Part.5 Ataxie Optique: The reason why you never touch her.(4)


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 ルツにとって恐怖と背中あわせの十日間は、またたく間に過ぎた。

 モリスとラグと鷹弘とミッキーは、月と 《REDレッド・ MOONムーン》 を何度か往復して準備を進めた。倫道りんどう教授とクラーク・ドウエル教授は、彼等の計画を了承していた。銀河連合も。

 ルツは、史織シオ真織マオをふくむ実験動物達の世話に専念した。グリフィス・ターナーとは口をききたくないので、顔を合わせることを避けている。

 ラグは彼女の気持ちを思い遣り、ターナーと話をつけようかと申し出たが、ルツが止めた(ターナーがまともに話を聴くはずはなく、そんなことをすれば確実に彼等の邪魔をするだろう)。鷹弘は、《VOYAGERボイジャー》 号に来るのを遠慮している。

 史織はあの日から、ルツにあまり話し掛けなくなった。彼女とラグの関係に戸惑っているらしい。しかし、ルツは敢えて説明しなかった。

 そうしているうちに、日は過ぎる。無限数の問いを抱えたまま、なす術もなく。


 IFもし――そう、ルツは自問する。《古老》 達がVENAプロジェクトを止めていたら。

 IF――鷹弘は考える。ルツとラグが出会っていなければ。

 IF――史織は考える。ルツの予知がなかったら。

 IF――そして、ラグは……。



         ◇◆◇



「連合に来ないか?」


 幾度かの夜をともに過ごした後、ラグの方から切り出した。身支度をととのえていたルツはすぐには言葉の意味が分からず、首を傾げた。


「君さえよければ……銀河連合へ所属をかえないか? 史織と真織と、LENAレナ-56もいっしょに」

「どういうこと?」


 ラグはバーボンの入っていないコーヒーで唇を湿らせると、あらためて 《古老》 達と倫道教授の計画の詳細を説明した。内容を理解するにつれルツの眼はみひらかれ、黒曜石の瞳は輝いた。しろい頬に血の色が透けるさまを美しいと思いながら、ラグは続けた。


宇宙船ふねが出来るまで数年かかるから、待ってもらわないといけないが。現在いまの待遇は変えられる、と思う」

「ドウエル教授は受け入れないでしょう、グリフィス(ターナー)も」


 慎重にささやくルツに、ラグは頷いた。


「これまで続けて来た研究のやり方を、根底から否定されるわけだからな。それだけでなく……ラウル政府が承認すれば、君たちは処罰されるかもしれない」

「かまわないわ」


 ルツは即答し、祈るように眼を閉じた。長い睫毛がふるえていることに、ラグは気づいた。


「そんなことはいいの。ヒトなら許されるはずのないことを、してきたのだから……。あの子たち、認めて貰えると思う?」

合成生物キメラは難しいかもしれないが、望めば成長に合わせた義体を造ってやれるだろう。レナは 《VENA》 と変わらないんだ。認められれば、人として医療を受けられる。脳のコンピューターを外し、組織を再生させ、リハビリテーションを行う。……その時、彼女には君が必要だろう?」

「そうね」


 ルツは呟き、瞼を開けた。潤んだような宵闇色の眸を見詰めながら、どうしてこんなに悲しそうなんだろう、とラグは考えた。希望の話をしているはずなのに。

 ラグは藍色の艶をまとう彼女の黒髪に触れると、しっとりとした髪のひと房を手に巻き、唇におしあてた。ルツはされるに任せている。寂しげな横顔に、ラグは囁いた。


「真織たちだけを連れていけない。君も一緒に来てほしい」

「ありがとう。でも、考えさせて」


 ルツは、唇の端だけを小さく吊り上げる少女めいた微笑をかえした。ラグは黙って頷いた。


          ◇◆


 その日。

 ラグは 《VOYAGERボイジャー》 号の離陸と航路の設定を済ませると、父に任せ、ルツとともに一度船を降りた。銀河連合軍の任務のつもりなのだろう。珍しく、ラグは軍服を着ていた。ルツと初対面の時の、あの銀と青のスペース・スーツだ。

 鷹弘とウィルは 《REDレッド・ MOONムーン》 で待機しているはずだった。ルツは結局、今度の作戦ミッションに参加しないことになった。《SHIOシオ》 と 《MAOマオ》 に近い彼女は、いつかのように彼等に呑まれてしまわないかと、モリスが心配したのだ。ラグも同意見だった。

 そういうわけで、彼女は月の宇宙港に残ることになったのだが、そうなった経緯について、ルツは考えずにいられなかった。


「ええと」


 展望デッキに彼女を置いて 《ボイジャー》 に戻ろうとしたラグは、わざとらしく足を止めた。清楚な花びらのようなラベンダー色の服を着た彼女の姿に、言葉を失う。今更のように、軍服を着た自分とは酷く不釣合いに思えたのだ。

 ルツは面を上げたが、彼の方は彼女から視線を逸らした。


「ルツ」

「なあに?」


(もう時間がない)ルツは迷っていた。彼の気持ちを彼女は充分知っていたのだが――解っていて、ひるんでいた。

(私は、何をしようとしているの……)心のどこかで在り得ないと知りつつ、それでも期待を繰り返す。ルツは眼を閉じ、自分の呼吸音を聴いた。

 一方、ラグには彼女の迷いを知る術はなかった。言葉を探して躊躇い、これではらちがあかないと思い立つ。


「この前は、言い方を間違えた」


 ルツが瞼をもち上げる。夜空を宿す漆黒の瞳をみつめ、ラグはひそかに呼吸をとめた。ありったけの勇気を動員する。


「俺と来てほしい」

「…………」

「真織たちのためでなく……俺のために。一緒に宇宙船ふねに乗ってくれないか、ルツ」


 ルツは彼の言葉を聴いていられなかった。しなやかな両のかいなを伸ばし、彼の首にまきつける。驚いている若葉色の眸を間近に見ながら、唇を重ねた。


「ルツ?」


(どうして)声にならない問いは、とうに疲れ果てていた心を切り裂いた。痛みに涙があふれだす。(何故、出会ってしまったの……)

 思考の表面を覆っていた灰色の不安がぽろぽろと剥がれ落ち、最後のささやかな望みが現れた。


 死ぬことは恐ろしい。生きていたい。――それは当然のこと。生物であれば。

 失うことは恐ろしい。別れると知っている相手に、心を懸けることは。――それは、己の弱さを知っているから。傷ついて、それでも生き続ける自信がないから。

 しかし。

 生きていたい、一緒に。ただ、愛しているから……。


「あの子たちを、お願い」


 ひとときの甘美な口づけの後に聞いたルツの言葉を、ラグは承諾とうけとった。ルツは無防備な彼の頭を抱きかかえ、脳の中心に能力ちからを集めた。力をうしなう大柄な男の身体を支えきれず、その場に座りこむ。膝に置いた彼の頬を愛おしむように撫でてから、床に下ろした。


史織シオ、お願い》


 ルツは立って身を翻し、《ボイジャー》 号のエアチューブへと走った。通路を抜け、二か所の扉を通り、船へ入る。既に設定されていた通り、メイン・ドアが閉じると 《ボイジャー》 号は滑走路へ向かって動き出した。

 ルツはくずおれ、顔をおおって啜り泣きはじめた。



 数分後、意識を取り戻したラグは、頭を抱えて呻き声をあげた。(いったい、何があった……?) グラグラする眩暈をこらえてルツを捜し、展望窓から見慣れた船影をみつけると、息を呑んだ。

 突然、ラグは目に見えない力に弾かれて特殊ガラスに背中をぶつけた。ふいをかれて呼吸が止まる。痛みに顔をしかめ、身構えるより早く、今度は肩から床に叩きつけられた。


「史織、やめろ!」 


 ルツがしようとしていることを察して、ラグは叫んだ。念動力(PK)がしたたかに顎を殴る。サングラスが飛び、口の中に血の味がひろがった。

 言ったのでは通じない。――再び床に落とされながら、ラグは相手を説得しようと試みた。


《やめろ、史織。ルツでは駄目だ……俺が行かないと、全てが台無しになる。史織!》


 相手は彼を床に押さえつけるのをやめようとしない。頑迷さに喘ぎ、ラグは唸った。


《やめろって……。俺に構っている場合じゃない。止めるんだ、早く! 古老は足りない――三人でも、ぎりぎりなんだ。このままでは、親父とウィルが危ない》


 史織の応えはない。

 ラグの声はかすれ、血を吐くような叫びに変わった。


「ルツもだ。彼女を殺す気か、史織。やめさせるんだ、早く! ……ウィル!」


          *


「ヨーハン博士?」

 《ボイジャー》 号のコクピットに悄然しょうぜんと現れたルツをみて、モリス・グレーヴスは首を傾げた。パイロット・シートから立って彼女を迎える。


「何故、貴女がここに? ラグは?」

「お願いです、グレーヴス」


 ルツは近づく彼を両手でおしとどめた。泣きぬれた黒い瞳を目にして、《古老》 のおさはかるく眼を瞬いた。

 ルツは嗚咽を呑んで囁いた。


「私の話を聴いて下さい。どうか、この計画を中止して」


 いぶかしむ彼に、ルツは途切れ途切れに話した。己の予知を……彼等の未来を。自分とラグの運命を。

 真顔で聴いていたモリス・グレーヴスの眉間に皺が刻まれ、口元が苦々しく歪んだ。ラグと同じ鮮やかな碧眼に、彼女は繰り返した。


「お願いです。中止して下さい。このままでは……」

「駄目だ」


 スペース・スーツの胸に当てがわれていた彼女の手をそっと離させ、モリスは濁った声で囁いた。ルツの切れ長の眼が、さらにみひらかれる。

 モリスは幼子に諭すように言った。


「ウィルは始めている。貴女の予知が正確なら、ここで我々が行かなければ、彼が壊れる」

「…………」

「君は降りなさい」


 モリスは愕然とする彼女の肩を掴み、穏やかにゆすった。


「警告をありがとう。しかし、ここで止めるわけにはいかない。……君が我々と運命を共にする必要はない。博士、さあ」

「いいえ、グレーヴス」


 ルツは凍りついた表情で彼を見詰めていたが、はっきり首を横に振った。頬を伝わる涙の熱を感じながら、


「私が降りれば、史織は彼を止めるのをやめてしまいます」


 モリスの頬が苦痛に歪み、ルツは頷いた。そう、ラグが仲間達を見捨てるはずはない。

 モリス・グレーヴスは溜め息をついた。――こうなるのか、と思う。未だに終わらないのだ、自分達は。残される仲間のことを思い、その行く末に思いをはせた。

 もはや観ることが叶わなくなった未来に。

 ルツは彼に縋りついた。泣き崩れる彼女を、彼は抱きとめる。ラグと同じ温かい胸だった。


「すまない」

 低い声に、ルツは何度も首を横に振った。

「ごめんなさい……」


 呟いて、ルツは彼の胸に顔を埋めた。折れそうに細い肩を、モリスは抱きしめる。

 ルツはうわ言のように繰り返した。もう届かない、伝えられない彼に。

(ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……)

 判っていたのだ。『彼は私を殺す』――他ならぬ彼への想いが、自分にこの方法を選択させると。

 二人の未来などないと知っていて、ラグを愛した。愛されたいと望んだことを、今は謝るしか出来なかった。彼に届くはずがないと知っていて。


「ごめんなさい」

「ルツ」


 モリスが代わりに抱きしめる。髪を撫でる手の温もりが、また彼女に涙を流させた。

 モリス・グレーヴスはスクリーンに映る赤い月を見据えた。その眼差しは遠く、静穏だった。



 リニア・システムを使って離陸した 《ボイジャー》 号が一筋の光の軌跡になると、途端に史織の妨害が止まった。

 ラグは唇を切っていたが、よろめきながら立ち、展望窓の特殊ガラスに両手を当てた。

 見えるような気がした。

 緑萌ゆ森にたたずむ、若き 《古老》 の姿が……。


          *


「うぃる?」

 ドームの天井を仰ぐウィルの髪が人工の風にあおられて翻り、銀色に染まる。瞳が明るい新緑を宿し、ラグと同じ軍服を着た細い身体が青白い光にふちどられる。彼の腕に抱き上げられた幼い少女は、その姿に目をみはった。

 ウィルは優しく微笑み、彼女の瑠璃色の髪を撫でた。子守歌のごとく、


「だいじょうぶ。こわいことはないからね」

「うん」


 彼等の小さな貴婦人レイディは、にっこりと微笑んだ。

 ウィルの視線の先に、しかし、仲間の姿はなく――


「…………?」


 気付いたウィルは眉をひそめ、それから息を呑んだ。少女を抱く腕に力をこめ、咄嗟に防護壁を築く。

 《VENA》 は生れて初めて迫る身の危険に、蒼い眼をみひらいた。幼子が母に助けを求める無邪気さで……。


 人工羊水の中で、史織は、みしり、と空間の軋む音を聴いたように思った。



 そして。甲高い悲鳴が、辺りに木霊する。



          ◇


 ラグの視線の先で、一瞬、《レッド・ムーン》 が純白に輝いた。特殊ガラスに掌を押し当てて立ち尽くす彼の頬を、黄金の光が照らす。音のない宇宙空間に、声にならない悲鳴が響いた。

 どこかで警報が鳴り始める。


「…………」


 ラグは特殊ガラスに背をあずけた。眼を閉じて項垂れ、それから天を仰ぐ。あの光の意味することを、誰よりも彼はよく知っていた。そこに置き去りにされた、己の心さえ。


《史織。これで満足か?》


 テレパシーは応えない。彼も茫然としているのだろう。口の中に溜まった血を飲み下し、ラグはもう一度呼んだ。


《史織》

《……ルツが望んだことだ》


 ややあって、応えた彼の声は今にも消え入りそうだった。弱々しく繰り返す。


《彼女が望んだんだ》


(ああ、そうだろうな)ラグは足元を見下ろした。おそらく判っていたのだろう、彼女には。もしかしたら、最初から。

 それでも、彼は言わずにいられなかった。事実を噛み締めることしか出来ない。


《俺達は、彼女を失ったんだ……》


 史織は応えない。こたえられないのだろう。彼のせいではない、とは思う。

 それでも……。

 一緒に生きたかったと、言わずにいられなかった。失ったのだ、俺達は。あの優しい女性を……。


 ラグはガラスにもたれたまま、ずるずると滑り落ちて床に座った。投げ出した己の足を他人のもののように眺める。銀髪が、決して解けない呪いの鎖のごとく肩にこぼれた。

 周囲が騒がしくなる。爆発事故に気づいた銀河連合軍が、《レッド・ムーン》 に救援を派遣しようとしている。しかし、ラグは動けなかった。

 行かなければならない。生きている人間がいる。仲間達が……。


 彼は、動けなかった。






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