Part.3 Visuospatial Agnosia: You don't know where you are.(3)


          3



 地球連邦の巡視艇に護られて、《DONドン・ SPICERスパイサー》 号と 《VOYAGERボイジャー―E・L・U・O・Y》 号が 《REDレッド・ MOONムーン》 に着くまで、約二時間かかった。

 あらゆる光を吸収して輝く冷たい闇に、青い地球が浮いている。メイン・スクリーンの斜め上には、白銀の弓のような月。そして、正面に現われたレッド・ムーンは、わたし達が見慣れたそれとはどこか違う気がした。

 どこだろう……。わたしは首を傾げて眺め、すぐに思い当たった。

 赤銅色の太陽光反射板に覆われた球体のあちらこちらに、不気味な砲塔がのぞいて周囲を威嚇しているのだ。こちらを監視するレーダーも、そこかしこで光っている。

 わたし達の船に寄りそい航行している巡視艇といい……。確かに、ここは、わたし達の世界とは違うらしい。


 わたし達は黙ってルネの操縦に任せていた。ラグも何も言って来ないのは、運転に集中しているからなのだろう。ライムはルネの邪魔をしないよう、わたしの腕にしがみついている。

 やがて、二隻の巡視艇は音もなくこちらから離れて行った。本来の任務に戻るのだろう。ほっと胸をなでおろすわたし達の耳に、ラグの声が届いた。


『着くぞ、小僧。用意はいいか?』

「勿論」


 簡潔に応えて通信を切る。ルネの前のモニターでは、AIが軌道計算を続けていた。その画面を睨み、ルネはぺろりと唇を舐める。

 わたしは溜め息をついた。


「疲れた? リサ」


 ミッキーが声を掛けてくれた。わたしはライムと顔を見合わせ、同じように緊張している互いをみつけ、苦笑した。


「今、何時? ミッキー」


 ライムが訊ねた。彼女の腕は、わたしの腕に巻きついたままだ。ミッキーと皆川さんが、同時に時計を確認した。


「十四時だ。時計が狂っていなければ、昼過ぎだね」

「俺も同じだよ、ミッキー」


 道理で疲れるはずだわ。わたしは再度溜め息を呑んだ。ライムは照れたように笑い、片手をお腹に当てた。


「あたし、お腹空いちゃった」

「そういえば……食事はしたのか? 鷹弘」


 ミッキーが問うと、皆川さんは疲れた表情でかぶりを振った。

 わたしとルネとミッキーは夕食の後でこの件に加わったからいいものの、皆川さんとライムは昨日の昼から巻きこまれている。二人の疲労は、わたし達のそれを上回るだろう。

 ライムは眉を曇らせた。


「ラグもだわ……」

「俺達は慣れているからいいよ。ライムは休んだ方がいい」

「ん」


 皆川さんが促したけれど、彼女は唇を尖らせて拒んだ。ルネは操縦に集中している。

 ミッキーがふわりと微笑んだ。


「これからが大変なんだ。あるもので、何が作れるかやってみよう。ルネ、キッチンを借りるぞ」


 ルネは振りかえらず、片手を挙げて答えた。

 ミッキーが身を翻してコクピットを出て行くと、ライムはほっと頬をゆるめた。皆川さんも、感謝をこめた眼差しをドアへ向けている。ライムはわたしの耳に口を寄せ、悪戯っぽく囁いた。


「ミッキーって優しいわね、リサ」

「う、うん」


 わたしには、彼女の白い顔がほんのり上気して見えた。ううん、違う。――これまで、蒼ざめるほど彼女は緊張していたのだ。無理もない。

 わたしは彼女の手に自分の掌を重ね、努めて明るく言った。


「大丈夫よ、ライム。ミッキーなら、きっと美味しいものを作ってくれるわ!」

「そうなの?」


 そう。ミッキーと結婚して何が嬉しかったと言って、彼の紳士的なところは勿論、料理が上手なところなのよね。

 ホテルのコックなのだから、当然と言えばそうなのだけれど。ほら、男の人には、料理を仕事にしていても私生活では作らない人もいるじゃない。ミッキーはそうでなく、本当に好きなのだ。

 自動調理器オート・クッカーを使えばことたりる時代、手ずから料理を作れるだけでも貴重なのに――和食、フレンチ、イタリアン、中華、エスニック――リクエストには、ほぼ完璧に答えてくれる。デザートも、お菓子も上手。結婚前、朝食に中華粥を作ってくれて感動した。あり合わせの材料で美味しい料理を作ることを娯しんでいるから、観ているこちらも楽しくなる。

 

 などというわたしの惚気のろけ話を、ライムは青い瞳をきらきらさせながら聴いてくれた。頬が赤みを取り戻し、やわらかな微笑が花開くさまに、わたしは安堵した。

 そうだ。彼女を怯えさせてはいけない。守らなければならない。何があっても……。


 わたしの意図を察したのか、皆川さんは、にこにことこちらの会話を聴いている。

 ひとしきりわたしの話を聴いた後、ライムは大袈裟に感心してくれた。


「いいなあ~、リサは。優しくて素敵なパートナーで、いいなあ~」

「うん……」


 わたしも、そう思う。

 気楽にお喋りしていると、ルネが、ぶすっと呟いた。


「……優しくなくて、悪かったな」


 次の瞬間、ライムは極上の笑みを浮かべた。長い髪を孔雀の尾のように翻し、後ろから彼に抱きつく。シートごしに跳びつかれたルネは、首を締められて潰れたカエルのような声をあげた。


「ぐえっ! やめろ、ライ。苦しい」

「いやあん、ルネったら! 妬いてくれてるの? だいじょーぶよ。ルネは特別なんだから」

「何が特別なんだよ。離せって、こら。軌道がずれる」


 わたしと皆川さんは、お互いをみて微笑んだ。

 十分後、ミッキーが、人数分のホットサンドイッチとコーヒーを手に戻って来た。笑っているわたし達ともがいているルネを見て、彼も苦笑した。

 そうだ。本当の闘いは、これから……。



           **



「大丈夫? 史織シオ


 彼女は通信を切り、彼を振り向いた。

 史織は銀灰色の毛皮を床に着け、コンソールにもたれていた。天井を仰ぎ、眼を閉じて息を吐くと、女性とも男性ともつかない不思議な 《声》 で答えた。


《ああ。少し、疲れただけだ。……どうした? ルツ。うかない顔をして》


 ラウル星人特有の若葉色の髪にふちどられた顔は、明らかにやつれていた。先刻までの毅然とした態度が嘘のように、肩で息をする。

 彼女の淋しげな白い顔を見上げ、史織はわらった。


《そっくりだろう? あいつ……グレーヴス。せっかく逢えたんだから、もっと嬉しそうにして欲しいな》


 皮肉さえ、今は悲愴に聞える。しかし、彼が必要としているものは空疎な同情やその場限りの慰めではないと承知している彼女は、迷った末、こう答えた。


「ええ、良く似ているわ。まるで幽霊を見ているような気分だったわ」

《あいつにとっても、そうだろうよ》


 史織はあざけるように息をついた。彼女は口を閉じる。史織は、彼女の怜悧な夜空色の双眸を懐かしく眺めた。


《グレーヴスにとっても、あんたは忘れようとしたって忘れられない過去の亡霊だ。良かったね……あいつは必ず、ここへ来るよ》


(そして、オレにとっても) 内心で呟き、史織は嗤った。吐くように。


《あんたの姿を見て、引き返せるような奴じゃない。お優しいからね。きっと助けてくれるよ》

「貴方の寿命が縮まるわ」


 彼女は眉を曇らせ、手を伸ばして彼の額にかかる髪を掻き上げた。ひんやりとした指の感触が心地よく、史織は眼を閉じる。

 彼女の声は、今にも泣き出しそうに震えていた。


「こんな、ことを……。私の為じゃないわ。どうするつもりなの、貴方。《VENA》 にまで、なんて」

《…………》

「今さら、どうしようと言うの。これでは、貴方の寿命が縮んでしまうわ」

《オレの気が済むんだよ、ルツ》


 史織の言葉に、彼女は絶句した。

 史織は唇を歪め、溜め息とともに応えた。


《判っている。グレーヴスのせいじゃない。VENAのせいでもない。解っているんだ。……だけど、オレにはもう、あいつしかいない》


 彼女は眉間に皺を刻んだ。史織は夢見るように微笑んだ


《真織は死んでしまった。レナは答えられない。……ねえ、ルツ。オレは理由を知りたいんだよ》

「…………」

《倫道教授も、クイン・グレーヴスも、もう居ない。。ラグに答えてもらうしかないんだ。オレ達は、何だったのか》


 彼女は悲しげに瞼を伏せた。黒い瞳に影が落ち、ますます深くなる。その闇に、史織は囁きかけた。


《VENAに訊きたい。オレは、真織は、レナは、何なのか。あいつにとって……。ただ、知らせたいんだ》

「史織」


 史織は優しく微笑んだ。


《オレ達がここに居るということを、VENAに知らせたい。それだけで、随分違うと思うんだ。きっと、オレの気が済むと思う。あいつへの借りも返せたら》

「…………」

《もっとも……あいつには、迷惑なだけなんだろうけどね》

「…………」

《だから……。頼むよ、


(私は違うわ)――彼女は胸の奥で呟いた。蒼ざめた彼の顔を直視出来ない。

 彼は彼女を他の名前で呼ぼうとせず、彼女も訂正しようとは思わなかった。そんなことをして、何になる? 死を賭した彼の言葉の一つ一つが、思いの一片一片が、その心を刻むのに……。


 凍りついた宇宙のような黒紫の眸にわらいかけ、史織は息を吐いた。己の全てを吐き出すように。


《少し、休みたい。あいつらの事を頼んでいいかな、あんたに。頼むよ、ここでは右も左も判らない連中なんだから》

「判ったわ」


 彼女を済まなそうに見て、史織はすうっと姿を消した。幻のように。

 彼女は立ち上がり、展望スクリーンに向き直った。

 輝く大きな星が二つ、彼女の許へ向かっていた。





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