Part.5 Ataxie Optique: The reason why you never touch her.
Part.5 Ataxie Optique: The reason why you never touch her.(1)
1
ウィル(ミッキー)が帰った後の 《
これで、自分がここへ通う目的は達成されてしまった。史織とコンタクトのとれた 《古老》 達は、勝手に計画を進めるだろう。彼等自身の死へ向けて……。
どうすればよいのだろう?
彼女は混乱していた。これでは任務を果たせない。いや、そんなことは問題ではない。
ラグは、もともと人付き合いのよい男ではない。用があればこそ彼女が通うことを認めていたのであって、理由もないのに身辺をうろつく不審人物を受け容れはしないだろう。
違う。そういうことでもなくて。
(私は何を考えているの……)
ラグはソファーに身を沈めるように座り、腕組みをしている。
《古老》 達の歴史について語ることは、流石に辛かったのだろう。ウィルが帰ってから、彼は黙りこんでいる。その沈黙は、彼女には辛かった。責められているような気持ちがした。
(私は、ここに居ない方がいい)
「あの」
ルツは、そっと声を掛けた。ラグが視線を上げる。
「私、そろそろ 《
「あ? ああ。送ろう」
「いえ、大丈夫。シャトルがあるから」
会話が噛み合っていないと感じたルツは、彼が不思議な表情をしていることに気づいた。不思議な、やや茫然とした眼差しで、彼女を見ている。
「ラグ?」
「ああ。博士、良ければ手伝ってくれないか」
彼が自分を『博士』と呼ぶとは……。
意外に思っていると、ラグの方はその沈黙をどう捉えたのか、決まり悪そうに
「実は、明日、学位審査がある。あんたは既にドクター(博士号)を持っているし、専門も近い。是非、予備審査を頼みたい」
(……なんだ)
「いいわ」
答えながら、己が半ば安堵し半ば落胆していることに気づき、ルツは内心で苦笑した。
何を期待したのだろう、私は。この程度のことで一喜一憂するなんて。安物の恋愛小説か、浮ついた女子高校生のようだ。――彼女はさらにいたたまれなくなった。
本当に、何をしているのだ、自分は……。
アストロノウツ特別訓練校の総合科学部をスキップ(飛び級)で卒業した才人に教えることなど何もなかろう、というのがルツの予想だったのだが、実際、それを確認する作業でしかなかった。
《古老》は五十人を超える先人達の知識と経験を記憶している。その殆どがルツ以上の科学者なのだから、何をいまさら他人に指導して貰う必要があるのか。
そう思いかけて、彼女は彼が期待していたことに気づいた。それは、彼女が望む形とは異なっていたが――彼は必要としていたのだ。彼女がそこに居る、という事実を。
ウィルとの対話は、彼の心を深く抉っていた。
「そうか……有難う」
ルツのチェックをラグは他人事のように聴いている。彼女はだんだん心配になってきた。
無論、ラグは学位審査など難なくこなすだろう。既に公に認められている論文に異を唱える教官はいない。しかし、彼の心の柔らかさが、ルツは不安だった。彼が(こんな飲み方があることを、ルツは初めて知った)さりげなく自分のコーヒーに入れ始めた、バーボン・ウイスキーの量も気に懸かる。
何度目かの静寂が、二人の間に舞い降りた。
先刻から、彼等はそれを繰り返していた。大切な作業をしていても心は別の場所に在って、己の戸惑いを見詰めていた。分かり切った解答を前に躊躇っている。ぎりぎりに引き絞った矢が放たれることを知っていて、
ずっと前から……。
それは彼女の錯覚かもしれず、彼の誤解かもしれなかった。はじめから実体のない幻影の迷路の中を行きつ戻りつしているようだ。いずれにせよ、そこにずっと留まっていることは、ルツにはかなり不自然に思われた。
故に、
「今夜は、ここに居ましょうか? 私」
意外なほど、すんなり言葉が出た。まるで、何年も前から用意してあったかのごとく。
ラグはテーブルに乗せたタブレットから顔を上げ、怪訝そうに彼女を見た。ルツは一瞬で我に返り、己の言葉の大胆さに血の気のひく思いがした。彼の方は、むしろ、彼女がそんな風に言うきっかけになることを自分が言ったのかと、考えあぐねている風だった。
数秒の間があった。
「……あんたは、」
ラグは、やや呆然と口を開いた。ルツは項垂れる。
「あんたは、誘っているのか? 俺を」
その瞬間、ルツの頭に血が上り、身体がかあっと熱くなった。鼓動が早くなる。強いブランデーを飲んだ時のように、感情は渇いた彼女の喉を焼き、脳へと達した。
彼女は眼を閉じ、努めて平静に囁いた。
「そう思ってくれても、いいわ」
改めて彼を見ると、ラグは呆気にとられていた。切れ長の眼がみひらかれ、黒い瞳が鏡のように彼女の顔を映している。それから、彼の方から目を逸らした。
当惑している若い横顔をみとめると、ルツは急に落ち着いた。
彼女はすこし彼に近づいた。
「私が嫌い?」
「……そうじゃない」
ラグは彼女をまともに見られなくて、視線を彷徨わせた。ぼそぼそと口ごもる。
「そういう問題じゃあないだろう。何を考えているんだ、あんた。……趣味が悪い」
「趣味?」
「ああ」
断言する。彼女をちらりと一瞥した。
「解らない。どうして、そんな事を言う? あんたにとっては、俺なんて子ども同然だろうが」
ルツは溜め息を呑んだ。彼がそう考えるのも無理はない。彼女自身、信じられない気持ちなのだから。しかし、彼には信じてもらいたい。何と言えばよいのだろう?
ルツは息だけで囁いた。
「貴方のことが、好きなのよ」
「信じない」
ラグの答えは簡潔だった。
ルツは思わず微笑んだ。テレパシーで繰り返す。
《貴方が好きなのよ》
「俺をからかっているのか?」
《テレパシーでは嘘はつけないわ。知っているでしょう?》
ラグは今度こそ真に困って顔を背けた。眉根を寄せている彼を、ルツは淋しく眺めた。
彼女は胸の中で呼びかけた。
《史織、お願い。眼を閉じていて……》
《…………》
返事はなかった。
ルツはテーブルを迂回してラグに近づくと、その正面に立って彼を見下ろした。
ラグは彼女の衣ずれの音を聞き、気配を感じたが、動くことが出来なかった。一瞬で崩れてしまう場の均衡を理解して、緊張に身を固めていた。
そんな彼の上に、ルツは静かに身をかがめた。束ねられた長い黒髪が華奢な肩をすべり落ち、自分の胸に触れるのを感じて振り向いたラグは、彼女に唇を塞がれて眼をまるくした。
「…………!」
身を退きかける彼の首に腕を回して、ルツは唇に唇を重ね、求めた。ラグの眼が苦しげに細められる。眩暈がしそうだった。
迷った腕が、彼女の腰を支えるようにして引き剥がした。
「やめてくれ」
そう言って見上げたラグは、悲しげなルツの眸に出会い、絶句した。明らかに傷ついた声が降って来た。
「私がいや?」
「そうじゃない。そういう問題じゃあないだろうが」
(何だって俺は、こんな時に、こんなことで悩んでいるんだ)自分で自分が馬鹿馬鹿しくなりながら、ラグは声を圧した。
「今の俺がどんな状態かくらい、あんたなら解るだろう?」
ルツは、じっと彼を
ラグは彼女の視線を受けとめるのが辛かった。しかし、目を逸らすわけにはいかなかった。
「あんたは、そんな女じゃあないはずだ。なのに、どうしてこんなことをする? 俺を混乱させるのが面白いのか?」
「違うわ。貴方がそう言うのは無理もないけれど……。どう言えば、判ってもらえるのかしら」
ルツは溜め息を呑んだ。彼は弱りきった表情で彼女を見上げている。真摯な眼差しに、ルツはぎこちなく微笑み返した。
「ラグ……私が貴方に恋をしたというのは、そんなに不思議なことかしら? 貴方を混乱させるほどに」
「俺は――」
「お願いだから」
言いかける彼に、さらに彼女は近づいた。銀灰色の前髪ごしに額を彼の額におし当てると、彼が息を呑んだのが判った。瞳が鮮やかな新緑色に染まる。
彼女は虹色に輝く虹彩を見詰め、それから眼を閉じ、吐息まじりに囁いた。煙草とバーボンの匂いを嗅ぎながら。
「黙って……私の話を聴いて頂戴。私……先刻から、かなり真剣に貴方を口説いているのよ」
開きかけるラグの唇に唇を寄せ、ルツは片方の腕を彼の首に回した。もう一方の手で、首の後でまとめていた自分の髪を解く。
「お願い……。これ以上、私に恥をかかせないで……」
触れるような口付けとともに囁く彼女に――憂いをおびた美しい顔に、ラグは言い返せなかった。彼女は身体を預けてくる。しなやかな重みと自身の感情をもてあます。
『後悔するぞ』と、誰かが頭蓋内で発する警告を、ラグは聞いた。
判っていた――彼女の向こうにはターナーが居る。ドウエルが。その存在を無視できるほど己が冷徹でも鈍感でもないと知っている彼にとって、これは重過ぎる課題だった。
しかしまた、彼は知っていた。抗えない身の内の流れを。ただ、それを否定する――或いは、肯定するための言い訳を探しているのだ。
(後悔するな……これは)
彼は自嘲気味に考えた。今までどんな敵を相手にしても
ワインのボトルのごとくすべらかなルツの腰のくびれを掌でたどると、ラグは、しなやかな身体を抱き締めた。
◇
彼は、私を殺す人だ。
ルツは理解した。
一時が過ぎた 《
自分に関する初めての予知が己の死だなんて、皮肉きわまりない。
未来は二つ。どちらかだ。
「…………」
眠る彼の横顔をみつめ、彼女は項垂れた。胸の奥を切り裂くような痛みが走る。命を凍らせるような。
……何という選択を自分にさせるのだ、運命は。
けれども、ああ、解ってしまった。
彼は、私を殺すのだ――。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Ataxie Optique;『視覚性運動失調』――視覚と上肢の運動の協調の障害。後頭~頭頂境界部付近の障害で起きる。中心視野で見ているはずのものを掴もうとしても、大きくずれてしまう現象。
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