回想の絆(2)
2
乾いたホイッスルの音が、人工の空を押し上げた。
ラグは咄嗟に片手を挙げ、飛来した影へと伸ばした。先のとがった楕円のボールは、ぽすりと掌に収まった。秋風のごとく澄んだ歓声が、グラウンドに響く。
ラグはすこし考えた後、PK(サイコキネシス:念動力)を載せてボールを投げ返した。ラグビー・ボールは綺麗な放物線を描き、グラウンドに立つ学生達の足下に届いた。
「Thanks、ラグ。取りに行く手間が省けたよ」
芝の生えた斜面を登って来たミッキーが、軽く息を弾ませて言った。ラグは胡坐を組み直す。練習用のラガーシャツを着たミッキーは、目陰をさして仲間の動きを見守っている。
「うまいなあ、やっぱり。観てばかりいないで、お前も参加しないか」
ラグは逆光に眼を
「昔……五十四生分やったから、もう、いい」
「ええ?」
ボトルに口をつけながら、ミッキーは眼をまるくした。そうすると、宵闇色の眸に光が射す。仲間が練習を再開するのを後目に、面白そうに問い返した。
「初耳だぞ。いつの話だ?」
「ヴィクトリア女王の頃だから……十九世紀か」
「おもいっきり初期じゃないか。ボールもルールも違うだろう」
ミッキーは滑らかな声を転がして笑った。ラグは自嘲気味に苦笑した。
かつてミッキーの母親は、幼い息子に全 《ウィル》 の記憶と能力をおしつけて命を断った。《古老》はあるていど人格が育った後継者に歴代の記憶を譲るのが普通なのに。彼の脳にはどれほどの負担だったろう。ラグとモリスは案じたが、幸いミッキーは支障を来さなかった。彼を養子に迎えてくれた安藤家の人々のお陰だ。
愛情ぶかい養母と世話好きの兄姉、賑やかな弟妹に囲まれて、ミッキーは心身ともに健やかに成長した。六十代目の 《ウィル》 は、温和で真面目な好青年だ。
「ミッキー!」
戻ってこない友を捜して、鷹弘が駆けて来た。――
百キロに届こうかという
「なんだ、ラグもここにいたのか。そろそろ上がらないか、ミッキー。昼めしに行こう」
「いいね。ラグ、お前も来るか?」
「いや、遠慮するよ」
ラグはチームメイトを優先させようと考えたのだが、ミッキーは別の意味に捉えたらしい。のんびり立ち上がる相棒の仕草を眺め、
「そうか。親父さん(モリス)が帰って来ているんだな?」
「ああ」
ラグは、ジーンズに着いた芝の葉をはらって頷いた。
「夕方は空いているか? ミッキー。
鷹弘が頬をひきしめ、二人を交互に見遣った。ミッキーは首を横に振った。
「悪い、今日は駄目だ。
「あの双子か」
ラグは苦笑し、鷹弘もつられて微笑んだ。安藤家は半年前に双子の姉妹をひきとった。元気のよい女児たちで、ミッキー達はすっかり振り回されている。
ミッキーは艶やかな黒髪を掻いて肩をすくめた。
「毎日、大騒ぎだよ。今朝も、幼年学校へ行く支度を手伝っていたら喧嘩になった。アニー(アンソニー)が芳美の髪を先に編んだのが、麻美の気に入らなかったらしい。どっちが先に部屋の戸を開けただの、ウサギの餌をあげただの、どうでもいいことで喧嘩している」
「そんな大騒ぎで、見分けがつくのか?」
ラグはくつくつ笑っただけだが、鷹弘が感心して問うと、ミッキーは溜息をついた。
「つくよ。同じ服を着ていても、麻美の方が丸顔だし、芳美の方がちょっとだけ背が高い。性格が違うし、好きな食べ物も違う。一卵性双生児だって別の人間なんだと分かるよ」
「へえ」
「アニーひとりに任せられないからね。交代で相手をしているんだ」
「イリスちゃんは手伝ってくれないのか?」
ラウル星人の血をひく妹の名を聞くと、ミッキーはさらに深く嘆息した。
「あいつ、思春期に入ったらしくて、洋二とアニーとおれが近づくと露骨に嫌がるんだ。男はにおうから嫌いなんだと……。おばさんとマーサにくっついてる」
「ええっ? お前がそれじゃあ、俺なんかもっと近づけないぞ」
「ああ。鷹弘はきっと半径一キロメートル以内に近寄るなって言われるよ……。そんなに、におうかな?」
ミッキーは自分のシャツの襟を嗅いで眉根を寄せた。大袈裟に傷ついてみせる二人の会話を、ラグはうす笑いを浮かべて聞いた後、こう締めくくった。
「楽しそうでなによりだ」
「ああ、楽しいよ。そこは感謝している……」
ミッキーはふいに黙り込んだ。グラウンドに散らばる仲間たちの動きに、視線をめぐらせる。ラグと鷹弘は、特に不審に感じることもなく、その間を見守った。
「……クイン」
おもむろに、ミッキーは話しかけた。顔はグラウンドへ向けたままだ。彼がその名で呼ぶときは 《ウィル》 の意識が前面に立っているのだと、二人は理解していた。
「何だ?」
「この
ラグは真顔になった。ミッキーは彼に向き直り、声を低く抑えて繰りかえした。
「今回のミッションが終わったら、《ウィル》 を封印して欲しい」
「……来ないのか?」
何故、とはラグは訊かなかった。単純な問いに、ミッキーは小さく肯いた。
「自分でやろうかと考えたが、おばさんやマーサ達と記憶を合わせるのが難しい。お前と鷹弘に、頼みたい。……クインは、ラグで終わりなんだろう?」
「ああ」
「おれも終わらせたい……。ここで暮らすのに、《ウィル》 は不要だ」
ラグは表情を変えなかった。鷹弘は、二人の会話を息を殺して聴いていた。
過去の地球へ移動して、時空の流れを変える――《古老》 計画が始動したとき、ラグは十代だった。彼に辿り着いた時点で、このプロジェクトは終わる予定だった。成功するにしろ、失敗に終わるにしろ。
今紀の 《ウィル》=ミッキーには、まだ子どもはいない。いつ辞めてもいい、のは確かだ。
ラグは小声で応えた。
「承知した……。惜しい気はするがな」
「それが普通だろう?」
ミッキーは、ハッと吐き出すように笑った。
「人生は一回で充分だ。情報はAIに残せばいい……。おれがまた誰かに押しつけて逃げ出したくなる前に、終わらせてくれ」
台詞の後半は吐息に呑まれ、悲哀の淵にしずんだ。ラグはそっと頷いた。
《古老》は互いの記憶を共有することはない。よほど近くで暮らさない限り。クインはクインとして、ウィルにはウィルとして過ごした日々があり、葛藤があり、喜びと出会いと別れがあった。それらひとつひとつについて、詳しく問うような真似はしない。
先代の《ウィルマ》(ミッキーの母)は、彼に何を遺したのだろう。ラグは、大理石から削り出したような彼女の面影と、かたどるような微笑を想い浮べた。憂いを帯びた長い睫毛と、そこに宿っていた闇を。
ラグがひきうけたことで、ミッキーは安堵したらしい。面を上げ、風に頬をさらして笑った。
「Thanks、ラグ。明日なら空いている。お前と親父さんの予定が決まったら、教えてくれ。おれも、倫道教授と《
「ああ」
「《VENA》は麻美たちと同い歳なんだろ? 可愛いだろうなあ」
「…………」
沈黙している相棒を、ミッキーは労りをこめて見遣ったが、話を元に戻すつもりはなさそうだった。ラグは片手を上げて合図をし、ミッキーは鷹弘を促した。
「行こう、鷹弘。片付けて、学生食堂に行くんだろ?」
「あ? ああ。ラグ、また後で」
鷹弘はラグに挨拶をすると、ミッキーと並んで斜面を下った。途中から駆け足になり、仲間たちと合流する。ラグは、グラウンドを囲む盛り土のうえに佇んで二人を見送った。
――ふいに、視界から色彩が消えた。
日に焼けた芝生の色も、風にゆれる碧と黄金の波も。ゴールポストのポールの色も、練習用のシャツに描かれた黄色い縞も。地球人の故郷の星に似せた昼下がりの空の色も、遠くかすむ銀色の都市の影も。
平和な喧噪はやみ、針を刺すような風の感触と、湿り、半ば凍った土のにおい、苦痛と空腹を訴える低い呻きが辺りを浸した。馬たちの吐く息が煙突からのぼる煙と混じり合い、灰色の雨となって降り注ぐ。
華やかで、清潔で、洗練されたドームの環境とは似ても似つかない幻影に、ラグは懐かしさを覚えた。塹壕に充ちる血と硝煙と、生と死の混じる褐色の濃霧だ。
あれは、第一次世界大戦(WW1)……。
ラグは首を振って記憶の残像をうち消すと、やわらかな芝生に覆われた斜面を登って行った。
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