Part.2 Monday Morning Robots(3)
3
「おはよう、リサ」
翌朝。例によって少し寝坊したわたしが厨房に行くと、マーサさんに手伝いはいいから食事を済ませるよう言われた。
恐縮しながらトレイを手に献立をそろえていると、イリスが声をかけてきた。振り向くと、ふわふわ巻いた若草色の髪と勝気なスミレ色の瞳が目を射た。
「おはよう、イリス」
「今日から、よろしくね」
「こちらこそ」
黒のセーターにブルー・ジーンズ。飾り気のない服装だけれど、ラウル星人の血を引く彼女には、その髪と瞳が最高のアクセサリーだ。
銀河連合の
でも、今朝の彼女の関心は別のところにあった。カウンターからサラダを取って自分のトレイに載せ、好奇心たっぷりに訊いた。
「ねえ、リサ。うちにグレーヴス少佐が泊まっているって、本当?」
「ええ。本当よ」
彼女は昨日バスケットボールの試合観戦に出かけていて、あの騒ぎを知らないのよね。
わたしはパンを選び、食堂の中をぐるっと見渡した。今朝はまだラグを見かけていない。ミッキーも。
「仕事でしばらく月にいるんですって。昨夜だけうちに泊まって、今日からはセンターに居るそうよ。もう行っちゃったのかな?」
「会えないかなあ。あたし、サインもらわなくっちゃ」
わたしは思わず笑った。
そうか……普通、ラグに会えるというのはそれくらいのことなのだ。出会うまでは大変な思いをしたけれど、彼があまりに気さくだから、わたしもミッキーも『タイタンの英雄』を特別なひとだと思えなくなっていた。(ミッキーなんて、憎まれ口を叩いちゃうし。)
イリスはわたしの顔を見詰めて声をひそめた。
「ねえ。リサは、いつかグレーヴス少佐と一緒に行くの? 宇宙軍へ」
「え、どうして?」
「ミック(ミッキーのこと)がそう言っていたもの」
イリスは、きらきら輝く紫水晶の瞳をくるりと動かした。
「リサは亡くなったお父さんの跡を継いで、研究者になるんだって。お父さんがしていた仕事って、今はグレーヴス少佐がしているんでしょう?」
「あ、うん」
「なら、いつかは少佐と一緒に行くんじゃあないの?」
彼女はテーブルを選ぶと、トレイを置いて言った。ええっと――なんて言えばいいのかな? 《VENA》 のことは秘密だし、どこまで話していいものか……。
わたしが答えに窮していると、イリスは悪戯っぽく笑った。
「それとも、ミックと結婚して、ずっとここにいてくれる?」
「なっ」
「あたしはその方が嬉しいけどー」
頬がかあっと熱くなった。絶句するわたしを見て、イリスは、けらけらと笑った。
「リサったら、すぐ顔に出る」
「やだ……からかわないでよ」
「だって、面白いんだもん。リサとミックって」
わたしが腰を下ろすのを待って、イリスはパンを口へ運び、ふふふ、と含み笑いをした。
「楽しみだわ。
「賭けているって」
わたし、唖然。
「ひっどーい」
「あら。応援しているのよ、あたしは。頑張ってね。あたしの今月分のお小遣いが賭かっているんだから」
「お小遣いって」
わたしは頬を膨らませた。
「ちょっとお、そんなものなの? 本人は一生懸命なのに、あんまりじゃない。だいたい、イリスって、ミッキーのことが好きじゃなかったの?」
「もちろん好きよ」
「だったらどうして――って……あれ?」
……わたし、何を話しているんだっけ?
イリスはサラダをフォークで掻きまぜ、くすくす笑った。
「好きよ、今も。だから、リサに頑張ってもらいたいんじゃない」
「って……本当に上手くいったら、どうしてくれるのよ」
「自信があるの? だったら、お昼ご飯、おごるわ」
「お昼だけ?」
「お昼ご飯、一週間、おごる」
「その賭け――」
「…………!?」
びっくりして、わたしは跳び上がり、イリスはサラダを頬張ったまま呼吸を止めた。
笑いを含んだ深い声音に顔を上げると、ラグがわたし達を見下ろしていた。
「俺も、一口乗せてくれ」
「ラグ」
「グレーヴス……少佐?」
「どうした」
にやにや笑ってわたし達を見比べる。彼は今朝はサングラスをしていなかった。切れ長の眼に黒い瞳が笑っている。ブラック・ジーンズに白いTシャツ、濃紺のシャツを羽織ったラグは、随分若く見えた。わたし達のテーブルの隣の椅子に腰を下ろすと、首の後ろで纏められた銀髪が広い肩を滑り落ちた。
わたしとイリスは驚きの余り、しばらく言葉を発することが出来なかった。
ラグはそんなわたし達には構わず、椅子の背にもたれて長い脚を組み、デジタル新聞を読み始めた。
「何だ?」
わたし達が彼を観つづけたので、ラグはこちらを顧みた。怪訝そうに片方の眉を動かす。
イリスは、ごくん、と唾を飲んだ。
「ホンモノの、グレーヴス少佐……ですよね?」
「……月には俺のニセモノがいるのか?」
ぶんぶんぶん。
首を横に振る彼女を、こんな反応を見慣れているのだろう、ラグは面白くもなさそうに眺めた。新聞はそのままで、わたし達の手元をひょいと顎で示す。
「喰わないのか? 遅刻するぞ」
「あ。はい」
「ラグこそ」
「俺は、もう喰った」
あんな恥ずかしい会話を聴かれたと思うと赤面ものだったけれど、彼にからかうつもりはなさそうだった。新聞を読むのを止め、欠伸を噛み殺す。
「坊主が駅まで送ってくれると言うんで、待っているんだ。今日は一時限目から講義をしなきゃならん」
「そうなんですか」
「えっ?」
わたしは食事を再開したけれど、イリスはぎょっとして背筋を伸ばした。改めてラグへ視線を戻す。
「今日の特別講義って、少佐なんですか?」
「ラグでいい。ついでだがな」
「ついでって――」
「他の仕事で呼ばれたんだが、『月にいるついでに、何か喋れ』ということらしい」
「…………」
「実を言うと、こいつの方が仕事より難しい」
ラグは肩をすくめ、自嘲気味に唇を歪めた。
「お前らに合わせなきゃならないんだが、どの程度の話をすればいいのか、さっぱり判らない。自分の学生時代を考えても、講義なんぞろくに出なかったからな」
ラグらしい……。わたしは、ちょっと笑った。食後のカフェ・オレを飲みながら。
「貴方が講義をすると聞いたら、きっと皆聴きに来ると思うわ」
わたしの言葉に、ラグは、あからさまに嫌そうな表情をした。イリスが恐る恐る訊く。
「何の講義ですか?」
「宇宙物理学、総論」
げっ、という風に彼女が顔をしかめたので、ラグは苦笑した。
「その様子だと、得意ではなさそうだな。シェルドン・グラショーの大統一理論は判るか?(注①)」
「…………」
「電弱統一理論は?(注②) アップ・クォークとダウン・クォークの違いは?(注③)」
何? それ……。
わたし達は顔を見合わせた。ラグの目から笑いが消えた。
「おい……まさかと思うが、量子物理学の基礎から説明しないといけないわけじゃなかろうな。超弦理論の証明実験や、ホーキングの虚数時間も知らないのか?(注④)」
どうやら、その『まさか』らしいと気づいて、ラグは頭を抱えてしまった。長い指で前髪を掻き上げ、ぼさぼさになるのも構わず掻きむしる。
わたしは思わず項垂れた。
「ごめんなさい」
「いや。別に、謝るようなことじゃないが。……参ったな」
「だって」
ぼそぼそと、イリスも控えめに言った。
「量子物理学を知らなくっても、
「そうだろうな」
苦笑い。ラグが口を開くと、白い牙のような歯が見えた。
「だが。そのシャトルを飛ばす俺達の方は、宇宙物理学を知らずに船を動かせないし、恒星間通信も出来ないんだぜ、お嬢さん」
これは、前途多難だわ……。
「ラグ」
わたしとイリスが途方に暮れていると、滑らかなテノールが聴こえた。
紺のスーツを着たミッキーが、足早にやって来た。
「リサ、イリスもここに居たのか。駅まで送るから、仕度をしておいで。……どうしたんだ?」
わたし達の表情を見て、ミッキーは首を傾げた。ラグが代わりに応える。
「お前の言う通りだったようだ、ミッキー」
「え?」
ラグの口調は、いつもの、のほほんとしたものに戻っていた。悪戯っぽく
「俺達の常識が通用しない世代を相手にしないといけないらしい」
「……ああ」
不思議そうな顔をしたミッキーは、彼の言葉の意味が判ったらしく、ゆるく苦笑した。
「おれ達のじゃなく、お前のだろう、ラグ。そろそろ行こう。相対性理論から説明した方がいいと思うよ」
*
地球以外の惑星の生物や、宇宙に出た地球の生物のことを研究する宇宙生物学が、わたしの専攻。例えば、ドーム都市や宇宙船の環境が人体に及ぼす影響について勉強する際、宇宙物理学は避けては通れないモノなのよね。
将来、銀河連合の第三軍――移民船を出したり、後方支援として食糧や通信を司る――に配属が決まってるイリスも、宇宙空間に対する知識を欠かすわけにはいかない。
この先の難渋さを感じて、わたしとイリスはすっかり気落ちしてしまった。一方、前線を離れているミッキーには新鮮だったらしい。
でも。
しかし。
だからと言って。
ラグとわたしとイリスを、ダイアナ・ステーションへ送ってくれる間――ミッキーとラグが、ずうっと相対性理論について話しているのって、あんまりだと思わない?
そりゃあ、ミッキーは卒業生だし、宇宙工学部出身で物理も得意なんだろうけど。二人とも好意でわたし達に教えてくれているんだろうけど。
でもね……ヒトには向き不向きがあってね。そして、どう考えても、わたしとイリスは物理に向いていないのよっ。
「どうしても判らなかったら、質問に来い」
通勤のサラリーマンでごったがえす駅の改札で、心配そうな(何を心配しているのやら……)ミッキーと対照的に、ラグは笑いを噛み殺していた。
「俺も、最初の授業で落第者が出たら困るからな。要らない試験をしなきゃならなくなる」
「はあ」
「どうも」
「帰ったら、おれも教えてあげるよ」
わたし達は、朝からすっかりしょげてしまった。ミッキーは、わざと声を弾ませた。
「ほら。元気出せよ、二人とも。判らなければこんなにつまらないモノはないだろうけど、理解できるようになれば、物理ほど面白いモノはないよ」
「悪いけど、遠慮するわ」
そんな彼を冷たい半眼で眺め、イリスはぶすっと言った。
「学校で教わるのさえ苦痛なのに。家に帰って先生みたいなミックに教わるんじゃ、たまったものじゃないもの」
「それはないだろう? イリス」
くっくっくっ……ラグは遂に笑い出した。サングラスを掛け直し、肩を震わせる。
ロボットみたいな表情で急ぐ通勤の人々の間にいて、わたし達は異質だったかもしれない。リニア・トレインが到着し、ホームから乗客が溢れて来た。ミッキーは肩をすくめた。
「ほら、時間だ。遅れるよ」
「ミッキー、送ってくれてありがとう。また連絡する」
「ああ。リサ、イリスも、気をつけて」
「ええ」
「行って来ます」
ラグの後について改札を抜けるわたし達に、ミッキーは、片手を挙げてこう言った。
「帰りに電話してくれたら、迎えに来るよ」
と。
しかし、この約束が果たされることは、なかったのだ。
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(注①)シェルドン・グラショーの大統一理論: 「自然界は四つの基本的な力(電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用、重力)で表される」として、重力を除いた前者三つを一つの形に統一して表す理論。
(注②)電弱統一理論: ワインバーグ・サラム理論とも。弱い相互作用と電磁相互作用を統一して扱う理論。
シェルドン・グラショーと、スティーヴン・ワインバーグ、モハメド・アブドゥッサラームの三人は、①②の理論によって1979年にノーベル物理学賞を受賞しています。(つまり、ラグはかなり有名な話を例に挙げたわけです……。)
(注③)アップ・クォークとダウン・クォーク: ハドロンを構成する素粒子のグループ。6種類(フレーバーと呼ばれる)存在し、第一世代のアップ、ダウン、第二世代のチャーム、ストレンジ、および第三世代のトップ、ボトムがある。各世代は、電荷が正のものと負のもので対を作る。アップおよびダウンクォークは安定で、宇宙の中で最も多く存在するクォーク。例えばハドロンである陽子は二つのアップ・クォークと一つのダウン・クォークで構成されている。
(注④)超弦理論の証明実験: 前述の大統一理論に関連し、重力まで統一して考える理論。その証明実験は2020年時点では行われていません(膨大なエネルギーを必要とするため)。
ホーキングの虚数時間: ホーキングは「量子論を加味すると、宇宙の始まりはなくなり、時間も虚数になる」という「虚時間の宇宙論」を提唱しました。時間が虚数になると、通常の時計では計ることができなくなり、「時間の経過」という概念がなくなる。だから、宇宙の始まりもなくなってしまうという考え。
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