Part.3 Visuospatial Agnosia: You don't know where you are.(2)
2
「いるもんだなあ」
「……何の話だ」
結局、その日、ウィル(ミッキー)はスペース・センターに戻ってこなかった。ルツは、深夜になる前に諦めて 《レッド・ムーン》 へ帰って行った。帰路は、彼女はシャトル(定期運行船)を使ったので、ラグは送って行く必要がなかった。
鷹弘は 《ボイジャー》 号に居座っている。彼はラグの個人艇を気に入っていて、学生寮よりここに寝泊りすることが多かった。
ラグは軍服からジーンズに穿きかえ、ソファーの上に胡坐をかき、コンピューターを据えて論文の推敲をしていた。テーブルの上に浮かぶ3D画像が、彼がキーを打つたびに変化する。既に完成して科学雑誌に発表 (Publish)されているものだが、学位として認められる為には、来週の審査会で教授陣に内容を説明し、口頭試問を受けなければならない。何事にも面倒くさがりな男だが、さすがに真面目にとりくんでいた。
鷹弘には、ラグの研究の詳しい内容は判らない。彼はエンジニアで宇宙船の構造や物理には強いが、生物学は守備範囲外だ。何かの遺伝子らしい立体画像を眺めていたが、退屈してきた。
訊かなくても判るだろうと思えたが、ラグの反応はにぶい。咥え煙草の相棒の横顔に、鷹弘は話しかけた。
「博士だよ、決まっているだろう? ルツ・ヨーハン博士だ」
「…………」
「お前の理想にぴったりだろう、ラグ。凄い美人じゃないか。あの黒髪、惚れ惚れする」
親友が黒髪好きな(というか、弱い)ことを、鷹弘は知っていた。
「お前より頭がいい女性なんて、滅多にいないぞ。それなのに、つつましやかで、しとやかだ。あんなに感じがいい
彼はラグの反応を確かめたが、相棒は相変わらず無表情に3D画像を見詰めている。硬質な輪郭をながめ、鷹弘は片方の眉を跳ね上げた。言い方を変えてみる。
「俺なら惚れるけどなあ。絶対に」
やはり聴いてはいたらしい。作業を続けながら、ラグは言い返した。
「俺達より年上だぞ」
「そんなもん」
鷹弘は
「たかが四、五歳だろう? 問題じゃない」
「そうじゃない」
ラグは軽い舌打ちを交え、呟いた。
「相手にされないだろうと言っているんだ」
「…………」
鷹弘は、冷水を浴びせられた気分になって言葉を呑んだ。親友の口からこんな言葉が出てくるとは、予想していなかったのだ。
(それに。婚約者がいる) ラグの方は、脳内で台詞を続けていた。グリフィス・ターナーの砂色の髪、隙のない藍色の双眸と、端正な容姿を思い出す。――だが、『なし崩しになっている』と言っていた。あの男の、彼女への対応は……。
ルツが小さなキメラを抱いて編みあげた光の籠の美しさと、時折みせる摘みとられた花のような風情を想うと、胸が騒いだ。
(俺には関係ない……)
「何だ、タカヒロ」
相棒が黙り込んでいることに気づき、ラグは振り向いた。先刻から、論文にちっとも集中出来ない。邪魔をされるのはいつものことだが、今日は勝手が違った。
「何が言いたい」
「いや……。悪かったよ。からかって」
「はあ?」
鷹弘はかなり真摯に謝ったのだが、ラグは怪訝そうに首を傾げた。
(まさか、気付いていないのか? 誰が見たって判るぞ、おい) 鷹弘は、胸の底で苦い思いをかみしめた。
◆◇
「鷹弘。どうした?」
ミッキーが皆川さんに声をかけ、皆川さんはハッとして瞬いた。考え事をしていたらしい。
「ああ。ごめん……何の話だった?」
「あのおっさん、本当に大丈夫なのかって話だ」
ルネが乱暴に応えた。彼は普段の栗毛に戻っているけれど、既に何本煙草を吸っているか判らない。せっかくライムが側にいるのに、いらいらし続けている。
「
ルネの毒舌に皆川さんは答えられず、項垂れてしまった。――皆川さんの様子も、随分おかしい。ライムは彼とルネを心配そうに見比べた。
ミッキーが苦笑して、ルネをなだめた。
「まあまあ、ルネ。ラグだって、いきなりこんな事態に放り込まれたら動揺するだろう。あいつのことだ、すぐにいつもの調子に戻るよ」
「そうよ、ルネ。ラグが能力を使えなくなっているのは、あたしのせいよ。悪く言わないで」
ライムが切なく懇願したので、ルネはぶすっと顔をしかめ、コンソールに頬杖をついた。
ルネも、一応、ラグを心配しているのよね……。
わたしがミッキーを顧みると、彼は皆川さんを気遣い、静かに訊ねた。
「鷹弘。おれも、先刻のラグは変だと思う。あいつが見ず知らずの人間を簡単に信用するはずがないからな。あの黒髪の女性は誰だ? お前も知っている人なのか?」
皆川さんは弱り顔でこちらを見た。小さな黒い瞳が、ひどく悲しそう。
ルネは容赦せず、煙草の煙としわがれ声を一緒に吐き出した。
「そうだ、鷹弘。お前も何か隠しているだろう。いい加減に白状しろ。あの女は何者だ? 信用できるのかよ」
皆川さんは黙っている。すっかり途方に暮れているらしい。
ミッキーは溜め息をついた。
「鷹弘。なあ、おれ達は、そろそろ知らされるべきだと思わないか。こんな所まで来て、訳の判らないまま振り回されるのはごめんだ。この中では、お前が一番事情を知っているんだ。教えてくれないか」
「オレも同感だ。あのおっさんがモーロクしているんでなけりゃ、どういうつもりでオレ達を巻き込んだのか。答えてもらおう」
「ああ、ルネ。ミッキー、済まない……。だが、巻き込むとか巻き込まないとかいう問題じゃあないんだ。これは――」
そう、皆川さんがおずおずと説明をはじめた時、
『
突然、通信機のモニターに明りが点き、ラグが声をかけて来た。わたし、息を呑む。それほど見事なタイミングだった。
皆川さんとミッキーが、ほっと息を吐く。ライムは瞳を輝かせた。
対照的に、ルネはぎりりと煙草を噛んだ。
『お前こそ、自分の矛盾に気付け。ここが俺達の属しているのと違う時空なら、ここに居る人間は誰も信用出来ない。俺達だって、本人なのか怪しいぞ。――信用する必要があるのか? 俺達がしなきゃならないのは、史織をとっ捕まえて、さっさと元の時空へ戻ることだ』
ラグの口調は素っ気無かったけれど、サングラス越しの眼差しは穏やかだった。
皆川さんが気遣う。
「ラグ。大丈夫か? お前」
『ああ。まだ
「ラグ」
呼びかけるライムに頷き返して、ラグは、ミッキーとルネに向き直った。
『小僧。ミッキーも、言いたいことは判るが、今はそれどころじゃない。奴等が来た。とりあえず、ここを無事に切り抜けることが先決だ』
「そうだな」
ルネはメイン・スクリーンに映る地球連邦の巡視艇を見ると、真顔になり、ゴーグルを掛けなおした。さっと気持ちを切り替えられるところはさすがだ。
ラグは、低い声でミッキーに言った。
『隠し通せないことは判っている、ミッキー。そこの馬鹿娘も、そんなに知りたいのなら教えてやる。もっとも、俺が言わなくとも
「ラグ」
馬鹿娘、馬鹿娘と言われ続けたライムだけれど、今度は怒る気になれなかったらしい。不安そうに、モニターの向こうの彼を見詰めた。
彼は彼女に横顔を向け、面倒そうに肩をすくめた。
『逢えば判る――お前と史織は、そういう関係だ。敢えてそうしないのは、あいつの嫌がらせだとしか思えないがな。……俺にお前を止められないと、承知でしていることだ。そんな暇人に付き合ってやろうという奴の気が知れない』
「…………」
『あんたもだ、リサ』
わたしは、うんざりした口調とは対照的に真摯な眼差しに気付いた。
「ラグ」
『俺はこれまで、何度か警告して来た。あんたが引き返す機会は、いくらでもあったと思っている。こんなところまでミッキーにくっついて来た責任は、自分でとれ。何を知ることになろうと、俺はもう庇えない』
「判っているわ」
わたしはごくりと唾を飲んで頷いた。ミッキーを見遣り、ライムと顔を見合わせる。
ラグがこんな風に直接的な言葉を使って話してくれたのは、初めてのような気がした。少し嬉しい。どこか昂揚している自分を感じた。
ミッキーが頷いてくれる。わたしはラグに向き直った。
「ありがとう、ラグ」
「来たぞ」
『貴船の船籍と、船体コードを報告せよ』
ルネの声に、巡視艇からの通信が重なった。相手はモニターに映像を送ってきてはいない。ラグの眼が細くなるのが、こちらから観ても判った。
ルネが唸る。
「どうする? おっさん」
異世界の住人である彼等に何と答えるか、という意味の問いだろうけれど、ラグが応える前に滑らかな声が割って入った。
『グレーヴス』
彼女だ……。
黒髪の女性の声が、両方の船のコクピットに響いた。
『グレーヴス、そちらの
『いや。下手な嘘をつくより、ずっといい』
ラグは冷静だった。
『だが、悪いが俺達はポートを使わない。レッド・ムーンの周回軌道上に、船は乗せておく。いいな? 小僧』
「異議ナシ、だ」
この遣り取りで、わたし達は、ラグが普段の彼に戻っていることを確信した。そう、ルネも感じたのだろう。短く答えながら、嬉しそうに唇を舐めた。
『伝えておくわ』
彼女は溜め息をついた。涼しい声にそれが混じったのは、続くラグの台詞を予想したからかもしれない。
『史織はどこに居る?』
簡潔に質問を投げかける。ラグの口調は、剥き出しのナイフの刃を思わせた。
『連邦のシンク・タンクだと? こんな所まで来てあんたが何をやっているのか訊く気はないし、知りたいとも思わないがな……。史織はどこに行った? どうあっても、俺達に干渉させるつもりか?』
『彼は休んでいるわ』
やはり、ラグは彼女を知っているんだわ……。ただ、知り合いにしては彼の台詞は厳しく、冷たすぎる気がした。
わたしはライムと顔を見合わせ、同じことを考えているであろう表情に出会った。ミッキーも、注意ぶかく二人の会話に耳を傾けている。皆川さんは、先刻からずっと、ひどく悲しそうだ。
『何だと?』
『彼は永くは生きられない……。知っているのでしょう? 貴方は。その彼にとって、《時空の壁》を超えて貴方たちを運ぶのは、容易なことではなかったわ。しばらく休息が必要よ。その間、私がこの世界を案内させて貰うわ』
『…………』
『ようこそ、グレーヴス。ウィル、倫道教授の娘さん。そして《VENA》……貴女のパートナーも、ようこそ。レッド・ムーンへ』
呼び寄せておいて勝手だな、とかなんとか、ラグは口の中で呟いた。横を向き、小さく舌打ちする。
そんな彼とわたし達に、彼女は丁重に呼びかけた。
『自己紹介が遅れてごめんなさい。私はルツ・ヨーハン。地球連邦シンク・タンクNo.42のメンバーで……史織と真織の開発者です』
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