで来ているし、余計にそうだ。


 ただ、だからこその挨拶でもある。

 これでもう一度始める。

 そのための意思を持っている。

 だからこそ、俺はここに来たのだ。


 一歩ずつ思い歩を進めながら、俯き呟く彼女の頭をポンポンと叩く。


「気にするな、もとはと言えば俺が悪いんだから――ってこういうのはよくなかったか」

「そ、そうです。私も」

「なら、解決しようぜ一緒に。一応、栗花落の親御さんには言いたいこともあるんだ」

「言いたいこと……はっ⁉」


 俺が何がとは言わないでいると栗花落は何かを察したようで顔を赤くする。

 そんなところもやっぱりかわいいなと感じつつ、俺たちは病院の中へ入っていった。




◇◇◇


 受付に呼ばれるまで少し待ち、呼ばれた後は栗花落の顔見知りの看護師さんがやってきてそのまますぐに病室の前までやってこれた。


「あの、先輩?」

「ん、あぁ、どうした栗花落?」

「……入らないんですか、そんなところで立ち止まってないで」


 その、あまりにもとんとん拍子で進みすぎたおかげで体がビクビク震えてしまっていた。


 緊張なのか、それとも不安なのか。

 よく分からなかったがなぜだか体が進まない。

 自分から言っておいてなんだが、めっちゃダサいと思う。

 重々承知だ、俺も。


「い、いやさ。だって、なんかここまできたら急にな」

「急になって、先輩さっき言ってくれたじゃないですか……言いたいことあろうぜって、解決しようぜって」

「ん、ま、まぁそれはそうだぞ。俺には言わなくちゃいけないことも解決したいこともある」


 口だけはいっちょ前の自覚があったが、なぜか体だけがついていかない。

 無論、カッコつけた手前。栗花落からのすぅーッとした冷えた目がこちらをじっと見つめてくる。


「……じゃあなんで、一歩手前で突っ立ったままなんですか」

「いやぁ、なんかな。足が勝手にな」

「はぁ……まったく。カッコつけてた先輩はどこに行ったんですか、もう……(かっこよかったのに)」

「え、な、なんだ?」

「何でもないですっ。とにかく、入りますよ」


 何かぶつくさと呟くと呆れたようにぷいっと前を向いて扉に手をかける彼女。

 俺が慌てて、その手を止めようと一歩踏み出すと栗花落がガラガラと音を立てて扉を開いた。


「あ、っちょ」

「お母さん、来客が――」


 と、手を出した俺の健闘もむなしく。

 そのまま、扉の中へと一直線。

 よろめく体が中へ入っていくと、奥のベッドからこちらを見つめる人影が見える。


「あら、ことりちゃんって……あの、どなたかしら?」


 亜栗色の短い艶のある髪に、こちらをじっと見つめてくるエメラルドブルーの綺麗な瞳。

 栗花落よりも一回り小さな体に、病気によるものなのか少しだけやせ細ったかのように見える。


 しかし、一つだけ言えるのは本当に似ていた。

 栗花落がこのまま年を取れば、おそらくこの人のようになるであろうといった見た目で一目見た瞬間、生唾を飲み込んでしまった。


 似ていて、それも遠からず。

 ただ、どこか違う。

 雰囲気も様子も全く異なった女性が栗花落から俺へ視線を移し、目が合い、そして固まって尋ねる。


 バクバクする心臓。

 なんなら、クリスマスの夜よりも緊張してしまっているかもしれない体。


「あっ……えっと」


 さっきまでの威勢はどこに言ったのやら。

 ジト目を向けられても仕方ない反転した行動だったかもしれない。

 ただ、でも。


 その人を目にして、こぶしを握り締め――俺は頭を下げた。


「—―藻岩哉です! いつも栗花落さんのお世話になっています! お話したいことがありまして、お邪魔させていただきました! はせ参じました!!」


 学会並みの緊張と共に、勢いと一緒に放たれた言葉に静寂が生まれ、そして数秒後。



「っぷふ」

「え?」


「っぷぷぷ……ふはははっ……ははははっ、あ、あなた……」


 急だった。

 急にお腹を抱えて吹き出す栗花落のお義母さんに、隣から冷たい若干と引いた視線を向けてくる栗花落。


「あ、え?」

「あの先輩、なんですか……それは」

「ことりちゃんっ……あなた、随分と面白い人連れてくるのね……ふはっ……ごめんね、えっと藻岩君? 哉君の方がいいかしらね。私は栗花落愛華、ことりちゃんの母親よ」


 一体全体、意味が分からない俺がぼーっと固まっていると栗花落からの肘ドンと、お義母さんからの一言で顔が一気に熱くなっていく。


 俺、今なんて言った?


「それにしても、いいユーモアね。かわいいわっ」

「お母さんじゃなかったら引いてますよ、はせ参じたなんて……」


 はせ参じた。

 俺はどうやら、そう言ったらしい。

 

 初めての好きな女性の両親への挨拶、そんなイベントは俺の恥ずかしい失敗から幕を開けたのだった。




あとがき

 落とし前っていうやつですね。

 




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