Part.5 Ataxie Optique: The reason why you never touch her.(3)
3
ラグは普段無造作になびかせている銀髪を首の後で一つに纏め、濃い色のサングラスをかけてコーヒーを飲んでいた。テーブルにモバイル・コンピューターを載せ、キーを操作している。ブラック・ジーンズを穿いた長い脚を持てあますように組んでいる。
鷹弘は店の入り口でその姿を確認すると、背の高い観葉植物を迂回して近づき、迷わず彼の正面に腰を下ろした。
「学位審査は終ったのか? ラグ」
「ああ」
注文を訊きに来たロボットに、コーヒーを頼む。
ラグの方は親友の仕草には構わず、自分の指先に視線を落としている。左眼のレンズの表面に、小さな数式が現れては消えていた。
鷹弘は苦笑した。相棒の無愛想には慣れている。彼がここに来るのは、連絡しなくても鷹弘やミッキーに会えると承知しているからだ。
ラグはぼそりと呟いた。
「終った。いろんな意味で」
「そうか。まあ、オメデトウと言わせて貰うよ」
レンズ越しに切れ長の眸がじろりとこちらを見たが、何も言わなかった。
既にPublish(公表)されている論文であれば、博士号は審査さえ受ければ授与されるも同然だ。それで鷹弘は祝ったのだが、ラグにとっては、もうどうでもいいことらしい。
鷹弘は、両手を組んで肘をテーブルの上に置いた。
「それで、どうするんだ? お前。これから」
「どう、とは?」
「何を計算しているんだよ?」
考えに集中しているのか、ラグは応えない。鷹弘は、サングラスに点滅する計算式を眺めて待った。
数分後、ラグは作業を続けながら独り言のように言った。
「ウィル(ミッキー)の都合に合わせて作戦を開始する。十日後だ」
鷹弘は息を止めたが、ラグは構わなかった。キーを撫で、ぞんざいに続けた。
「ウィルは 《レッド・ムーン》 の
「そうなのか?」
「エネルギーが大きいからな」
ラグはコーヒー色のレンズ越しに鷹弘の顔を一瞥した。
「あいつ一人で扱うのは難しい。集めたエネルギーを一旦 《レッド・ムーン》 の外に出して、俺と親父で増幅させた方がいいだろう。《ボイジャー》 を使えば、周囲への影響も少なくて済む」
「そ、そうか」
鷹弘は緊張気味に頷いた。ラグは平然とコーヒーを口に運んだ。生ぬるくなっていたらしく、軽く唇を舐めた。
鷹弘を代表とする銀河連合軍の
もとより、相棒のすることに異存はない。
「……何だ?」
沈黙に気づいて、ラグがこちらを見た。鷹弘は首を振った。
「簡単に言ってくれるよな、と思って。お前達は凄いよ、本当に」
「別に。危険なことをしているわけじゃない」
ラグはフンと鼻を鳴らした。
「ウィルに言わせれば、
説明しながら、ラグの脳裡にはルツの光の
鷹弘は、コーヒーをひとくち飲んで頷いた。
「承知した。俺達は、ミッキーと居ればいいんだな」
「ああ、頼む」
「最後の最後にお前と会えないのは、ちょっと淋しいけどな」
鷹弘がややしんみりと言ったので、ラグは再び彼を観た。何事にも素直すぎるほど素直に反応する相棒は、照れて横を向いていた。頑強な顔の面積に比べ相対的に小さい眼を、しょぼしょぼと瞬かせている。
「親父さんによろしく伝えてくれ。短い間だったけれど、世話になったよ」
ラグはしばらく鷹弘を眺めたのち、憮然と訊いた。
「何の話だ?」
鷹弘は、片方の掌で自分の大きな
「この作戦が終了したら、お前達は消えるんだろ?」
「……消えるんじゃない。記憶を封印するんだ」
「同じだよ、俺にとっては。ウィルには、もう会えない。お前とも」
「どういう意味だ」
問い返す声が冗談でなく不思議そうだったので、鷹弘は彼に向き直った。
ラグは数式の消えたサングラスごしにこちらを見詰めている。黒い瞳は真摯で、ふざけている気配は微塵もない。
鷹弘は口ごもった。
「え。だって……VENA プロジェクトを終らせるんだろ? お前達は。親父さんも」
「ああ」
「全てを終えたら消えるんじゃないのか、お前達は。今度の
「《VENA》 のエネルギーを封じて、時空の歪みの拡大を現時点で停止させる」
淡々とした説明に、鷹弘は続く言葉を呑んだ。ラグは相棒の理解度を試すように彼を眺めている。純粋に科学的な事実を述べる口調で続けた。
「上手く行けば、五年は
「次って……」
「おい、タカヒロ」
ラグは顔を背け、舌を鳴らした。仕様がないと言うように。
鷹弘の口が、ぽかんと開いた。
「何を誤解している? 俺達が、いつ 《VENA》 と心中すると言った? 俺とミッキーは、そんなつもりは毛頭ないぞ」
鷹弘は口を閉じ、相棒の端正な横顔を
「じゃあ、お前達は……。ウィルは」
「VENA プロジェクトを終らせる」
ラグは単調に告げた。
「《VENA》 に関わる 《古老》 の歴史に終止符を打つ……。《VENA》 が生まれた時点で、俺達が 《古老》 である必要はなくなった。俺達は 《VENA》 が生まれるのを待っていた……望んでいたんだ。何故、その 《VENA》 を消す必要がある?」
「…………」
「変えたいのは、未来だ」
鷹弘は唖然とラグを観ていた。サングラスの奥の、強い意志を宿す新緑色の瞳を。その目が見据えているものを理解した。
「《古老》 は過去を変えられない。だが、未来はそうじゃない。《VENA》 は未来だ。やっとの思いで手に入れたんだ。そう簡単に諦めてたまるか」
「…………」
「呆けるなよ、タカヒロ」
フッと、ラグは苦笑した。
「少し考えれば解るだろうが。これから死のうって奴が、学位審査なんて受けるかよ」
鷹弘は絶句していた。《古老》 達の意図とラグとミッキーのそれを混同していたことに気づき、いつしか、自分の頬にもふてぶてしい微笑が
鷹弘は、昂る感情を抑えて友を呼んだ。
「ラグ」
「これが終ったら忙しくなるぞ」
冷めたコーヒーを一息に喉に流しこみ、ラグはタブレットを手に立ち上がった。
「ディック教授に頼んでおいた船の設計をみに行く。お前も来るか? 銀河連合軍初の準光速恒星間航行宇宙船だ。興味があるだろう?」
鷹弘に否やはなかった。
◇
呼び出しの音に応えて愛機のメイン・ドアを開けたラグは、
「こんばんは」
長い黒髪の女性の姿を見つけ、息を呑んだ。
淡いブルーのワンピースを着たルツは、立ち尽くす彼の傍らをすり抜けて船内に入った。黒髪とほのかな花の香りが、ふわりと彼の前を横切った。《
ルツは、未だ茫然としている青年の顔を見上げ、曖昧に微笑んだ。
(来てしまった……)
仕事の間、ルツは針の
早く逢いたくて。
そんな己を省みる余裕まで、うしなっているわけではなかった。常に冷静で批判的な自分が脳内にいて、呆れていることも承知していた。
しかし……。
史織は彼女を止めなかった。その行動も心の動きも全て承知しているはずの 《彼》 は、あれきり沈黙している。
ルツはラグを見詰めて考えた。――何と言おう? どう切り出そう? それすら考えていなかったことに気づき、苦笑する。
なんと不器用なのだろう。気持ちを抑えることに精一杯で、伝える方法を思いつけないとは。――否。想いは言葉を超えるのだ……いつも、いつだって。それを忘れていただけだ。
彼に逢うまでは。
ラグは片手を口元にあて、戸惑ったように彼女を見下ろしている。どうしていいか判らないらしい。
ルツは早口に囁いた。
「ごめんなさい。連絡なしに、押しかけて」
「いや」
と応えたものの、黙り込んでしまう。
ルツは眼を閉じ、息を吸って鼓動を鎮めた。そのまま一歩を踏みだし彼に近づく。胸の底で悲鳴をあげる誰かの声を聴きながら――。
「どうかしら、と思って」
「…………」
「もし、話し相手が間に合っていなければ……」
ルツはラグの視線を頬に感じ、瞼を開けた。彼の表情は変化していなかった。しかし、サングラス越しの眼差しは。
鮮やかな若葉色の瞳は。
彼は無言だったが……やがて、その眸にぎこちない微笑が浮かんだ。彼女の身の内を震えが駆けのぼる。それは想いが通じた喜びであり、同時に恐怖に相違なかった。複数ある可能性の扉の一つがひらかれたのだ。
ラグが彼女に片手をさし伸べる。そこにルツは入って行った。
自分を殺す男の腕の中へと……。
その夜から、彼女は 《レッド・ムーン》 の自宅へ帰らなくなった。
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