Part.1 紅白のお月さま(4)
4
十二月十日の早朝。わたしは、パパの手紙とメモリーチップと少しの着替えをボストン・バッグに詰めて家を出た。パパが死んで一週間しか経っていない。その間に、わたしの周りの状況は、どんどん怪しくなっていた。
わたしのパパ――
ママはわたしが産まれてすぐ死んでしまったので、わたし達は二人きりの家族だった。わたしは地球――東アジア州日本区で学校に通い、パパは単身赴任。月に一度か、下手をすると二・三ヶ月帰れないことがあったけれど、わたしはパパを尊敬していたし、大好きだった。優しくて、誰にでも自慢できる素敵なパパだった。
ところが、学会の為に帰省していたパパが、突然死んでしまった。死因は交通事故……自動制御を外れて暴走した
でも、わたしは待っていられなかった。
パパは何者かに狙われていたのだ。いつもの学会よりずっと早く、逃げるように月から帰ってきた。殆ど外出をせず、わたしにも学校を休ませて、学会が無事に終わるまでの辛抱だと言っていた。
わたし達は、一週間あまり、見えない誰かの脅威に耐えて過ごした。パパの研究が狙われているのだろうとは察したけれど、詳しいことは教えてもらえなかった。
学会当日の朝、パパはわたしに一通の紙の手紙と小さな金属製のメモリーチップを渡した。通信技術の発達した現代、情報を守るためには紙の手紙が最適とされているので、パパはこの方法を選んだのだろう。――もしパパが帰ってこなかったら、これを持って月の銀河連合軍基地へ行くように。そこでグレーヴスという男に渡すように。わたしと《VENA》のことは、その人が何とかしてくれることになっている。しかし、決して手紙を見ないよう、何度も念を押した。
「お前とVENAは、姉妹だから」という、不思議なことも言っていた。
そして、パパは帰ってこなかった。
翌日から、わたしは誰かに見張られている気配を感じた。葬儀の手続きとか警察の捜査とかで外出しないわけにはいかなかったけれど、常に誰かの視線を感じていた。
早く月へ行かなければならない。気は焦ったけれど、独りで行くのは恐ろしく、なかなか決断できなかった。パパと過ごした思い出のある家を出て行くのも寂しいし……。
けれども、家に何者かが侵入し、迷っていられなくなった。
何度目かの事情聴取から帰宅すると、カギが開けられ、家財をかき回した跡があった。机とクローゼットが開けられて、書類が散乱していた。何を探そうとしていたのか、容易に察しがついた。
わたしは心を決めた。月へ行こう。ここを出て……戦うのだ。このままでは、わたしも殺されてしまうかもしれない。パパに言われたことをやり遂げないと。
一度バッグに入れた手紙とチップを、思い直してブラジャーに挟んだ。薄手のセーターを着て、学校の制服を着た。パパの貯金から、パス・ポートをとるのに必要と思われる分と少し余裕を見積もり、身につけた。移動記録(GPS履歴)が残ることを警戒し、ヴイ・フォン(携帯電話)は置いていくことにした。
午前七時。
通勤通学の時間帯に、わたしは普通の女子高校生――本当にそうなんだけど――を装い、ボストン・バッグと『痴漢撃退ブザー』という唯一のささやかな武器を手に、家を出た。
同乗者を待ってマンションのエレベーターに乗り、人通りの多い方へ向かった。パス・ポートを申請するには、県庁へ行かなければならない。自動運転のタクシーを避け、混んだバスに乗り、SCM(SuperconductingMaglev:超電導)リニア・トレイン・ステーションを目指した。
駅付近のムーヴ・ロード(動く舗道)に乗るまでは、不審人物に声をかけられたり呼び止められたりはしなかった。でも、見張られているという感覚は抜けなかった。誰かがついて来ている……尾けて来る。出来るだけ人の多いところを通ろう。
リニア・トレインはいつもどおりに混んでいて、わたしはホッとした。大勢の人に囲まれているほうが安心できた。ここまでくれば大丈夫、という気になっていたのかもしれない。油断したのがまずかった。
突然、誰かが後ろからわたしの体を抱え、上着のポケットに手を突っ込んだ。痴漢ではない。悲鳴を挙げようとした口を何かが塞いだ――。
気がつくと、駅長室のソファーの上だった。人のよさそうな駅長さんが、大丈夫ですか? 貧血でしょう、と言ってくれた。わたしはバッグと手紙が無事だと判ると、すぐにお礼を言ってそこを出た。
とにかく、連中は一度失敗したのだ。混雑の中で、気絶した女の子を抱えて逃げることは出来なかった。その代わり、尾行者はついに姿を現した。振り返ると、物陰に隠れる姿が見えた。きっと、わざとそうしているのだ。こちらの恐怖をあおるために……。
わたしは、バッグを抱えて走り出した。
県庁へ行くには一つ先の駅まで行かなければならなかったと気づいて、わたしは唇を噛んだ。でも、もう列車には乗れない。大通りに出たとたん、わたしの前で車が停まった。
ドアが開き、中から定石通りに黒サングラスをかけた男が出てきた。追って来る人影を振り返り、わたしは思い切りバッグを振り上げた。わたしの腕をつかんだ男の顔を、力のかぎり殴りつける。助けを呼ぶことも忘れ、夢中で振り回した。男のサングラスが吹き飛んだ。
もたれかかるように背中で車のドアを閉めたけれど、今度は、わたしは車に押し付けられることになってしまった。二人の男がわたしを押さえ、車のドアを開けようと躍起になった。数人の通行人が、怪訝そうにこちらを観ていった。
わたしは泣きたくなった。
誰も助けてくれない。人の多いところなら安全だろうと思ったのは間違いだった。映画のロケとでも思っているのだろう。情けない……!
わたしは、大声を挙げようと息を吸い込んだ――
一人の男が、わたし達の前に佇んでいた。わたしの危機を見て駆け寄ってくれたらしいのだが、わたしが悲鳴もあげないことに当惑しているらしい。近づいて、おずおずと話し掛けて来た。
「Ah......May I help you ? (あの……何か手伝いましょうか?)」
わたしの頭に一気に血がのぼった。半分泣きながら、金切り声でわめきたてた。
「ぼさっと突っ立っていないでよ! 早く警察を呼んで!」
「いや、その必要はありませんよ」
翻訳AIを通しているとは言え、妙に馬鹿丁寧なことわり方だった。
男は、わたしの腕を掴んでいた男の腕を取り、体の向きを反転させた。ばこっという間の抜けた音がして、相手はふっとんだ。音のわりには威力があったらしい。
彼は運転席から降りてきた別の男に向き直ると、無造作に拳を突き出した。相手がよけた隙に腹を蹴り上げる。黒眼鏡は、ここでも声を出さなかった。
わたしの腕をねじ上げて車に押し込もうとする男が最後に残っていた。通りすがりの男は悲鳴をあげるわたしに駆け寄ると、そいつの肩をつかみ、恐ろしいスピードで顎を殴りつけた。もさっとした雰囲気に似合わず、動きは速かった。
彼は、わたしを抱えるようにして奴らから引き離し、わたしをかばって立った。
自由な身になったとたん、わたしは身を翻し、一目散に駆け出した。
「あ……きみ!」
通りすがりの男が慌てて叫ぶ。黒眼鏡の連中は車にとび乗った。歩道を走るわたしを、エア・カーが追って来た。横道に駆け込んでムーヴ・ロードに乗る。通行人が驚いて見守っている。
振り向くと、黒服の男たちも車を乗り捨てて走っていた。
わたしはムーヴ・ロードの壁を乗り越え、車道に出た。道を横切ってショッピング・ビルに駆け込む。背後で何台かの車が急ブレーキをかける音と、怒鳴り声が聞えた。
わたしは混雑する一階のフロアを駆け抜け、ちょうど扉を閉めようとしていたエレベーターに飛び乗った。買い物客の間をすりぬけてエレベーターの奥に入り、壁によりかかって息をついた。休んでいる暇はない。奴らはすぐに追ってくるだろう。次の手を考えないと……。
高速エレベーターを十五階で降り、わたしはまた走り出した。
階段を使って二階下のトイレに駆け込む。制服を脱いでボストン・バッグの中に入れ、ジーンズに履き替えた。まとめていた髪をほどいた――ささやかな変装。
周囲を見回し、追跡者のいないことを確かめてから、再びエレベーターに乗り込んだ。深呼吸をして呼吸を整える。今度は八階で降りた。女性用の服や下着を売っている階だから、男性は入りにくいだろう……。
わたしはフロアをぐるりと見回し、一番奥に喫茶店をみつけた。少し混雑している――そう判断して駆け込む。出来るだけ奥の方に席を探す。家族連れがわたしの横を通り過ぎて行く。二人用のテーブルに空席を見つけたとき、肩を叩かれた。
「!」
背中に電極を差し込まれたとしても、これほど驚かなかっただろう。よく悲鳴をあげなかったものだと思う。恐るおそる振り返ると、人なつっこい笑顔が眼に入った。
「あ、あなた……!」
「良かった。また見失ったかと思った」
さっき助けてくれた、通りすがりの男だった。かるく息を弾ませている。わたしは警戒して彼の腕を振り払おうとした。
その時、奴らが観えた。向かいのエレベーター・ホールに二人の男が立ち、フロアを見回している。凍りつくわたしの耳に、彼は低く囁いた。
「大丈夫です。できるだけ、奥の席につきなさい。入り口に背を向けて、さっき入ってきたようなふりをして」
「や……やだ。あなた、何?」
「こんなところで騒ぎをおこすつもりですか?」
彼はわたしの腕を軽くつかんだまま、にっこり微笑んだ。底のない黒い瞳が怖くなって、わたしは口を閉じた。意を決して歩き出す。言われたとおり入り口に背を向け、さっき見つけた席に坐った。
彼は平然と、わたしの向かいに腰を下ろした。怒った猫さながら全神経を逆立てているわたしとは対照的に、シートにもたれる姿からは、第一印象の“トロそうな”雰囲気しか感じられなかった。
わたしは目の前の男を警戒しながら、そわそわと店の外を窺った。エレベーターの前に、奴らは……いない? ほっとするより、どこに消えたかが不安で、わたしは首を伸ばした。
視線を戻すと、男はテーブルの上で腕を組み、興味深そうにわたしを観ていた。黒い瞳は吸い込まれそうに深く、その奥の感情は読み取れない。
「一人が階段を、二人がエレベーターを使いました。あなたはなかなか上手でしたよ。おれも、制服には迷いそうになりましたから」
「あなた……一体?」
震える声は、接客AIの音声に遮られた。男はテーブルのキーに触れてコーヒーを注文し、何にします? と言うようにわたしを見たけれど、わたしが何も言わなかったので、勝手におススメの紅茶を頼んだ。
いったい、どういうつもりなんだろう?
わたしは怒りにも似た恐怖から貝のように口をつぐみ、彼を睨みつけていた。
男の瞳はぐるっと宙をさまよい、わたしの背後からわたしの顔へ戻ってくると、照れたように笑った。
「そんなに緊張しないでください。びっくりさせてしまったのは謝ります。あの――」
「…………」
「ええと……おれは、あなたの敵じゃありません。あなたを追ってきたのは確かですけれど、彼らとは目的が違います。むしろ、その逆で……」
「逆?」
驚いて、口を挿んだ。男の顔にほっとした微笑が浮かぶ。頷いて、上着のポケットを探した。
「そうです。ええと……あれ?」
時間が経つにつれ、彼は第一印象より若返った。探し物が見付からずにうろたえる姿は、二十二・三歳くらいに見えた。
「ああ、あった。……おれは、
最終的に男は紺のズボンのポケットからカードを引っ張り出し、控えめにテーブルの上に置いた。
わたしは、牽制をこめてちろっと彼を睨みつけてから、それを見下ろした。カードには、こう表示されていた。
銀河連合宇宙軍 オリオン腕方面 ソル太陽系連邦内
第三惑星
安藤 幹男 MikioAndo
……気がつくと、わたしはカードを手にとり、しげしげと見つめていた。透明なカードに浮かぶ写真と男の顔を見比べる。顔も服装も、目の前にいる男と寸分違ってはいなかった。少しカールした柔らかそうな黒髪、深く黒い瞳。わたしと同じ東洋系に観える。
繊細に整った顔は若く、色は白い。病的ではなく、健康そうな明るい肌の色だ。わたしがあんまり見つめるものだから、男は照れ笑いを浮かべた。小鳥のように首を傾げ、白い歯を見せる。育ちの良さそうな上品な微笑。
それが、ミッキーだった。
*
「あなた、本当に銀河連合宇宙軍の人なの?」
「はい。入隊して八年になります」
わたしの顎の筋肉は、ゆるみっぱなしだった。
テーブルが開き、紅茶とケーキが現れた。男の前にコーヒーが置かれる。わたしは必死に警戒心を
男の人なつっこい微笑は、わたしの考えを見透かしていた。左手の甲をさしだし、甘いテノールで言った。
「どうぞ、おれの身分証明(ID)チップはここにありますので、認証して下さい。それはそうと、おれの方も確認させて下さい。おれが話をしているのは、確かに倫道小百合さんですよね? 倫道和明教授の娘さんの」
「わたしに何か用ですか?」
わたしがカードを彼の手にかざすと、皮膚の下に埋め込まれたチップが反応して、3Dホログラムが表れた。身分証と同じ内容に加え、血液型などの生体情報が表示される。わたしは未成年なので、まだチップは埋め込まれていない。カードを彼に返して自分の学生証を見せながら、警戒を解かないよう努めた。
男はわたしのカードの内容を確認すると、頷いて返してくれた。
「あなた、さっき、わたしを追ってきたって言いましたよね?」
「ええ。依頼を受けたんです」
一瞬ドキッとする。
男は、また微笑んだ。
「身構えなくても大丈夫ですよ。とって喰ったりしませんから。……どうぞ、召し上がって下さい。あなたを追いかけてきた連中なら、きっと外で待っています」
「はあ」
頷いたものの、ケーキに手を出すかどうかは悩んだ。男は自分のコーヒーをブラックのまま一口飲み、話し始めた。
「あなたのお父さん――倫道教授から、連合軍に依頼があったのです。十二月十二日……つまり、明後日なんですが。あなたと教授を月基地へ運ぶようにと」
「あなた、わたしを月へ連れて行ってくれるの?」
声が弾んだ。男は困ったように微笑した。
「困っているんです。依頼人が亡くなってしまったので、あなたがどうなさるおつもりか伺いたかったわけなんです」
「パパが死んで、もう一週間が経つわ。その間、何をしていたの?」
「済みません。手が離せない仕事があったんです」
謝罪する男の顔は、本当に若く、邪気がなかった。或いは、そう思わせようとしているのかもしれない。わたしの前で、ぽりぽりと頭を掻いた。
「依頼は十二日なので、その前に一つ仕事を片付けていたのと……実は、教授の死因を調べていました。腑に落ちないことがあって。ご自宅に電話したら不通になっていたから、これは急いだ方がいいと思い、今日お伺いしました。外出されるようでしたから、失礼ながら護衛も兼ねて尾行させて頂きました」
「それじゃあ、あなた、もしかして」
わたしは口ごもった。尾行させて頂いた……護衛って、もしかして。
「あなたを駅長室に運んだのは、おれです。痴漢にしては様子がおかしかったから、そっちを追いかけたのですが――。戻ったら、倫道さんはどこかへ行ってしまわれていたので、驚きました」
「……いつも、あんなにどんくさいの?」
「え? ああ、いえ」
意地悪なわたしの質問に、男は無邪気に微笑んだ。組んだ両手をテーブルに載せる。
「あなたがあんまり落ち着いていらっしゃったので、もしかすると、彼らがあなたの特別なお友達じゃないかと思ったんです」
わたしは大袈裟に息を吐いた。
「あなたの了見だと、友達なら、嫌がる婦女子を車に押し込む権利があるみたいね……。あなたも同類?」
「おれには、特別な友人なんていません」
にこにこと微笑む。
わたしは呆れた。――何なの? この人。天然?
男はわたしの心を読んだようなタイミングで、口を開いた。
「その様子だと、信頼してくださったようですね、小百合さん。おれは、依頼を放棄しないほうがよろしいですか?」
「お願いするわ……」
信頼したと言うべきか、呆れ返ったと言うべきか……。
わたしは頷いた。とにかく、この男が連中の仲間でないことだけは判った。
「なら、どうぞ召し上がって下さい。あなたを連合の月基地へお連れします」
「どうも……」
軽くお礼を言って、わたしはケーキを口へ運んだ。ベイクド・チーズケーキは、滑らかな舌触りと控えめな甘さがとても美味しかった。
わたしが食べている間、彼は、ちらちらとわたしを見て微笑んだり、コーヒーを飲んだりしていた。店外を見る何気ない眼差しは、時折、鋭い光を宿していた。
*
それから三日間、わたしは安藤さんと一緒に行動した。奴らは相変わらず出没したけれど、彼がいるとあまり手を出して来なかった。
安藤さんは、付き合ってみるほど紳士だった。ホテルはいつも彼の名前で借りたシングル・ルームだったけれど、ベッドで寝るのはわたしで、彼は徹夜で見張りをしてくれた。「慣れていますから」と、あっさり笑った。今度の密航計画も、「何も心配しなくていいですよ」と言ってくれた。
狙われている以上、パス・ポートをとってシャトルを利用するのは奴らに居場所を教えるようなものだからやめた方がいい、と安藤さんは言った。彼の後輩の船がちょうど地球から月へ荷物を運ぶので、密航させてもらおうと。
東アジア州都・
深夜、船に乗り込むときに、わたしは初めて船の名前を聞いた。
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