Part.5 Ataxie Optique: The reason why you never touch her.(2)


            2



 目が覚めたら、彼女がいなかった。

 状況を把握するのに数分かかり、仕事に戻ったのだと理解した。シャトルはとうに運行を始めている。自分も起きて行かなければならない。今日は学位審査だ。

 ラグはベッドに座り、面倒で伸ばしたきりにしている長髪を掻いた。どうも調子が狂う。やらなければならないことは分かっているのに、思考がそこにたどり着けない。二日酔いのようだと思った。


(……そんなに飲んだっけ?)


 どうでもいい思考を頭を振って断ち、とりあえず煙草に火を点けた。一服吸う間に、意識がはっきりしてくる。溜め息とともに煙を吐いた。

 何故こうなったのだろう? と考える。巧妙なトリックにかかったような気分だった。――いや、違う。

 よくある話だ。所詮、男と女。出会って数日で急速に距離が縮むことはある。まして、自分の行動に責任を持ついい歳をした大人なら。

 違う。そういう問題ではない……。


 ラグは吸いかけの煙草をもみ消して立ち上がり、シャツを着始めた。動かなければ事態は変わらない。まずは学位審査を片付けよう。それから次の論文、実験も残っている。《VENA》 の件は父親とウィルに任せて、次の準備を始めよう。銀河連合に申請する手続きに必要な書類は――

 思考に、彼女の面影が重なった。


 ラグは舌打ちをし、考え直す必要を感じた。


(考えるのが嫌なのか? 俺は)


 その思いつきは不愉快だった。――実に、不愉快だった。優柔不断は自認している。誰にののしられようと覚悟は出来ているつもりだが、他の誰でもない己自身から逃げているという自覚は。

 稀有な女性だと思っていた。その美しさも、能力も。知性も、優しさも、芯の強さも……。年上で婚約者がいるのは当然で、憧れはしても距離の縮むことなどないと考えていた。

 彼女は彼の境遇に同情し、なぐさめを与えようとしてくれただけだ。天上の女神の恩寵のごとく(これまでにも、何度かあった)自分はそれを受け取った。彼女自身がこうむる苦痛や葛藤や責任について、おもんぱかることなく。

 ……後悔するだろうとは思っていたが、今更のように己の馬鹿さ加減に呆れた。勿論、彼女は見透かしていることだろう。彼女ほどの女性が理解していないとは思えない。

 ただ、こちらがそこに達していないだけだ。彼女が与えてくれたものに見合うだけの。


 ラグは乱暴に頭を掻きむしった。長髪なのが鬱陶しい。銀髪を手に取って眺めた。鏡を見るまでもない。

 何度、何十度、同じ失敗を繰り返すのか。こうなるのが嫌で、廻る因果の輪を断ち切りたくて、ここまで来たのではなかったのか。それなのに。

 未だに逃れられない……足掻いても足掻いてもまとわりく、存在への不安。

 人がヒトであるという、事実。


 ラグは眼を閉じ、感情を呑みこんだ。痛みも後悔も、すべて。鋭い舌打ちを残し、歩き出す。


 つまり、それはおそれに他ならないのだ。

 もう一度、彼女に逢えるかという……。



              ◇



 今頃、ラグは学位審査を受けている頃だろう。

 《レッド・ムーン》 の研究室に戻ったルツは、そこに 《古老》 の長――モリス・グレーヴスの姿を見つけて驚いた。ドウエル教授が自ら案内をしている。珍しい銀髪碧眼の能力者を、他の職員達は無関心を装いつつ見守っている。

 モリスは彼女に気づき、軽く会釈をしてくれた。


「遅刻かね」


 史織と真織のことが心配で急いで戻ったつもりだった。焦りが態度に出たのだろう、と声をかけてくるグリフィス・ターナーが、普段にもまして鬱陶しい。


「いつもと同じよ」

「そうか?」


 椅子の背に掛けておいた白衣に袖を通しながら、ルツは気持ちを鎮めようと息を吸った。

 その時、


『――売女』


 脳裏に飛びこんで来た言葉に、彼女は呼吸を止めて立ち尽くした。ターナーは、そ知らぬ顔で仕事を始めている。机上のコンピューターに向かってキーを叩く姿を、ルツはまじまじと観た。

 一瞬はね上がりそうになる感情を、必死に抑制する。

 モリスはクリーン・ルーム(無菌室)へ向かった。他の職員達も各々の仕事に戻っている。そんなことがなくとも、自分がターナーの意識を聞き違えるはずがない。

 ルツは小さく喘ぎ、苦労して息を継いだ。眼を閉じて視界からターナーの姿を閉め出す。


(これだから。男という生き物は――)


 それが理不尽な偏見と知っていて、彼女は己をなだめようとした。仕方がない、解ってしまう方が悪い……。

 もし精神感応テレパシーという能力がなかったら、それを持つ人間をどう思うか理解出来る。決して近寄りたくはないだろう。思考も心情の自由も奪われてしまう。

 怒り、嫉妬、恨み、軽蔑、憎しみ、疑念……そんな負の感情をいちいち表にしていては、人間は生きていけない。刻々とうつり変わる情緒の波に翻弄されていては、命がいくらあっても足りない。

 他人は解らないからよいのだ。完全な理解など在り得ないから、人は人を信じていられるのだ。

 信じるふりをしていられる……。


『貴方が言ったことでしょう』言い返してやりたくて、ルツは唇を噛んだ。誰よりも彼女自身が、言い訳が通用しないことを知っている。だから、彼を憐れむ方向へ気持ちを持っていこうと努力した。もはや徒労なのだと知っていて。橋を架けられないほど二人の距離が離れてしまっていると承知しながら。

 ターナーは平然とキーを叩いている。


 涙が溢れそうだった。


 自分にはそれが得られないことを痛感して、ルツは項垂れた。せめて己を憐れみたかった。ターナーがそうしてくれることは在り得ないのだ。今までも、これからも。

 何故ラグに惹かれたのか、解った。

 彼は要求しなかった。彼女に――平静でいることを、怒りや哀しみを感じずにいることを。知っていることを知らないふりをすることを、全てを自分の責任にすることを。


『あんたのせいじゃないだろう』


 何故、気持ちにブレーキをかけていたのか。彼を失いたくないからだ。いずれ失うと分かっているものを手に取るほど、恐ろしいことはない。別れると承知している相手に心を懸けることは。

 彼等は知っている。

 人間が、どれほど弱く脆い存在か。その心が簡単に怒りや憎しみにただれ、欲や嫉妬に狂うことを。いかに簡単に敵を作り、相手を心理的、物理的に殺害してしまうことを。

 どれほど自分ひとりを愛し、自己を守る為なら自らを殺しかねないほどであることを。絶望から目を逸らし、生存に有利な立場を求めて奔走することを。

 それが 《生》 の本質だと。

 《古老》 達は知っているのだ。千五百年も観て来たのだから。

 知っていて……、


《殺してやりたいな》


 聴き慣れたテレパシーに、ルツは思考を止めた。彼女の感情の乱れを察知した史織が、話しかけて来たのだ。


《史織》

《大丈夫か? ルツ。ターナー、奴自身が知っているなら、オレが殺してやるのに》

《そんなことを言っては駄目よ》


 ルツは後悔した。史織や真織は外の世界を知らない。基本的に、外界の情報は、彼女や他の研究者達の意識を通して得ている。その心は、特に彼女を通すと簡単に憎悪に染まってしまう。売女という言葉の意味すら知らない彼が怒りを表すのは、彼女の思いを感じてしまったからに他ならなかった。

 不満げに黙りこむ史織を、ルツは宥めた。


《ごめんなさい、史織。ありがとう……。でも、駄目よ。彼は知らないのだから。口に出さなければ、人は何を思ってもいいと言ったでしょう。相手に伝わらなければいいのよ》

《ルツ》


 珍しく当惑したように、史織は囁いた。


《何?》

《オレには解らない。オレやラグ・ド・グレーヴスの言葉は、思いと違わない。何故、ターナーは違う? ルツ……あんたもだ》


 彼女は息を呑んだ。それから、眼を閉じる。

(それは、私が弱いからよ……)

 呟いた彼女の心を、《彼》は理解しただろうか。

 ルツは苦笑した。


《観ていたの》

《ごめん。見られたくない気持ちは解ったんだ。でも、オレには無理だ。知っているだろう?》

《…………》

《だから、余計に解らない。ルツ。……どうして? あんたは嘘をついている》


(知っているわ)眼を閉じたまま、彼女は思った。そうだ、自分は嘘をついている。史織に、ラグに、ターナーに。自分自身に。

 何故、ラグに惹かれたのか。《古老》は要求しないからだ、彼女に。常に冷静でいることも、感情を抑えることも。ESPERであることも、科学者であることも、母であることも。女であることさえ。

 彼等は全て知っている。その業も、希望も、罪深さも。――その上で、

 ただ、人はひとでありさえすればよいと……。


 自分は弱かった――自分達は。グリフィスと共に生きて行けなくなったのは、お互いが相手の弱さを直視できない故だと、ルツは理解した。弱さが嫌われるのは、他人を傷つけるからに他ならない。

 強いということは、強さをまとうことではない。己と他人の弱さを理解して、それでも毅然としていられるということだ。

 優しいということは……。

 逢いたいと思った、ルツは。無性に。今すぐシャトルにとび乗って、彼の許へ引き返したい。そう思いながらここに居ることが哀しかった。


《ルツ》


 史織が呼ぶ。母に助けを求める幼児のように。応えてやらなければならない。

 《彼》は、おずおずと繰り返した。


《ごめん……ごめんなさい、ルツ。怒らないで》


 彼女の沈黙を怒りと解釈したのだろう。怯え、途方に暮れているのが感じられた。その不安は、すぐに真織マオと他のキメラ達に伝わるだろう。


(可哀想な、私の子ども達……)


 ルツは溜め息を呑んだ。


《ルツ?》

《史織、約束して。これから何が起きても、ラグを恨まないで》


 史織は沈黙した。不安が増大する。

 ルツは顔を上げ、白衣の襟を整えた。選択肢は二つ。それがこの時一つになったと理解した。


《お願い……約束して。何があっても、古老達を憎まないで》


 史織は応えない。こたえることが出来ないだろうと承知して、ルツはテレパシーを絶った。


 どんなに願っても、人はそのひとでしかいられない。己に嘘をつくことは出来ない。……自分は、自分自身でしかいられない。

 ならば――。





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