第16話


◇◇◇


 季節が過ぎ去っていくのはやはり早いようで。

 何よりも歳をとるとまるで一日が数秒のように感じられるというのは最近ようやく分かってきたところで……。


 というのはまぁ、嘘も方便というかなんというかなんだが。


 俺はこの一週間、いや今も現在進行形で凄まじく忙しく、一瞬で過ぎ去ったと言えるほど気楽な精神ではいられなかった。


 先日の栗花落と雨の中二人で濡れながら帰った後はそれはもうたっぷりと一人致すのを楽しんだのだが。


 翌朝からはそれはもう、絵にかいたかのような地獄ってものだった。

 アクシデントが何度も起きたのだ。


 まず一つ目は、鮎川さんが腰痛で一時入院する羽目になったこと。


 鮎川さん、若くして教授になったり、研究室長を任されたりと凄いことばかりだったのだがそれが故に腰を痛めてしまったのだ。


 デスクワークの多さは中々で試料を装置で測定している時なんか座ってばっかりだし、クリーンルームで試料の状態を確認ししている時なんか平気で数時間も座ったままだ。


 休憩するにも外に出ないと難しいし、鮎川さんも若いとはいえ俺達から見れば全然歳を召している。


 その上に俺たち以上に研究熱心で働いているのだから、これはさすがに体にガタが来てしまったのだろう。


 そして二つ目は、久遠のところの第二研究室の研究員がインフルエンザに集団感染してしまったことだ。


 あっちもあっちで、俺達と同様に学会発表を控えていたこともあり俺たちの研究室で数人が派遣される羽目になったこと。

 製造からそして測定まで。

 なんなら論文の添削だったり。

 ベテラン研究員までも休んでしまったために、代わりの新人への教育も。


 鮎川さんの事で色々と混乱して、俺が代理室長やってるときにそんなお願いまで頼み込まれて動かざるを得なかった。


 他の研究分野とはいえも、多少は掠っている所もあるし、なんだかんだ言っても同じ会社だ。俺たちの会社の信用のためにも無理はしなくちゃやっていけない。


 もちろん、後で有休をたんまり取ると研究部長に根回ししておいたけど。


 最後に研究データがバックアップを含めて、というかサーバーも含めて消去されてしまったこと。


 これに関してはもう、運が悪いとかどうとかそういうものを超越している。

 厄年、なんていう言葉では言い表せられないほどしんどかった。

 まぁ、実際のところは不幸に不運の積み重ねで起きたことだが。

 初めは第一うちのところの新人ちゃんがやらかして新試料データの入った新USBを社内で踏み潰して粉砕してしまったこと。

 まぁ、まだ使い始めたのが今週で助かったけど。


 次に部長の方で管理してもらっていたバックアップがこう、消えてしまったこと。何が——とは言えないが、どうやらうちの会社で以前に行った水泳大会での水着写真の整理中におこったとか何とか。


 研究部長の名誉にかけて言っておくが、夜の飲酒で酔っぱらった女性研究員が合意して撮り合ったということらしい。

 ちなみに俺はその場にはいなかったが。部長は女性だし、まぁいいとして。


 加えてサーバーがぶっ壊れたのは東京の方の本社で停電が起きたことが原因だった。烏か何かが電線にぶつかってピンポイントで被害が起きたと聞いている。ニュースでもそう聞いている。


 ——と、言う感じで不幸の連続だったわけだ。


 どこぞの学園都市でLEVEL0を張っているお人よし主人公上なんとかさんよりも絶対に不幸だったと胸を張って自信を持って言い放てるほどに。

 そんなことで、自信も持ちたくないし、胸も張りたくないけどね。


 ただ今まで働いていて一番忙しかったと思う。

 どんなに気合の入った学会発表も、中学の時に入っていた生徒会の文化祭準備から高校三年生の頃に嫌でもかと言うほどに勉強した地獄の日々含め今の今まで。

 すべてを凌駕するほどに忙しくて、睡眠時間なんかろくに取れたものでもなかった。

 今週末は絶対に一生分寝てやるとまで思ったし。

 色々と一週間で一件落着まで勧められたけど。まだ少しだけやることが残っていて。


 俺はこうして休日の今日もパソコンの前で手をカタカタと動かしているのである。



「せ、先輩……本当に大丈夫ですか。さすがに休憩とかを」

「ん、あぁ大丈夫だよ」

「いや、でも……さすがに」


 そんな満身創痍でパソコンを見つめる俺を心配そうに見つめているのは他の誰でもなく栗花落だった。


 もちろん、俺の大丈夫という言葉を微塵も信頼していない彼女は不安そうに呟きながら温かいお茶をパソコンの横に置いてくれた。


「心配、しすぎじゃないか?」


 そうは言ったけど、俺が栗花落ならば絶対に心配する自信がある。

 なんて言ったって、今日の朝。

 三日ぶりに家に帰ってきて寝て起きて、洗面所の鏡で自分の顔を見たら今まで見たことないほどに大きなクマが出来ていたからだ。

 心なしか痩せていたし、体重計乗ってみたら三キロほど体重が落ちてたし。


 そんな俺を見て、心配しすぎじゃないか——なんかの言葉で彼女が揺らぐわけもなく。


「いや、どの顔して言っているんですか先輩は」

「どの顔もこの顔も、俺の普通すぎる顔は生まれつきだぞ?」


 ちなみに、自慢でもないが俺の母も父もどこにでもいるような目鼻立ちをしている。だからこそ、この顔なのだ。


 あれ。

 でもそう考えると栗花落ってめっちゃ綺麗だし、親御さんとかめっちゃ綺麗そう。

 会ってみたいないつか。


「——あの、ふざけないでくれませんか?」

「あ……あぁすまん。ごめん、栗花落は心配してくれてるんだもんな」

「いやっ、そこまで落ち込まれても困りますっ」


 エプロン姿で俺の一挙手一投足に慌てふためく栗花落は見ていて目の保養だ。

 この前の相合傘の時なんて、結構冷静そうだったし俺の方がバクバクなの馬鹿みたいで余計に恥ずかしかったし。


 これは良い眺め。


「で、でも。いたって真面目に心配してるんですよ私は」

「それはありがたいと思ってるよ」

「あ、いや。ほら私だって先輩の仕事がこれでもないほどに忙しいというのは分かっているつもりです。実際に理解はしていませんが、でもそこまでしてやらなきゃいけないほどなのでしょうか」


 変なテンションで心の中がざわざわしている俺の痛いところを付いてきて、ギクッとする。


「俺がやらなくちゃダメなんだよ。これでも俺だって副室長だからね」

「でも、そんなの後輩が」

「栗花落だって後輩にはあまり頼まないようにしているって聞いたぞ、三澄さんから」


 痛いところを付き返すと栗花落は少しよろめいた。


「それは言葉の綾です。私は無理はしていません」

「だとしても、俺が犠牲になって後輩たちが楽をするならいいじゃないか。分かるだろ、次期主任なら」


 頭の中でポッと出てきたことを軽く言ってみたつもりだった。

 しかし、彼女の反応は今までの売り言葉に買い言葉で返すようなものではなく——。


 一秒後、俺の額に一発の指が叩き込まれた。


 ————ピン!


 小さな衝撃が体を襲い、俺の視界が少し揺らめく。


 瞬間、俺は困惑した。


「えっ」


 そんな一撃に対して俺が声を出すと、彼女はハッとしたのか手をすぐにひっこめた。


「あっ、す、すみません」

「いや、別に……」

「ごめんなさいっ私、つい……ほんと、あ、頭大丈夫です、か?」

「いたたた……なぜデコピン、ていうか俺がバカみたいな言い方やめてくれ」


 俺がツッコミを入れると彼女はどこか納得のいかなそうな顔で呟いた。


「す、すみません……なんか腹が立って」


 頭を下げるもムスっと頬を膨らませて、両手を合わせたり離したり。


「本気で、少しムカつきました」

「どっちだよ……」

「むぅ?」


 ギロリと睨む目つきで俺の方は焦った。


 あれ、結構というか割と酷いことしてしまったんじゃないかと。


 思えば、俺におせっかいを焼くのは彼女の特権だったし。

 一年生の頃から、結局別れる数週間前まで心配してくれたこともあった。


 栗花落の顏を見れば、なんとなく。

 聞き分けの悪い俺に落胆しているようで、頭を下げることにした。


「ご、ごめん。栗花落」

「まぁ、いいですけど」

「ち、違うって。俺の方が……すまん、たまにはそうだよな。言うこと聞かないとだよな」

「……せ、先輩」


 そうして、再び彼女の目を見つめると。

 覗かれるのは変わらないエメラルドグリーン色の宝石の様に輝く瞳。


「デコピンはやり過ぎました」

「痛かったからな」

「す、すみません」


 ちょっと詰めると悪そうに顔を顰める。

 それが、いつにもなく自信なさげに、いや心配そうに俺を見つめてきた。


「息抜きって大事、お茶貰うよ」

「っ……先輩」


 そうして、手を取り。立上り。

 俺はお茶を片手にソファーに座り、続いて栗花落も横に腰かけた。


「……一言いいか」

「は、はい」


 ゴクリと生唾を飲み込んで、一言。


「すごく、いやめっちゃ。しんどかった……だからさ、栗花落、その」

「は、はい?」


「……膝、貸してくれないか?」





 言ってから気づくまでおそらく三十秒ほど。

 気が付けば、俺の後頭部には柔らかい感触と温かい肌の温度が——。




あとがき

 正月二日目。

 ちょっとした幸せ回? ですかね?


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