Part.5 Ataxie Optique: The reason why you never touch her.(4)
4
ルツにとって恐怖と背中あわせの十日間は、またたく間に過ぎた。
モリスとラグと鷹弘とミッキーは、月と 《
ルツは、
ラグは彼女の気持ちを思い遣り、ターナーと話をつけようかと申し出たが、ルツが止めた(ターナーがまともに話を聴くはずはなく、そんなことをすれば確実に彼等の邪魔をするだろう)。鷹弘は、《
史織はあの日から、ルツにあまり話し掛けなくなった。彼女とラグの関係に戸惑っているらしい。しかし、ルツは敢えて説明しなかった。
そうしているうちに、日は過ぎる。無限数の問いを抱えたまま、なす術もなく。
IF――鷹弘は考える。ルツとラグが出会っていなければ。
IF――史織は考える。ルツの予知がなかったら。
IF――そして、ラグは……。
◇◆◇
「連合に来ないか?」
幾度かの夜をともに過ごした後、ラグの方から切り出した。身支度をととのえていたルツはすぐには言葉の意味が分からず、首を傾げた。
「君さえよければ……銀河連合へ所属をかえないか? 史織と真織と、
「どういうこと?」
ラグはバーボンの入っていないコーヒーで唇を湿らせると、あらためて 《古老》 達と倫道教授の計画の詳細を説明した。内容を理解するにつれルツの眼はみひらかれ、黒曜石の瞳は輝いた。
「
「ドウエル教授は受け入れないでしょう、グリフィス(ターナー)も」
慎重にささやくルツに、ラグは頷いた。
「これまで続けて来た研究のやり方を、根底から否定されるわけだからな。それだけでなく……ラウル政府が承認すれば、君たちは処罰されるかもしれない」
「かまわないわ」
ルツは即答し、祈るように眼を閉じた。長い睫毛がふるえていることに、ラグは気づいた。
「そんなことはいいの。ヒトなら許されるはずのないことを、してきたのだから……。あの子たち、認めて貰えると思う?」
「
「そうね」
ルツは呟き、瞼を開けた。潤んだような宵闇色の眸を見詰めながら、どうしてこんなに悲しそうなんだろう、とラグは考えた。希望の話をしているはずなのに。
ラグは藍色の艶をまとう彼女の黒髪に触れると、しっとりとした髪のひと房を手に巻き、唇におしあてた。ルツはされるに任せている。寂しげな横顔に、ラグは囁いた。
「真織たちだけを連れていけない。君も一緒に来てほしい」
「ありがとう。でも、考えさせて」
ルツは、唇の端だけを小さく吊り上げる少女めいた微笑をかえした。ラグは黙って頷いた。
◇◆
その日。
ラグは 《
鷹弘とウィルは 《
そういうわけで、彼女は月の宇宙港に残ることになったのだが、そうなった経緯について、ルツは考えずにいられなかった。
「ええと」
展望デッキに彼女を置いて 《ボイジャー》 に戻ろうとしたラグは、わざとらしく足を止めた。清楚な花びらのようなラベンダー色の服を着た彼女の姿に、言葉を失う。今更のように、軍服を着た自分とは酷く不釣合いに思えたのだ。
ルツは面を上げたが、彼の方は彼女から視線を逸らした。
「ルツ」
「なあに?」
(もう時間がない)ルツは迷っていた。彼の気持ちを彼女は充分知っていたのだが――解っていて、
(私は、何をしようとしているの……)心のどこかで在り得ないと知りつつ、それでも期待を繰り返す。ルツは眼を閉じ、自分の呼吸音を聴いた。
一方、ラグには彼女の迷いを知る術はなかった。言葉を探して躊躇い、これでは
「この前は、言い方を間違えた」
ルツが瞼をもち上げる。夜空を宿す漆黒の瞳をみつめ、ラグはひそかに呼吸をとめた。ありったけの勇気を動員する。
「俺と来てほしい」
「…………」
「真織たちのためでなく……俺のために。一緒に
ルツは彼の言葉を聴いていられなかった。しなやかな両の
「ルツ?」
(どうして)声にならない問いは、とうに疲れ果てていた心を切り裂いた。痛みに涙があふれだす。(何故、出会ってしまったの……)
思考の表面を覆っていた灰色の不安がぽろぽろと剥がれ落ち、最後のささやかな望みが現れた。
死ぬことは恐ろしい。生きていたい。――それは当然のこと。生物であれば。
失うことは恐ろしい。別れると知っている相手に、心を懸けることは。――それは、己の弱さを知っているから。傷ついて、それでも生き続ける自信がないから。
しかし。
生きていたい、一緒に。ただ、愛しているから……。
「あの子たちを、お願い」
ひとときの甘美な口づけの後に聞いたルツの言葉を、ラグは承諾とうけとった。ルツは無防備な彼の頭を抱きかかえ、脳の中心に
《
ルツは立って身を翻し、《ボイジャー》 号のエアチューブへと走った。通路を抜け、二か所の扉を通り、船へ入る。既に設定されていた通り、メイン・ドアが閉じると 《ボイジャー》 号は滑走路へ向かって動き出した。
ルツは
数分後、意識を取り戻したラグは、頭を抱えて呻き声をあげた。(いったい、何があった……?) グラグラする眩暈をこらえてルツを捜し、展望窓から見慣れた船影をみつけると、息を呑んだ。
突然、ラグは目に見えない力に弾かれて特殊ガラスに背中をぶつけた。ふいを
「史織、やめろ!」
ルツがしようとしていることを察して、ラグは叫んだ。念動力(PK)が
言ったのでは通じない。――再び床に落とされながら、ラグは相手を説得しようと試みた。
《やめろ、史織。ルツでは駄目だ……俺が行かないと、全てが台無しになる。史織!》
相手は彼を床に押さえつけるのをやめようとしない。頑迷さに喘ぎ、ラグは唸った。
《やめろって……。俺に構っている場合じゃない。止めるんだ、早く! 古老は足りない――三人でも、ぎりぎりなんだ。このままでは、親父とウィルが危ない》
史織の応えはない。
ラグの声はかすれ、血を吐くような叫びに変わった。
「ルツもだ。彼女を殺す気か、史織。やめさせるんだ、早く! ……ウィル!」
*
「ヨーハン博士?」
《ボイジャー》 号のコクピットに
「何故、貴女がここに? ラグは?」
「お願いです、グレーヴス」
ルツは近づく彼を両手でおしとどめた。泣きぬれた黒い瞳を目にして、《古老》 の
ルツは嗚咽を呑んで囁いた。
「私の話を聴いて下さい。どうか、この計画を中止して」
いぶかしむ彼に、ルツは途切れ途切れに話した。己の予知を……彼等の未来を。自分とラグの運命を。
真顔で聴いていたモリス・グレーヴスの眉間に皺が刻まれ、口元が苦々しく歪んだ。ラグと同じ鮮やかな碧眼に、彼女は繰り返した。
「お願いです。中止して下さい。このままでは……」
「駄目だ」
スペース・スーツの胸に当てがわれていた彼女の手をそっと離させ、モリスは濁った声で囁いた。ルツの切れ長の眼が、さらにみひらかれる。
モリスは幼子に諭すように言った。
「ウィルは始めている。貴女の予知が正確なら、ここで我々が行かなければ、彼が壊れる」
「…………」
「君は降りなさい」
モリスは愕然とする彼女の肩を掴み、穏やかにゆすった。
「警告をありがとう。しかし、ここで止めるわけにはいかない。……君が我々と運命を共にする必要はない。博士、さあ」
「いいえ、グレーヴス」
ルツは凍りついた表情で彼を見詰めていたが、はっきり首を横に振った。頬を伝わる涙の熱を感じながら、
「私が降りれば、史織は彼を止めるのをやめてしまいます」
モリスの頬が苦痛に歪み、ルツは頷いた。そう、ラグが仲間達を見捨てるはずはない。
モリス・グレーヴスは溜め息をついた。――こうなるのか、と思う。未だに終わらないのだ、自分達は。残される仲間のことを思い、その行く末に思いをはせた。
もはや観ることが叶わなくなった未来に。
ルツは彼に縋りついた。泣き崩れる彼女を、彼は抱きとめる。ラグと同じ温かい胸だった。
「すまない」
低い声に、ルツは何度も首を横に振った。
「ごめんなさい……」
呟いて、ルツは彼の胸に顔を埋めた。折れそうに細い肩を、モリスは抱きしめる。
ルツはうわ言のように繰り返した。もう届かない、伝えられない彼に。
(ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……)
判っていたのだ。『彼は私を殺す』――他ならぬ彼への想いが、自分にこの方法を選択させると。
二人の未来などないと知っていて、ラグを愛した。愛されたいと望んだことを、今は謝るしか出来なかった。彼に届くはずがないと知っていて。
「ごめんなさい」
「ルツ」
モリスが代わりに抱きしめる。髪を撫でる手の温もりが、また彼女に涙を流させた。
モリス・グレーヴスはスクリーンに映る赤い月を見据えた。その眼差しは遠く、静穏だった。
リニア・システムを使って離陸した 《ボイジャー》 号が一筋の光の軌跡になると、途端に史織の妨害が止まった。
ラグは唇を切っていたが、よろめきながら立ち、展望窓の特殊ガラスに両手を当てた。
見えるような気がした。
緑萌ゆ森にたたずむ、若き 《古老》 の姿が……。
*
「うぃる?」
ドームの天井を仰ぐウィルの髪が人工の風にあおられて翻り、銀色に染まる。瞳が明るい新緑を宿し、ラグと同じ軍服を着た細い身体が青白い光にふちどられる。彼の腕に抱き上げられた幼い少女は、その姿に目を
ウィルは優しく微笑み、彼女の瑠璃色の髪を撫でた。子守歌のごとく、
「だいじょうぶ。こわいことはないからね」
「うん」
彼等の小さな
ウィルの視線の先に、しかし、仲間の姿はなく――
「…………?」
気付いたウィルは眉をひそめ、それから息を呑んだ。少女を抱く腕に力をこめ、咄嗟に防護壁を築く。
《VENA》 は生れて初めて迫る身の危険に、蒼い眼をみひらいた。幼子が母に助けを求める無邪気さで……。
人工羊水の中で、史織は、みしり、と空間の軋む音を聴いたように思った。
そして。甲高い悲鳴が、辺りに木霊する。
◇
ラグの視線の先で、一瞬、《レッド・ムーン》 が純白に輝いた。特殊ガラスに掌を押し当てて立ち尽くす彼の頬を、黄金の光が照らす。音のない宇宙空間に、声にならない悲鳴が響いた。
どこかで警報が鳴り始める。
「…………」
ラグは特殊ガラスに背をあずけた。眼を閉じて項垂れ、それから天を仰ぐ。あの光の意味することを、誰よりも彼はよく知っていた。そこに置き去りにされた、己の心さえ。
《史織。これで満足か?》
テレパシーは応えない。彼も茫然としているのだろう。口の中に溜まった血を飲み下し、ラグはもう一度呼んだ。
《史織》
《……ルツが望んだことだ》
ややあって、応えた彼の声は今にも消え入りそうだった。弱々しく繰り返す。
《彼女が望んだんだ》
(ああ、そうだろうな)ラグは足元を見下ろした。おそらく判っていたのだろう、彼女には。もしかしたら、最初から。
それでも、彼は言わずにいられなかった。事実を噛み締めることしか出来ない。
《俺達は、彼女を失ったんだ……》
史織は応えない。こたえられないのだろう。彼のせいではない、とは思う。
それでも……。
一緒に生きたかったと、言わずにいられなかった。失ったのだ、俺達は。あの優しい女性を……。
ラグはガラスにもたれたまま、ずるずると滑り落ちて床に座った。投げ出した己の足を他人のもののように眺める。銀髪が、決して解けない呪いの鎖のごとく肩にこぼれた。
周囲が騒がしくなる。爆発事故に気づいた銀河連合軍が、《レッド・ムーン》 に救援を派遣しようとしている。しかし、ラグは動けなかった。
行かなければならない。生きている人間がいる。仲間達が……。
彼は、動けなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます