第24話
◇◇◇
車を降りた私はすぐさま病院の中へとかけていく。
すると到着を待っていたかのように看護師の永井さんが心配そうに声を掛けてきた。
「あのっ、栗花落さん!」
「な、永井さんっ。あの、お母さんは?」
「あ、うん。それでお話があって……一応、意識は回復しました。問題はないですっ」
どうなるか分からなくてハラハラしていた胸の内が少しだけ軽くなる。
「それなら、良かったです。でもお話をしたいので」
「そうですねっ。では、こちらに」
そう言われて永井さんに連れられて母の病室まで行くことになり、彼女は病室の前で立ち止まって「どうぞ」と一言呟いた。
「あ、すみません」
「どうかしたの?」
「連絡を」
「あぁ、そうね。長くなるかもだし、帰ってもらわないとね」
「はい」
スマホを取り出し、すぐにラインを送る。
『意識は回復しました。命に別状はないみたいです。』
『……台無しにしてしまってすみません。今度、またお願いします。もう遅いですから帰っても大丈夫です。わがまま言ってきてもらったのにすみません。本当に』
初めての長文を送り、スマホを仕舞って扉を見つめる。
「……ん」
どんな状態なのか。
一度安心しきってしまったけど、こうして目の前に来ると緊張感と不安が胸の内を支配して息が重苦しくなる。
「っお、お母さん」
ドアをノックし、そして中へ入った。
一歩病室へ踏み出すと、中はいつも通りだった。
綺麗なテーブルに、真っ黒な画面のテレビ、この前買ったフルーツがまだ置かれていて、生活感のあまりない病室のまま。
そして、ベッドの方に目を向けると疲れ切っていた母が横たわっていた。
「……こ、とり」
名前を呼ばれて、肩が跳ね、足早に近くへ駆けた。
そこに、母はいた。
今までよりもずっと弱まった声量で私を呼ぶ。
「だ、大丈夫?」
大丈夫なわけがなかったけど、出てきた言葉はそんなありきたりなものだった。
「う、うん……ことりちゃ、ん……こそ」
「私、は何もないよ。元気」
「そっかぁ……ごめんねぇ、こんな日に」
その眼は私を見つめながらも、どこか遠くを見つめているようで。
申し訳なさそうに謝った。
日付は12月25日。
クリスマス。
昨日の今頃は、先輩とデートに行くために真剣に服装を考えていた――まさか、こうなるとは思っても見なかった。
以前あったときは元気そのもので、なんなら最近は私に対してクリスマスプレゼントを買おうと思ってたくらいだ。
もはや、そうなるだろうと気にさえかけていなかった。
でも、私はそんな母の謝罪に首を横に振った。
「ううん。気にしないでいいから」
「でも……何か、あったんじゃないの?」
確かに、何かあった。
むしろ、さっきまで一緒にいた。
「っ」
先輩の顔が過って、一瞬喉を詰まらせる。
この前、純玲に言われたときにとっくに決めたはずのものがたったの数時間でもう崩れかけていた。
—―また、どうしたらいいんだろう。って悩んでいる。
それに、何より。
その機会を与えてくれた神様が、こうしてその機会を奪い去ったのだから。
いや、でもきっともしかしたら、今日この日に、母に言わせるためにこうなったのかもしれないけど。
でも、私は目を瞑った。
「……な、んにも、ないよ」
言わなくちゃいけないのに。
それでも、嘘をまたついた。
「……ねぇ、ことりちゃん」
「な、なに?」
「私ね……ことり、ちゃんの……重荷にはなりたくないんだぁ」
「重荷なんてっ! そんなわけないじゃん。お母さんが……」
「八年前のあなたに言い聞かせたいくらいだわね……今の言葉、を」
「うっ」
きっとそれは、反抗期で口すら聞かなかった私に言っている言葉だったけど。
なぜだか、今の私に突き刺さる。
嘘をつき続けている愚かな、私に突き刺さる。
胸にぽっかりと大きな穴が開いて、でもそれを何かで隠して……のうのうと笑っている私に。
「だから……さ、こんな日に、こうなっちゃったって後悔してる」
「後悔だなんて……だいたい、元凶は、何もかもほっぽりだしたあの人だし」
もはや、顔すら浮かばない。
いなくなった父親の。
「……ううん。違うの」
「え?」
「違う。確かに、ストレスが原因であったし、今の……この状況はあの人のせいでも……あるかもしれない」
重く、重苦しい話を。
今まで、あまり話してくれなかった話を目の前で寝たきりの母は遠い目で話してくれていた。
「私も伝えることを……忘れていたわ」
「え」
「仕事で疲れたあの人を……考えることすらしなかった」
あれ。
と、次の瞬間には声が出なかった。
「私の方が、辛いじゃないかって……気にも留めず……いじっぱるために、ご飯は作らず……考えもなしに、攻めていて」
あれ、これは。
「私から……一つでも、寄り添う素振りさえ、見せていれば」
これは、だって。
「……何とかなったかもしれないから。結局、自ら火の粉を撒いていただけなんだわ」
だって……まるで。
「それを……今まで、あなたに押し付けていた……会ったことすらない、あなたの恋人に押し付けて」
まるで。
「だから、別れたって聞いた時、少し痛かった。うまくいかないこと……すべて、背負わせてしまったせいだって」
あの日の私。
「いや、そんなことない!! あれは……あれは。全部私が決めたもので」
私が突き放したものだ。
「もう、遅くなっちゃったかもしれないけど」
「……っ」
「母親らしいこと言えなかったから……」
間に合わない。
だって、今日言うつもりだったんだ。
でも、その今日が遅かったんだから。
今日でもなく、昨日に言えば。
昨日ではなく先週に言えば。
もっと言うなら、再会した先輩の部屋で言えば。
私が全部、その機会を壊してしまったんだから。
決断が一歩、遅かったんだから。
すべて、あの日に解決出来たら何も変わらなかったんだ。
先輩を捨ててしまった、愚かな私が。
「……言いたいこと、私に構わず言いなさい」
こと切れたように、その手を掴んだ私はいつの間にか泣いていて。
そのまま、すべて話してしまっていた。
「—―――だから、悪いのは私。お母さんにも、先輩にも、みんなに嘘をついていたの」
「そう」
愚かな私の愚かな短い独白に、母は何も言わずに聞いていた。
疲れているだろうに、何も知らないだろうに。
「……ごめん、なさい」
大粒の涙で、胸が痛くて。
いつの間にか私は見えていない母に謝っていた。
「ごめんなさい」
溢れ出る言葉の涙。
「うっ……ごめん、なさい」
いや、母に謝っていたのかすら分からない。
母を通して、彼に言っている気になっていたのかもしれない。
でも次々と出てくる、その涙にやられて。
私は冷静になれずにいた。
しかし。
次の瞬間、額にビシッと痛みが走った。
「いたっ」
「ことり、ちゃん」
目元をぬぐい、目の前を見ると。
母が起き上がって、私の額に指をはじいていた。
「体罰じゃないからね、これ」
「えっ……うん」
「それと、もう一つ」
「な、なに?」
少し息を吐いて、そして真面目な顔で私に叱った。
「—―それを言うべきは、私じゃないでしょう。言うの、私でいいの?」
「っ!?」
「私に言うのは最後でいいのよ。何よりも……私がそう、思わせていたんだし……今更言える立場じゃないけどね」
「……いや」
「いやってねぇ」
「でも、お母さんにも……言うべきで」
そう言うとため息をつく。
「はぁまったくこの子は。今日、連れてきてもらったんでしょう? 聞いたわよ、永井さんから」
「えっ」
「今なら間に合うんじゃない?」
「……でも」
さっき、帰らせてしまったから。
もう。
しかし、母は私の背中をグイッと押した。
「……言ってきなさい」
「でもっ」
「いいから……言ってきなさい」
強い母の一言に打たれ負けて、私の体は病室から出ていた。
今から会いに行ってもいないはずなのに。
それなのに、どうしても体が動いて。
天邪鬼な体が言うことを聞かず、走り出す。
「っはぁ、っはぁ、っはぁ」
走り出し、エレベーターに乗り、そしてまた走り出し、病院の前に。
—―もちろん、答えは分かっていた。
「そ、うだよね」
いるわけない。
さっき、自分から謝って、離れて、帰ってもらったのに。
そりゃ、虫がいいよ、私は。
足がぴたりと止まり、体が寒い夜に硬直する。
足元に零れ落ちる、雪ではない水滴が降りしきる雨のようにぽたぽたと落ちていく。
間に合わなかった。
あの日、あのときに、言ってしまえばよかったのに。
「……っう」
面倒だな、私は。
心底呆れる。
なんで、泣いて……私の方が。
そう、思った瞬間だった。
「—―寒いだろ、こんなところで突っ立ってたら」
あり得ない。
あり得るわけないのに……そこにいる彼は、自分のコートを脱いでまで私を包み込んだのだ。
あぁ……。
嗅ぎなれたその匂い。
もう、何度も何度も、嗅いでしまったその匂い。
顔を上げるとそこにいたのは――
「—―せ、んぱいっ」
だった。
「あぁ。栗花落、大丈夫だったか?」
「大丈夫って……お母さんは」
「あぁ、それは知ってる。今度、挨拶に行かないとな、色々迷惑かけたって……」
「迷惑なんて、私が」
「いや、うん。そうじゃなくてな……お前の話をしてるんだ」
先輩は首を振って、優しく手を放し、顔を見る。
「栗花落は、大丈夫なのか?」
大丈夫。
じゃない。
でも、私なんかに先輩が……。
「私のことなんか、先輩に……悪いことしたのに」
「悪いことだなんて思ってない」
「でもっ、ひどい事したんですよっ、私は!!」
荒げたところで、手を引っ張られる。
「えっ」
「まだ、クリスマスなんだ……来てもらうぞ」
「—―」
そうだけど、だって……なんて言い返すこともできず。
腕を掴まれ、でも優しいその圧がどこか心地よくて。
彼は、車の中に私を乗せる。
「よし、ついてこい」
ついてこいって……車の中なんだけどな、私は。
「……はい」
酷いことをした私が慰められる資格なんてないのに、どうして先輩はいつも辛いときに現れてくれるのだろう。
あとがき
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