Part.1 紅白のお月さま(5)
5
わたしが逃亡から密航までのあらましを語り終えると、パイロットは考えこんだ。安藤さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、褐色の目はどこか遠くを彷徨っていた。
「グレーヴス」
ガディスさんは、わたし達の背後のスクリーンを眺めて呟いた。咥えていた煙草を手にとり、ソーサーに灰を落とす。
ところで、現代の煙草は大昔のように有害なものではない。火を点けるポーズはそのままだけれど、単なるニコチン吸入器となっている。副流煙もきれいで、匂いは殆どない。チョコレート(カカオ)に含まれるテオブロミンや、コーヒーやお茶に含まれるカフェインと同様、軽度の依存をもたらす嗜好品として社会的に容認されている。
安藤さんは苦笑した。
「よくある名前だろう?」
「ああ」
ガディスさんは煙草を揉み消した。
「
「いいえ」
「すると、
どうって……月に行けば何とかなるだろうと考えていたのだ。パパの研究所の人だろう、と。
安藤さんはキッチンに立ち、手元でシャカシャカ音を立てながら言った。
「腑に落ちない点がいろいろとあるんです。倫道教授が身の危険を感じておられたのなら、何故もっと早く相談されなかったのでしょう? 何故、銀河連合なのでしょうか。教授は地球連邦政府のシンク・タンク(研究所)の所属です。連邦がアテにならなかったのか――」
安藤さんはカウンターから出ると、抹茶を入れたお椀と焼き菓子を、わたしの前に並べた。ガディスさんがすかさず手を伸ばして、菓子にかじりつく。わたしは目をみひらいた。
「どら焼き?」
「はい。二十世紀末から二十一世紀にかけて地球で流行したアニメーションに登場する、猫型ロボットの好物です(注*)。せっかく日本区へ行ったので作ってみました」
安藤さんは、ふわりと微笑んだ。
「原材料は、砂糖、小麦粉、牛乳、卵、乳脂肪、醤油、小豆……です。アレルギーはないですね? お茶と一緒にどうぞ。
「あ、ありがとうございます」
立ててくれた抹茶をひとくち飲んでから、どら焼きを口へ運ぶ。小豆独特の甘さが嬉しい。安藤さん自身はコーヒーを飲んで話を戻した。
「――教授は、学会が終わるまでは自力で切り抜けるおつもりだったのでしょう。何をなさる予定だったのか? ひき逃げ犯と、小百合さんを追いかけて来た連中の関係は?」
ガディスさんが指先についた餡を舐めて相槌をうつ。安藤さんはカップをソーサーに戻し、優雅に肩をすくめた。
「おれの任務は小百合さんを送ることですが……。銀河連合の月基地には、現在、グレーヴスという名の人物はいないそうです」
「えっ?」
わたしは目の前が暗くなる心地がした。
「いないの?」
「近日中に基地勤務に入る者のなかには。それ以上は、軍の機密なのでちょっと……。倫道さん。教授があなたに預けた手紙を見せてもらうわけにはいきませんか?」
わたしの表情を読んで、
「いえ。中までじっくり見ようというわけではないんです。宛名か何か、書いていないかと思って」
わたしは背をかがめ、セーターの裾から手をつっこんだ。男達二人が眼をまるくする。わたしは頬が火照るのを感じながら、温まった封筒を安藤さんに手渡した。
「あ……どうも」
安藤さんは気まずそうに口ごもった。ガディスさんはヒュッと短く口笛を吹いた。
「中は、わたしも見ていません」
「封がしてありますね」
白い封筒を手に、安藤さんは残念そうに眉尻を下げた。パイロットがさっと取り上げ、厚みのある封筒をまじまじと見つめ……その瞳が、鮮やかな青に変わった。
安藤さんが期待をこめて声をかける。
「
「……駄目です」
ガディスさんは舌打ちして、わたしに手紙を返してくれた。瞳の色が元に戻る。頑丈な重力調整ブーツを履いた脚を組んだ。
「物理的対象の透視ですから、視えないってわけじゃないですけど。折りたたんだ紙にびっしり書いた文字なんて、視えても読めないっす」
安藤さんは、わたしに向き直った。恐縮している風情で、おもむろに提案する。
「その手紙、開けて見るわけにはいきません……よね」
「やめた方がいい」
わたしより先にパイロットが断言した。自分の膝に肘をつき、長い指で顎を押さえる。
「そいつはやめた方がいい、ミッキー。子猫ちゃんのお気には召さないだろ」
わたしを見て、ウィンクする。ちょっとどきっとした。
溜息をくりかえす安藤さんに、ガディスさんは皮肉っぽく言った。
「ミッキー。あんたの仕事は、子猫ちゃんをお月様へ運んで行くことだ。教授の死因やグレーヴスなんて、あんたが悩むことじゃあない」
「それは、そうだが……」
わたし、安藤さんはてっきり、グレーヴスという人を知っていると思っていたのだけれど。
わたしの心を読んだように、ガディスさんがくすくす笑った。
「『無きにしもあらず』だよ、子猫ちゃん。そうでしょう? 先輩。どうしてオレの船を選んだのか、『無きにしもあらず』な理由があったからですよね」
ミッキーと呼んでみたり、先輩と呼んでみたり。ころころと呼び名を換える後輩に、安藤さんは苦笑した。
わたしだけ、訳が判らずにいる。
「あの。それって、どういう……」
「さて。そろそろ本題に戻ろうか」
いきなり、パイロットはこちらに体の向きをかえた。困惑しているわたしに白い牙をみせ、
「自分の置かれた状況を把握したところでな、子猫ちゃん。今すぐ月基地へ行きたいか?」
「え? えーと」
この人の態度を見ていると、わたしがここで「うん」と頷けば、このまま連れて行ってくれそうな気がした。でも……と、思う。それでいいのだろうか。
ガディスさんは、いたずらっぽく唇を歪めた。
「あんたがどうしてもって言うのなら、月まで送ってやらないことはない。ただし、後は自分で何とかするんだな。あんたを追いかけている連中から逃げるのも、グレーヴス探しも。OK?」
わたしは安藤さんを顧みた。わたしの心境から言えば、救いを求めるような目つきだったろう。しかし、安藤さんは申し訳なさそうに眼を伏せた。
「ミッキーの任務はそこまでだ」
追い討ちをかけるように、ガディスさんは続けた。
「判っていると思うが、いくらオレ達がおせっかいを焼きたくなる仕事でも、断られればおしまいだ。OK? 」
ガディスさんはソファーにふんぞり返り、すらりとした長い脚を組んだ。
「便利だと思うけどねえ、オレなら。銀河系に何万人……何十万人いるか判らない『グレーヴス』の中から、たった一人で、たった一人の『グレーヴス』を探すのよりは、さ」
「…………」
「有能とは言えないかもしれないが――」
ガディスさんは新しい煙草に火を点け、口の端にくわえた。喋るとそれは唇にはりつき、言葉とともに揺れた。
「オレは、銀河連合宇宙軍に所属している『グレーヴス』――オレが知るだけでも、五人はいる。――の中から、教授に面識がある奴を洗い出せると思う」
「それじゃあ、」
「あなた次第ですよ、倫道さん」
安藤さんが静かに言った。柔らかなテノール。
ガディスさんは、ぷかあと煙を吐いた。安藤さんが眉をひそめたので、再び点けたばかりの煙草を揉み消した。
「これでもAクラスESPERの
「おい、ルネ」
わたしが黙っていると、安藤さんが口を開いた。まだ長い煙草を未練がましく眺めている後輩に、
「お前、いつから広報部に替わった?」
「先輩が言わないから、代わりにオレが言っているんじゃないですか」
「口の減らない野郎だな」
「あんたもね」
全く唐突に、口調から遠慮が消える。――ガディスさんは不敵に嗤った。
「ボーダー・エリア(辺境)で半年間もエイリアンをぶっ飛ばし続けていれば、人恋しくもなる……。半年ぶりのFクラス・スタンバイ(休暇)なんだぜ、オレ」
安藤さんは肩をすくめた。
「あのう」
話の筋がみえない。わたしはおずおず口を挿んだ。
ガディスさんは、真顔で振り向いた。
「ん? 決まったのか? 子猫ちゃん」
人をからかっているような口調だ。でも、その瞳には妙に大人びた表情があった。無邪気で子供っぽかったパイロットが、突然、わざとそう見せかけていたのではないかと思えてくる。
わたしはどぎまぎした。場違いなところに来てしまったような、居心地の悪さを感じた。
「いいんですか? 本当に」
「勿論、正式な依頼じゃありませんけれどね。倫道さん」
切れ長の眼を伏せて囁く、安藤さん。いつも身近な雰囲気の彼なのに、この時は遠い気がした。
「あなたのお父さんの依頼を、少し訂正すれば済むことです」
「訂正?」
「おれの受けた依頼は、教授と小百合さんを連合軍の月基地まで運んでくれ、でしたから――」
「子猫ちゃんを『グレーヴスのところまで運んでくれ』に変えれば済む」
面倒そうにガディスさんが継いだ。右手を顔の横でひらひらさせる。
「どうします? 倫道さん」
安藤さんは、自分の膝に頬杖をついてわたしの顔を覗き込むという、これまでの彼にしてはとても馴れ馴れしい仕草で声をひそめた。
「余計なお世話でしょうが――倫道教授がいらっしゃった研究所には、近づかない方がよいと思います。職員を巻き込むだけでなく……おれは、この件では、地球政府を信用できません」
「オレも同意見だ」
ガディスさんも言った、目はスクリーンを向いている。
「『無きにしもあらず』な理由で乗せられたクチだ。こうなりゃ、とことん付き合うぜ」
安藤さんは微笑み、パイロットの向こうの星空から、わたしに視線を戻した。
「……お願いします」
わたしは、ゆっくり頭を下げた。彼は歌うように答えた。
「こちらこそ」
「請求書は――」
ガディスさんの台詞に、わたしはどきっとした。パイロットは小指で片方の耳を掻き、飄々と続けた。
「グレーヴスのおっさんに回しとくからな」
「あ……はい」
彼のウィンクにつられて、わたしは笑った。『おっさん』だなんて。もし若い人だったら、どうするつもりだろう?
パイロットは唇を歪めた。
「やっと笑ったな」
「え?」
「オレのこと、少しは信用する気になった? 子猫ちゃん」
「…………」
半ば呆れ半ば驚くわたしの表情を見て、くすくす笑う。安藤さんも喉の奥で笑った。
ワンテンポ遅れて、わたしも笑った。
「それじゃあ、着陸準備といきますか」
ガディスさんが言ったとたん白い光が目を射て、わたしは慌てて顔を覆った。安藤さんが手を挙げて眼をかばう。
パイロットは平然としていた。
「
スクリーンごしに巨きな銀の円盤を背負ったラウル星人は、おどけて言った。
「
「とうちゃく……って」
「こんなに早く?」
光の直射を避けた安藤さんは、驚いて叫んだ。スクリーンいっぱいに映る白銀の月を、ぽかんと仰ぐ。
パイロットは苦笑した。
「標準時間で十分前から周回軌道に入っている。そう驚くなよ、子猫ちゃん。ラウル星人の能力もAクラスになれば、光くらい曲げられるんだ」
「早すぎないか?」
安藤さんは眩しげに眼を細めた。
ガディスさんは立ち上がり、コクピットへ向かう。
「全然。さっきの騒ぎで宇宙港は通り過ぎたからな。減速していた」
「…………」
安藤さんは口を閉じ、考え込んだ。パイロットは歩きながらぼりぼり頭を掻いた。コクピットのドアが開く。
「リサの承諾がもらえ次第、着陸したかったんだ」
「あのう、ガディスさん」
馬鹿みたいな質問だな、と思いながら、わたしは声をかけた。パイロットは操縦席に着いて振り返る。
「んー?」
「『リサ』って、わたしのことですか?」
「……オレは、あんたをミッキーと呼んだ覚えはないぜ」
「どうしてです?」
「へ?」
安藤さんが通信士用のシートにつき、わたしは入り口に立っていた。
パイロットは、やや憮然と訊き返した。
「悪いか?」
「いえ……でも、なぜかなって」
「だって、リサなんだろ? 名前」
「
ガディスさんは、「この忙しいのに、なにをぐだぐだ言ってやがるんだ」と言わんばかりだった。わたしの声はだんだん小さくなった。
「わたしの名前……倫道小百合、なんですけど」
「だから、リサ、だろ? 違うのか」
苛々と繰り返されて、ようやくわたしにも理解ができ……呆れた。安藤さんが目配せをする。
追い討ちをかけるように、今度はガディスさんが訊き返してきた。
「ところで、オレも訊きたい。あんたがさっきから言っている、ガディスさんってのは、オレのことか?」
リンドウ・サユリで、『リサ』ねえ!
ぽかんと口を開けるわたしを見て、彼はけたけた笑い始めた。
「ルネでいい。そう呼んでくれ。オレも、あんたをリサと呼ばせてもらうから」
「ルネ、さん?」
「ルネで結構だ。すわんな、リサ」
促されて、わたしは予備シートに腰をおろした。
安藤さんが片目を閉じる。右手の親指を立て、楽しそうに微笑んだ。
「おれもミッキーで結構ですよ、倫道さん」
「行くぜ、ミッキー」
自動操縦から手動に切り替えて、ガディスさん――ルネが、煙草を吸いすぎた声で言う。
「ミッキー。あんたの家に一番近い
「いや、ダイアナ。
答える安藤さん――ミッキーの声は、澄んだテノール。
「OK. 今は夜側だな?」
「そうだ。時差十二時間。調整するぞ、ルネ」
「どうぞ」
十二月十四日、午前九時三十五分を指していたコンソールの時計は、午後に切り替わった。
明るい銀の光を浴びながら、船は月の夜へと入っていく。シートに座ってスクリーンを観ていると、黄金に輝く球形の人工衛星が現れた。月を周回しているコロニーだ。太陽光反射板が紅色に観えるので、《
本来の月は、《
管制塔からの申告要請に、ミッキーが応じる。ルネは、
「晩めし、期待しているからな、ミッキー」
ミッキーは、ぐう、と唸った。わたしには困ったような苦笑を向ける。
そして、わたしは、白い方の月に降りた。
~Part.2へ~
(注*)『ドラえもん』@藤子・F・不二雄(小学館 1969~1996): 『コロコロコミック』や『小学◯年生』で連載中のものをリアルに読んでいた世代です。コミックも全巻揃えていました。アニメは、ドラえもんの声優は大山のぶ代さん、のび太は小原乃梨子さんでした。
ミッキーは上田宗箇流(茶道)の設定です(←限りなくどうでもいい)。
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