Part.2 月のウサギと子ども達

Part.2 月のウサギと子ども達(1)


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 単純な事実だけれど、月には大気がない。


 月面は常時ふきつける太陽風と宇宙放射線と、猛スピードで飛んでくる微小隕石にさらされているために、地球で誕生した生物には極めて危険な環境だ。そこで、人類は月の地下に開拓基地を造った。幸いなことに、月には約十億年前に溶岩によって造られた洞窟がいくつか存在しており、そこを拡げることで居住可能な空間にすることが出来た。これで、放射線と隕石からは守られる。


 月を構成する岩石には、チタンやマグネシウムと結合した酸素原子が存在する(注①)。太陽風に含まれる水素原子と反応させることで岩石から酸素原子を取り出し、水と気体の酸素は得られた。ロケットエンジンの燃料になる水素と、原子力電池の源となるヘリウム3は、太陽風の恵みだ(注②)。

 しかし、月には生物に必要な元素――炭素、窒素、リン、亜鉛などが全く存在していなかったので、これらは地球から運ばなければならなかった。有機資源を得ることで、月でも植物の栽培が可能となった。


 地球人テランが本格的に月への移住を開始したのは、二十二世紀。同様のやり方で小惑星帯や火星、木星の衛星へと拠点を拡げ、各星の環境に合わせた循環型コロニーを築いていった。各コロニーが独立して太陽系連邦を設立したのは二十四世紀。同時期に太陽系外の知的生命体とのファースト・コンタクトを果たし、銀河連合に加入して恒星間航行技術を手に入れてからは、飛躍的に活動域を拡げている。



 DIANAダイアナS29エストゥナイナ宇宙港は、ごった返していた。

 月のドーム都市は、いずれも古代神話の月の女神の名前で呼ばれている。ARTEMISアルテミスDIANAダイアナLUNAルナの三都市は、人口百万人を超える大ドーム都市だ。主な産業は、観光と資源開発。

 月は地球から独立しておらず、三都市は自治政府が管轄している。他に、銀河連合宇宙軍の基地(ホワイト・ムーン・スペース・センター)と、太陽系連邦所属のアストロノウツ訓練校と、パパのいた研究所が《RED MOONレッド・ムーン》にあるけれど、民間人は住んでいない。


 S29ポートの混雑の原因は、観光客が多いためだけではなかった。

 わたし達が到着ゲートを抜けてフロアに出ると(地球人に合わせて、ちゃんと重力が調節してあった)、異様な団体がそこを占拠していた。 『ARTEMISに国民議会を!』とか、『憲法を制定しよう!』とか。『執政官アウグスタの横暴を許すな!』、『政府は税法を改正せよ!』などと書かれた大きな垂れ幕が目に飛び込んで来た。独立運動のデモ隊らしい。人数は百人ほどもいただろうか、音量調節なしの演説の声が耳に響いた。

 DON SPICERドン・スパイサー号から降りてまっすぐフロアに出たわたし達は、この光景に唖然として立ち止まった。宇宙港でのデモなんて聞いたことがない。通りすがりの輸送船のパイロットや観光客も驚いている。


 署名を頼みに来た若い女性に捕まって、ミッキーは目を白黒させた。見かねて、ルネが言った。


「悪いけど、オレ達は協力できないよ」


 熱心な女の人は、めげずにくい下がろうとする。


「あなたはここの住人なんでしょう?」

「いや、そういうわけじゃない……」

「お願いです。話を聞いてください」


 ミッキーより少し年上の男性が、小走りに駆けて来た。さっきまで演説していたらしく、声がかすれている。


「いまこそ我われは生活を守らなければなりません。平等だった植民時代は終わってしまいました。地球連邦の執政官アウグスタのやり方では、格差は拡がる一方です。このままでは、辺境星団にも劣る封建都市になってしまいます。月の住民による国民議会を開設することによって――」

「いくら執政官が横暴でも、ボーダー・エリアほどじゃない」


 ルネが皮肉めいた口調で遮った。デモ隊の二人は、一瞬鼻白んだ。


「あんた達の運動の主旨は良く判るし、ご苦労なことだと思うけどな……。オレは、銀河連合宇宙軍に所属している。協力はできない」

戦士トループス……」


 女性が息を呑み、男性も眼をまるくしてルネを見上げた。まあ、そうだろう。


 銀河連合Unitedユナイテッド Galaxticaギャラクティカとは、ソル太陽系外の惑星を起源とする知的生命体――要するに、異星人が造った惑星国家同盟だ(本当はもっと長い正式名称があるのだけど、地球人には発音できないので、便宜的にこう呼んでいる)。太陽系連邦が加盟したのは、三百年前。

 とはいえ、一般人が異星人と出会う機会なんて、そう多くはない。まして、宇宙軍の戦士トループスにお目にかかることなんて、滅多にないのだ。


 ルネは苦笑まじりに何か言いかけた。その時――

 鋭い笛の音が響き、フロアの人垣がわっと崩れた。威嚇射撃か、数条の光芒が空を切った。


「公安隊だ!」


 わたし達のそばにいた男の人が叫び、身を翻した。ミッキーがわたしの腕を引き、壁際に身を寄せる。銃をかまえた大柄な男達が、どやどやと踏みこんで来る。パニックを起こした人々が、フロアを逃げ惑った。

 いったいどういうこと?


「行くぜ、子猫ちゃん」


 ルネはぺろりと唇を舐めると、息を呑むわたしの腕をぐいと引っ張った。ミッキーとルネは、わたしを連れて駆け出した。


「待ちなさい!」


 公安隊の男が、出口へ向かうわたし達を見つけて叫んだ。


「止まりなさい!」

「走れ!」


 ルネが出入国カウンターや柱の影に隠れているデモ隊の人々に叫んだ。一拍おいて、甲高い悲鳴があがる。人々は一斉にばらばらの方向へ逃げ出した。

 わたし達は、広いロビーを横切った。公安隊は、右往左往するデモ隊の人々のおかげで追い付けない。

 ミッキーがわたしの腕を引いてくれる。ルネは、わたしの後ろを走っていた。


「こっちだ。倫道さん!」


 宙港の建物を出ると、ミッキーは急に方向を変え、ムーヴ・ロード(動く舗道)の上を走り出した。直進しかけたわたしとルネが、慌てて追いかける。

 ムーヴ・ロードと車道を隔てる壁を、数条のレーザー光がかすめた。ルネが舌打ちする。雑踏の向こうから、追って来る二・三人の影が見えた。


「リサ!」


 駐車場に入ったとたんミッキーの姿を見失い、おろおろしかけたわたしを、ルネが強い力で引っぱった。飛んできた風圧推進自動車エア・カーの中に押しこまれる。後部座席に倒れるようにしてわたし達が納まると、車は猛然とスタートした。

 数回カーブを曲がり、二・三度赤信号を無視して、車は市街地へ向かった。黄色やピンクのイルミネーションが、深海のような街の底を流れる。開いた窓から入ってくる風が髪を撫でる。冷たい空気が呼吸を鎮めてくれるまで、わたしは口が利けなかった。

 車はハイウェイに乗っていた。高速の超電導自動車リニア・カーが隣の車線を流れていく。

 後方を確認するわたしに、ルネが笑って言った。


「大丈夫。振り切った」

「そう?」

「追って来てはいません」


 ハンドルを持ったまま、ミッキーも答えた。目的地へのコースをナヴィゲーターにセットして振り返る。


「このまま、うちへ直行します」

「はい」


 頷いたものの、わたしはドキドキしていた。何度もリアウィンドウを振り返る。宇宙港のロビーでは、まだ逃げ惑う人影が見えた。騒然とした雰囲気が伝わってくる。

 危なかった。それにしても、過激な公安隊だ。あの人たち、大丈夫かしら……。


「どうした? ミッキー」


 ルネが後部シートから首をのぞかせた。低い声が、心配そうに曇る。


「怪我でもしたのか?」

「いや、大丈夫だ」


 ミッキーの頬に、当惑したような微笑が浮かんだ。滑らかな声が低くこもった。


「すみません。倫道さん」


 彼はわたしを顧みた。なんだか、思いつめたような表情だ。


「いきなり、ごたごたに巻き込んでしまって……」

「え? いえ」


 少しびっくりする。怖がっていたのが伝わったのだろうか? わたしは首を横に振った。


「わたしは大丈夫です、安藤さん」

「これほどとは思っていなかったんです」


 ミッキーは溜息をついた。


「一ヶ月ほど基地に詰めていたので……。公安隊の対応が、こんなに過激になっているとは知りませんでした。かえって倫道さんの邪魔をしているみたいですね」

「それは、安藤さんのせいじゃないでしょう?」


 彼がわたしのことを『倫道さん』と呼ぶので、わたしも呼び名を元に戻してしまった。どこまでも紳士な彼に、わたしはにっこり微笑んだ。


「気にしないで下さい。そういえば、この車、勝手に使っていいんですか?」

「ミッキーのだよ」


 ぶっきらぼうに、ルネが答えた。


「心配しなくても、こいつはミッキーの車だ」

「正確には、おれのうちの車です」


 気を取り直したように、安藤さんも言い添えた。黒い瞳に夜景が映っている。


「倫道さんも、必要なときには使って下さい。ペンション・ホテル『月うさぎ』です」


 わたしは目をまるくした。


「安藤さんの家って、ホテル?」

「家族経営の小さな奴です。言っていませんでした?」


 わたしの隣で、ルネがわらった。


「誰が商売上手だって? ミッキー」

「あと三十分ほどで着きます」


 ちらりと苦笑してから、彼はわたしに片目を閉じた。


「本当はもっと近いんですけれど、連中をまくために遠回りしました。ブロック98……この先です」


 車はハイウェイを降りて市街地を走り出した。ビルの谷間を縫い、郊外へ向かう。都市を覆うドームの天井は高く……百階、二百階を超える高層建築のさらに上にある。広がる人工の夜空は群青色だ。

 街は海の底に在るようだった。銀色にまばたく星ぼしの間に、優しいEarthアース Lightライト――地球光。半分になった地球が浮かんで観えた。

 イルミネーションの流れは途切れることがない。わたしは、産まれて初めてみる風景に見蕩れた。男達は黙っていた。


 わたしは、ふいに凍るような寒さを感じ、ぶるっと肩を震わせた。安藤さんが、そっと車窓を閉めてくれる。

 101丁目を過ぎたあたりで、ルネがぼそっと呟いた。煙草に火を点けながら。


「動きにくいな……。思ったより時間がかかるかもしれないぜ、ミッキー」

「まあ、仕方がないさ」


 安藤さんは、自分に言い聞かせるように答えた。

 ルネは、わたしに白い歯をみせた。煙草の先が赤く光る。


「子猫ちゃんは、何も心配しなくていいからな」

「少し時間がかかるかもしれません」


 静かな口調で、安藤さんが説明してくれた。かすかに微笑を浮かべている。


「月と地球政府の間が思ったより険悪で、グレーヴス氏を探し出すのに時間がかかるかもしれません。でも、」


 ぽん、と、ルネがわたしの頭に手を載せた。細く窓を開けて、煙草の煙を外へ出す。


「ミッキーが、ちゃんとあんたを守る。約束する。オレの機械が直る前にみつけてやるよ」

「あ。はい……」


 どうやら、わたしが怖がっていると思ったらしい。わたしは微笑み返した。

 いつの間にか、二人を信じて頼ろうとする気持ちが、自分の中に生まれていた。この二人がいてくれるなら、大丈夫。そう思う。

 ルネはにやりと笑い返すと、頭の後ろで両手を組み、シートに身を沈めた。

 安藤さんは、フロントガラスに視線を戻す。軽く反った形の良い唇が、微笑みを形作る。


 いきなり、車ががくんと停まり、ルネは面倒そうに眼を開けた。

 安藤さんが窓の外を指す。ルネはドアを開けた。


「先に行っていて下さい。おれは、車を停めて来ます。すぐ戻りますよ」


 安藤さんは、わたしを促した。既に外に出たルネを示す。


「ほれ、子猫ちゃん」


 ルネに手招きされ、わたしはボストン・バッグを手に車を降りた。静かにドアが閉まる。車が走り去るのを見送ってから、建物を見上げた。

 118丁目。閑静な街区だった。白い壁が甘いメレンゲのようだ。


 『Pensionペンション Hotelホテル 月うさぎ』


 ……明るい玄関のロビーの隅にいたものが、地球産のウサギに見えたのは、わたしの気のせいだろうか。





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(注①)月の岩石、鉱物: 月の表面には玄武岩と斜長岩があり、鉱物としてはかんらん石(オリビン) (Mg, Fe)2SiO4、チタン鉄鉱(イルメナイト) FeTiO3が含まれています。(化学式内の数字は、小文字下付きです。)


(注②)ヘリウム3: 太陽風に含まれています。風船に詰めるヘリウムガスはヘリウム4。4は原子核を構成する陽子と中性子の和で、陽子2個+中性子2個のこと。ヘリウム3は陽子2と中性子1個から構成され、核融合の燃料になります。

 太陽風には地球の百倍以上高濃度のヘリウム3が含まれており、25トンあれば合衆国が一年で消費する全エネルギーを賄えると言われています。しかも、ヘリウム3の核融合反応では中性子を発生させず、放射性廃棄物を殆ど出さないという特徴があります。

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