Part.2 Monday Morning Robots(3)


           3


「おはよう、リサ」


 翌朝。例によって少し寝坊したわたしが厨房に行くと、マーサさんに手伝いはいいから食事を済ませるよう言われた。

 恐縮しながらトレイを手に献立をそろえていると、イリスが声をかけてきた。振り向くと、ふわふわ巻いた若草色の髪と勝気なスミレ色の瞳が目を射た。


「おはよう、イリス」

「今日から、よろしくね」

「こちらこそ」


 黒のセーターにブルー・ジーンズ。飾り気のない服装だけれど、ラウル星人の血を引く彼女には、その髪と瞳が最高のアクセサリーだ。


 銀河連合の宇宙飛行士アストロノウツ訓練校の学生であるイリスは、わたしと同じ歳。今日から同期生になる。彼女は通信工学科でわたしは宇宙生物学科だけれど、専門科目以外は同じ授業を受ける。兄妹の中でもミッキーを大好きなイリスとわたしは、この一ヶ月ですっかり意気投合して、名前で呼び合う仲になっていた。

 でも、今朝の彼女の関心は別のところにあった。カウンターからサラダを取って自分のトレイに載せ、好奇心たっぷりに訊いた。


「ねえ、リサ。うちにグレーヴス少佐が泊まっているって、本当?」

「ええ。本当よ」


 彼女は昨日バスケットボールの試合観戦に出かけていて、あの騒ぎを知らないのよね。

 わたしはパンを選び、食堂の中をぐるっと見渡した。今朝はまだラグを見かけていない。ミッキーも。


「仕事でしばらく月にいるんですって。昨夜だけうちに泊まって、今日からはセンターに居るそうよ。もう行っちゃったのかな?」

「会えないかなあ。あたし、サインもらわなくっちゃ」


 わたしは思わず笑った。

 そうか……普通、ラグに会えるというのはそれくらいのことなのだ。出会うまでは大変な思いをしたけれど、彼があまりに気さくだから、わたしもミッキーも『タイタンの英雄』を特別なひとだと思えなくなっていた。(ミッキーなんて、憎まれ口を叩いちゃうし。)

 イリスはわたしの顔を見詰めて声をひそめた。


「ねえ。リサは、いつかグレーヴス少佐と一緒に行くの? 宇宙軍へ」

「え、どうして?」

「ミック(ミッキーのこと)がそう言っていたもの」


 イリスは、きらきら輝く紫水晶の瞳をくるりと動かした。


「リサは亡くなったお父さんの跡を継いで、研究者になるんだって。お父さんがしていた仕事って、今はグレーヴス少佐がしているんでしょう?」

「あ、うん」

「なら、いつかは少佐と一緒に行くんじゃあないの?」


 彼女はテーブルを選ぶと、トレイを置いて言った。ええっと――なんて言えばいいのかな? 《VENA》 のことは秘密だし、どこまで話していいものか……。

 わたしが答えに窮していると、イリスは悪戯っぽく笑った。


「それとも、ミックと結婚して、ずっとここにいてくれる?」

「なっ」

「あたしはその方が嬉しいけどー」


 頬がかあっと熱くなった。絶句するわたしを見て、イリスは、けらけらと笑った。


「リサったら、すぐ顔に出る」

「やだ……からかわないでよ」

「だって、面白いんだもん。リサとミックって」


 わたしが腰を下ろすのを待って、イリスはパンを口へ運び、ふふふ、と含み笑いをした。


「楽しみだわ。とも姉さんと賭けているの。リサとミックが上手くいくか、どうか」

「賭けているって」


 わたし、唖然。


「ひっどーい」

「あら。応援しているのよ、あたしは。頑張ってね。あたしの今月分のお小遣いが賭かっているんだから」

「お小遣いって」


 わたしは頬を膨らませた。


「ちょっとお、そんなものなの? 本人は一生懸命なのに、あんまりじゃない。だいたい、イリスって、ミッキーのことが好きじゃなかったの?」

「もちろん好きよ」

「だったらどうして――って……あれ?」


 ……わたし、何を話しているんだっけ?


 イリスはサラダをフォークで掻きまぜ、くすくす笑った。


「好きよ、今も。だから、リサに頑張ってもらいたいんじゃない」

「って……本当に上手くいったら、どうしてくれるのよ」

「自信があるの? だったら、お昼ご飯、おごるわ」

「お昼だけ?」

「お昼ご飯、一週間、おごる」

「その賭け――」

「…………!?」


 びっくりして、わたしは跳び上がり、イリスはサラダを頬張ったまま呼吸を止めた。

 笑いを含んだ深い声音に顔を上げると、ラグがわたし達を見下ろしていた。


「俺も、一口乗せてくれ」

「ラグ」

「グレーヴス……少佐?」

「どうした」


 にやにや笑ってわたし達を見比べる。彼は今朝はサングラスをしていなかった。切れ長の眼に黒い瞳が笑っている。ブラック・ジーンズに白いTシャツ、濃紺のシャツを羽織ったラグは、随分若く見えた。わたし達のテーブルの隣の椅子に腰を下ろすと、首の後ろで纏められた銀髪が広い肩を滑り落ちた。

 わたしとイリスは驚きの余り、しばらく言葉を発することが出来なかった。

 ラグはそんなわたし達には構わず、椅子の背にもたれて長い脚を組み、デジタル新聞を読み始めた。


「何だ?」


 わたし達が彼を観つづけたので、ラグはこちらを顧みた。怪訝そうに片方の眉を動かす。

 イリスは、ごくん、と唾を飲んだ。


「ホンモノの、グレーヴス少佐……ですよね?」

「……月には俺のニセモノがいるのか?」


 ぶんぶんぶん。

 首を横に振る彼女を、こんな反応を見慣れているのだろう、ラグは面白くもなさそうに眺めた。新聞はそのままで、わたし達の手元をひょいと顎で示す。


「喰わないのか? 遅刻するぞ」

「あ。はい」

「ラグこそ」

「俺は、もう喰った」


 あんな恥ずかしい会話を聴かれたと思うと赤面ものだったけれど、彼にからかうつもりはなさそうだった。新聞を読むのを止め、欠伸を噛み殺す。


「坊主が駅まで送ってくれると言うんで、待っているんだ。今日は一時限目から講義をしなきゃならん」

「そうなんですか」

「えっ?」


 わたしは食事を再開したけれど、イリスはぎょっとして背筋を伸ばした。改めてラグへ視線を戻す。


「今日の特別講義って、少佐なんですか?」

「ラグでいい。ついでだがな」

「ついでって――」

「他の仕事で呼ばれたんだが、『月にいるついでに、何か喋れ』ということらしい」

「…………」

「実を言うと、こいつの方が仕事より難しい」


 ラグは肩をすくめ、自嘲気味に唇を歪めた。


「お前らに合わせなきゃならないんだが、どの程度の話をすればいいのか、さっぱり判らない。自分の学生時代を考えても、講義なんぞろくに出なかったからな」


 ラグらしい……。わたしは、ちょっと笑った。食後のカフェ・オレを飲みながら。


「貴方が講義をすると聞いたら、きっと皆聴きに来ると思うわ」


 わたしの言葉に、ラグは、あからさまに嫌そうな表情をした。イリスが恐る恐る訊く。


「何の講義ですか?」

「宇宙物理学、総論」


 げっ、という風に彼女が顔をしかめたので、ラグは苦笑した。


「その様子だと、得意ではなさそうだな。シェルドン・グラショーの大統一理論は判るか?(注①)」

「…………」

「電弱統一理論は?(注②) アップ・クォークとダウン・クォークの違いは?(注③)」


 何? それ……。


 わたし達は顔を見合わせた。ラグの目から笑いが消えた。


「おい……まさかと思うが、量子物理学の基礎から説明しないといけないわけじゃなかろうな。超弦理論の証明実験や、ホーキングの虚数時間も知らないのか?(注④)」


 どうやら、その『まさか』らしいと気づいて、ラグは頭を抱えてしまった。長い指で前髪を掻き上げ、ぼさぼさになるのも構わず掻きむしる。

 わたしは思わず項垂れた。


「ごめんなさい」

「いや。別に、謝るようなことじゃないが。……参ったな」

「だって」


 ぼそぼそと、イリスも控えめに言った。


「量子物理学を知らなくっても、定期便シャトルに乗れば地球へも火星へも行けるし、通信も出来るもの」

「そうだろうな」


 苦笑い。ラグが口を開くと、白い牙のような歯が見えた。


「だが。そのシャトルを飛ばす俺達の方は、宇宙物理学を知らずに船を動かせないし、恒星間通信も出来ないんだぜ、お嬢さん」


 これは、前途多難だわ……。


「ラグ」


 わたしとイリスが途方に暮れていると、滑らかなテノールが聴こえた。

 紺のスーツを着たミッキーが、足早にやって来た。


「リサ、イリスもここに居たのか。駅まで送るから、仕度をしておいで。……どうしたんだ?」


 わたし達の表情を見て、ミッキーは首を傾げた。ラグが代わりに応える。


「お前の言う通りだったようだ、ミッキー」

「え?」


 ラグの口調は、いつもの、のほほんとしたものに戻っていた。悪戯っぽくわらって立ち上がる。


「俺達の常識が通用しない世代を相手にしないといけないらしい」

「……ああ」


 不思議そうな顔をしたミッキーは、彼の言葉の意味が判ったらしく、ゆるく苦笑した。


「おれ達のじゃなく、お前のだろう、ラグ。そろそろ行こう。相対性理論から説明した方がいいと思うよ」



          *



 宇宙飛行士アストロノウツ訓練校に行く以上、全員がアストロノウツにならなければならない、というわけではないけれど、宇宙で仕事をする為に必要な知識は修めなければならない。

 地球以外の惑星の生物や、宇宙に出た地球の生物のことを研究する宇宙生物学が、わたしの専攻。例えば、ドーム都市や宇宙船の環境が人体に及ぼす影響について勉強する際、宇宙物理学は避けては通れないモノなのよね。

 将来、銀河連合の第三軍――移民船を出したり、後方支援として食糧や通信を司る――に配属が決まってるイリスも、宇宙空間に対する知識を欠かすわけにはいかない。

 この先の難渋さを感じて、わたしとイリスはすっかり気落ちしてしまった。一方、前線を離れているミッキーには新鮮だったらしい。


 でも。

 しかし。

 だからと言って。


 ラグとわたしとイリスを、ダイアナ・ステーションへ送ってくれる間――ミッキーとラグが、ずうっと相対性理論について話しているのって、あんまりだと思わない?

 そりゃあ、ミッキーは卒業生だし、宇宙工学部出身で物理も得意なんだろうけど。二人とも好意でわたし達に教えてくれているんだろうけど。

 でもね……ヒトには向き不向きがあってね。そして、どう考えても、わたしとイリスは物理に向いていないのよっ。


「どうしても判らなかったら、質問に来い」


 通勤のサラリーマンでごったがえす駅の改札で、心配そうな(何を心配しているのやら……)ミッキーと対照的に、ラグは笑いを噛み殺していた。


「俺も、最初の授業で落第者が出たら困るからな。要らない試験をしなきゃならなくなる」

「はあ」

「どうも」

「帰ったら、おれも教えてあげるよ」


 わたし達は、朝からすっかりしょげてしまった。ミッキーは、わざと声を弾ませた。


「ほら。元気出せよ、二人とも。判らなければこんなにつまらないモノはないだろうけど、理解できるようになれば、物理ほど面白いモノはないよ」

「悪いけど、遠慮するわ」


 そんな彼を冷たい半眼で眺め、イリスはぶすっと言った。


「学校で教わるのさえ苦痛なのに。家に帰って先生みたいなミックに教わるんじゃ、たまったものじゃないもの」

「それはないだろう? イリス」


 くっくっくっ……ラグは遂に笑い出した。サングラスを掛け直し、肩を震わせる。

 ロボットみたいな表情で急ぐ通勤の人々の間にいて、わたし達は異質だったかもしれない。リニア・トレインが到着し、ホームから乗客が溢れて来た。ミッキーは肩をすくめた。


「ほら、時間だ。遅れるよ」

「ミッキー、送ってくれてありがとう。また連絡する」

「ああ。リサ、イリスも、気をつけて」

「ええ」

「行って来ます」


 ラグの後について改札を抜けるわたし達に、ミッキーは、片手を挙げてこう言った。


「帰りに電話してくれたら、迎えに来るよ」

 と。


 しかし、この約束が果たされることは、なかったのだ。







―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注①)シェルドン・グラショーの大統一理論: 「自然界は四つの基本的な力(電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用、重力)で表される」として、重力を除いた前者三つを一つの形に統一して表す理論。

(注②)電弱統一理論: ワインバーグ・サラム理論とも。弱い相互作用と電磁相互作用を統一して扱う理論。

 シェルドン・グラショーと、スティーヴン・ワインバーグ、モハメド・アブドゥッサラームの三人は、①②の理論によって1979年にノーベル物理学賞を受賞しています。(つまり、ラグはかなり有名な話を例に挙げたわけです……。)


(注③)アップ・クォークとダウン・クォーク: ハドロンを構成する素粒子のグループ。6種類(フレーバーと呼ばれる)存在し、第一世代のアップ、ダウン、第二世代のチャーム、ストレンジ、および第三世代のトップ、ボトムがある。各世代は、電荷が正のものと負のもので対を作る。アップおよびダウンクォークは安定で、宇宙の中で最も多く存在するクォーク。例えばハドロンである陽子は二つのアップ・クォークと一つのダウン・クォークで構成されている。


(注④)超弦理論の証明実験: 前述の大統一理論に関連し、重力まで統一して考える理論。その証明実験は2020年時点では行われていません(膨大なエネルギーを必要とするため)。


 ホーキングの虚数時間: ホーキングは「量子論を加味すると、宇宙の始まりはなくなり、時間も虚数になる」という「虚時間の宇宙論」を提唱しました。時間が虚数になると、通常の時計では計ることができなくなり、「時間の経過」という概念がなくなる。だから、宇宙の始まりもなくなってしまうという考え。


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