ENDING: Sunday Morning Jesters
ENDING: Sunday Morning Jesters(1)
1
それから二週間後の日曜日、わたし達は、《
わたしとミッキーを、ラグが 《
わたしは、初めてパパの研究所に入った。
ミッキーを捜しに行ったシンク・タンク No.42とは離れた所に、No.55はあった。他のどの研究所からも離れている。《レッド・ムーン》 の中でも、限られた人しか入ることを許されていない区域だ。
幾重にも続く扉をくぐり、ラグにもらったIDコードと虹彩認証による個人識別を経て、エア・カーテンの向こうの空間に足を踏み入れたわたしは、息を呑んで立ち止まった。
高い、青いドームの天井に、人工の太陽が輝いている。人工の雲さえ浮かんでいる、広い空間だ。ダイアナ市の幻想庭園を想い出す――あそこより明るく濃密な、ほんものの緑に包まれていた。先日立ち寄った
柔らかな地面には下草が生い茂り、シダや苔が壁を覆っている。そびえる木々は、ポプラやメタセコイア……イチョウなど、地球では絶滅に瀕している貴重な植物だ。その幹を登り枝を這う蔦は、新緑に萌えている。藤だろうか、互いに絡み合う木々もあった。
小鳥の声を聞きつけて辺りを見回すわたしの肩に、ミッキーがふわりと触れた。ラグはいつの間にか姿を消している。
「おれは先に行っているよ。話が終わったら、声をかけてくれ」
「あ、はい」
彼が指差した方向には、この空間を囲む回廊があった。数人の人影が上を歩いている。大きな窓ごしに働いている人々も観えた。やはり、研究所なんだわ……。
ミッキーはわたしに微笑みを残し、そちらへ歩いて行った。扉の横の階段をゆっくり上がって行く。
わたしの視界の隅を、小さな動物が横切った。
『月うさぎ』にいるようなウサギだった。ふわふわの茶色い毛並みが木漏れ日を浴びて輝いている。木の枝には、リスもいた。真っ白な羽根の蝶が数匹、ひらひらと目の前を渡っていく。
いったい、人工コロニーの内部にこれだけの空間を確保して、植物と動物を育てる努力は、どれほどのものだろう。莫大なお金と時間と、この環境を支える途方も無い努力を想像する。
ここは、《VENA》 のために作られた世界だった。彼女が産まれる前から準備をして、維持をして、銀河連合に管轄が移った今も守られている。
ただ、彼女のために……。
わたしは泣きたくなった。
ルネも、ここで育ったのだろうか。《VENA》 のために、彼の家族にも協力してもらった。それは愛情だと思えた。パパの……。
妬けるような感動を覚え、わたしは動けなくなった。
モンスターと言われようと、可哀想な
痛いほど、わたしの胸を刺した。
『お前と 《VENA》 は、姉妹だよ……』
パパの声が耳元で聞こえた気がして、わたしは笑った。眼元に浮かんだ涙を、掌でこする。……いやだ、恥ずかしい。こんなところをルネに見られなくて良かった。
にじむ視界に、彼女が現われた。
わたしの正面、木立の向こう。薔薇と蔦の葉に隠れた扉がある。ほんものの木の扉だ。彼女はいつの間にかそこに立っていた。
背は高かった。百六十センチメートルを越えるわたしより、まだ高い(ミッキーと同じくらいに見えた)。淡い緑色のワンピースを着ていて、素足に白いサンダルを履いている。印象的な長い髪は、鮮やかな青色だ。
変身を解いたルネの姿を思い出す。
彼女はこちらへ歩いて来た。仕草に合わせて長い髪と衣の裾がひるがえるさまは、森の精霊を思わせた。わたしは、天上から舞い降りた女神を迎えているような気持ちがした。彼女は、一メートルほどの距離を置いて、わたしの前に立ち止まった。
わたし達は、無言でみつめ合った。
《VENA》 は親しみやすい顔立ちをしていた。大きな眼はアーモンド形で、鼻はやや低く、東洋人っぽい雰囲気がある。肌は透けるように白く、美しく、同時に無邪気な可愛らしさも感じさせる。
言いたいことは沢山あった。でも、ここに立つと、ぜんぶ遠い昔の出来事に思えた。――どうでもいいことのように。
彼女の瞳は、月から観る地球のように懐かしく、優しかった。
彼女は、艶のある桃色の唇を動かして囁いた。
「……初めて会った気がしないわ」
低めの声は優しく、心地よく耳に響いた。ふふっと笑い、首を傾げてわたしの顔を覗きこむ。
「リサ。そう呼んでもいい? ルネから聴いているわ。ラグから、貴女とミッキーのことは」
「…………」
「パパから聴いていたの。貴女は、あたしの家族だって」
家族。パパ……。
わたしが涙ぐんだので、彼女は驚いて眼を瞠った。そうすると、瞳の表面に虹色の光が煌めく。ルネと同じだ。
「リサ、どうしたの? 何か、悲しいことがあった? あたし、いけないことを言ったかしら。貴女に」
「ううん、違うの。そうじゃないの……ごめんなさい」
わたしは慌てて眼をこすった。外見は大人でも、彼女の内面は少女なのだ。不安そうな表情が見る間にやわらぐ。――なるほど。ルネがぞっこんなのがよく分かる。
わたしは笑って答えた。
「嬉しくて涙が出たの。貴女にやっと逢えたから、嬉しいの」
「嬉しい? 本当? リサ」
「本当よ」
彼女はきらきらと瞳を輝かせ、わたしに近づいた。うっとりするような微笑を見せてくれる――天使もかくや、と言うほどの。そうして、額をわたしの額に押し当てた。
「あたしも嬉しいわ、リサ。ずっと貴女に逢いたかったの。小さな頃から。変かしら? 一度も逢ったことないのに」
「ううん、変じゃないわ。わたしも、パパに聞いてから、貴女に逢いたかったの。こんなに時間がかかるとは思っていなかったけれど」
《VENA》 はしなやかな両腕を広げ、わたしを抱きしめた。
それはきっと、彼女がわたしの分身だからだ。間近に見る彼女の顔は、記憶にあるママに似ていた。パパの顔にも、わたしにも。――ちょっとおこがましいかもしれない。
二人とも、パパに望まれて誕生し、愛されて育った。そのことが、わたし達を結び付けている。
彼女はここで、わたしは地球で。お互いに、お互いの夢をみてきたのだ。パパを通して。そして今は、ルネと、ラグを通して。
わたし達は微笑み合った。そうして、しばらくそこに佇んでいた。
◇◆
庭園を見下ろす回廊の手すりに頬杖をつき、ラグ・ド・グレーヴスはメタセコイアの梢を眺めていた。火の点いていない煙草を咥え、所在なげに揺らしている。豊かな銀髪がたたんだ翼のごとく肩から背中をおおっていた。
ミッキーが黙って近づくと、ラグの方から話し掛けてきた。
「レナなら、ここで暮らせるよう手続きをしたぞ」
一瞬、何を言われたのか判らなかった。ミッキーはラグの横顔を見詰め、ほっと息を吐いた。
「そうか。《
「ああ。女同士だし、ライは構わないと言っていた。俺といるよりは、マシだろう」
「違いないな」
相槌を打つミッキーを、ラグは横目で見遣ったが、何も言わなかった。煙草を挟んだ唇が、自嘲気味に歪む。
「ターナーとドウエル教授は、どうなったんだ?」
「ドウエルの方は、未成年者誘拐と監禁の罪で、禁固半年。執行猶予三ヶ月」
「その程度なのか?」
ミッキーは目をまるくした。ラグは手すりにもたれ、ぼりぼりと頭を掻いた。
「どうせ、それより早く出てくるさ。捕まえたのは俺達でも、判決を下すのは地球連邦だからな」
「…………」
「リサとフィーンを誘拐したと言っても、あの二人は自分からついて行ったんだから、立証が難しい。身代金を要求したわけでなし……。脅されたのは俺だが、誰も俺に同情などしない」
「…………」
「お前の腕の傷害罪でも付け加えようかと思ったが、記録するのを忘れていた。ここまで
「冗談」
ミッキーは呟いた。
《VENA》 とラグに治してもらった右肩は、すでに傷痕すら判らなくなっている。障害が遺らないのに越したことはないが、そのせいで彼等が起こした騒ぎが無かったことにされるのは、
ラグは、煙草とともに苦虫を噛み潰した。
「お前もリサも、好き放題に暴れたからな。俺も、相当派手に物を壊した。痛い腹を探られたくなければ、譲歩するしかなかろう。……ドウエルには、シンク・タンク No.42 の実験動物たちの面倒をみる責任もある」
「そうか……そうだな」
「ターナーとアイザックの方が重罪だぞ。
ミッキーは、今度は冷静に頷いた。半ば予想していた事柄だった。
ラグは彼に横顔を向け、憂鬱な口調で説明した。
「ターナーは目的のために、月の独立過激派を利用していた。大方、地球連邦が 《VENA》 と 《
「アイザックは――」
「連邦警察内の独立派だ。アルテミス市の一部の
ラグはひょいと肩をすくめた。
「今、地球連邦は月の大掃除の最中だ。何しろ、執政官と連邦警察の一部が、独立過激派に
「…………」
「俺としては、間接的にスティーヴンの仇も討てたから、まんざらでもない(注*)。だが、これで月の独立は遠のいたな」
「皆、そんなに不満があるわけじゃないよ。税をもう少し軽くしてくれたら、とは思っているけれど」
ミッキーは溜息をついた。
リサと自分にとって最大の問題だった倫道教授の殺害犯は、逮捕された。さらに詳しい事情は、これから裁判を通じて明らかになるのだろう。リサの希望だった 《VENA》 との面会も果たした。とりあえず一区切り、と言ってよいか……。
「あの二人はどうなったんだ?」
あの時、《
「消えた、としか言いようがない。
「そうか……」
いかにも面倒そうにラグは言ったのだが――実際、彼には面倒きわまりないのだろうが。ミッキーには、それがこの男の優しさに思えた。ラグはずっと、キメラ達のことを『史織』、『真織』と呼んでいるのだ。
以前なら、そんなことに気付かなかった。ミッキーは、彼に対する自分の変化を感じた。
「お前は、どうするんだ? これから」
これも、今までならば訊かなかった。
ラグもそう思ったのか、胡散臭げに彼を眺めた。サングラスを掛けていない瞳は黒く深い。その眼を、ミッキーは静かに見返した。
やがて、ラグは人工の森へ視線を戻した。
「……しばらくはこっちにいる。俺とタカヒロは、
「そうか」
ミッキーは頷いた。おそらく、ラグと鷹弘の任務が 《VENA》 から離れることはないのだろう。これから先もずっと。《
彼の心を読んだように、ラグはぽつりと言った。
「手を退けよ、ミッキー」
ミッキーは、黙って彼をみた。ラグはドームの天井を仰ぎ、吐息まじりに続けた。
「手を退かせるんだ、あの娘に。もういいだろう? 一応、目的は達成したんだから。お前達は、これ以上関わるべきじゃない」
「ああ、判っている。だが――」
ミッキーは躊躇した。自分がこんなことを言うべきではないのかもしれない。
「いいのか? お前は」
案の定、ラグはむすっとした。しかし、今更、言葉は取り消せない。
「ラグ。おれとリサは、それでいい。だが、お前は、」
『たった一人で』――ミッキーの言葉を察し、ラグは舌打ちした。
「そういうことは、六年前に言えよ」
「…………」
「悪かった。ミッキー、気にするな。……坊主、お前が気にすることじゃない」
六年前、《古老》 の自分はどんな男だったのだろう? と、ミッキーは考えた。この男と対等であったことなど想像できない。ラグは彼が望んでいたと言ったが……それで本当によいのか、彼には判らなくなり始めていた。
ラグは不本意そうに口ごもった。
「お前がその気になれば、
「……そうなのか?」
「ああ。二十二世紀の一時期、夫婦だったこともあるからな」
「ハアッ!?」
少ししんみりとしていたミッキーは、頓狂な声をあげかけ、慌てて声をひそめた。ラグは手すりに頬杖をつき、面白くもなさそうに顔をそむけた。
「兄弟だったことも、互いに養育する立場だったこともある。恋人だった時期も、派手に喧嘩別れしたこともな」
「こここ恋、びと、って、おれとお前が……?」
首を絞められたニワトリさながらどもるミッキーを、ラグはじろりと一瞥した。
「《クイン》 と 《ウィル》 が、だ。……あのな。《クイン》 は五十四人、《ウィル》 は六十人いたんだ。そのうち半数は女性だった。同性同士とは限らず、年齢も国籍もさまざまだ。ホモセクシャルだったことも、ヘテロだった時期もある」
「…………」
「記憶を蓄積するなんて馬鹿げたことを、二十世紀まで続けてきたのは、俺たちだけだ。自然、結びつきも深くなる……。先代の 《ウィル》 が亡くなったとき、お前を安藤家と養子縁組したのは、俺の親父だ。俺は遺伝子的には親父の
ミッキーは言葉を失っていた。まさか、そこまで近い間柄だったとは。これは確かに、影響が大きい……。
「俺のことより、自分の心配をしろ」
ラグは、気まずそうにこう締めくくった。苦々しく歪めた唇の端で、煙草が揺れる。
「今回の騒ぎで、お前にも判っただろう。ここに居る限り、記憶を封じた意味などないぞ、ミッキー」
「…………」
「連中は、
「…………」
「その度に、リサを巻きこむわけにはいかないだろうが。俺も、お前達を捜して右往左往するのは御免だ。何とかしろ」
「ああ。判っている」
ミッキーは囁いた。――そうか。それでこの男は、しきりに彼にそれを勧めるのだ。普段より饒舌になっているラグが舌打ちするさまを見て、微笑を呑んだ。
ラグは長い前髪を掻き上げ、ぶつぶつとひとりごちた。
「六年前は、死んでも言いたくなかったがな。『いいのか』という質問になら、応えてやる。――お前に心配されなきゃならんほど、俺は落ちぶれてはいない」
「…………」
「それに、本当に一人きりだというわけでもない……。この事態を招いたのは俺だ。後始末をしてやるくらいの甲斐性は、あるつもりだ」
『――だから、あとは俺に任せろ』 とは、ラグは言わなかった。ミッキーも、聴く必要はなかった。
「……判った」
それだけ、ミッキーは言った。我知らず息を詰めていたことに気づき、苦笑した。
ラグが振り返る。
「そろそろ結論を出そうと思っていたところだ。おれ一人で決められることではないが。お前がこっちにいる間――リサの夏休みまでには、結果が判るだろう。それで良い方に転べばよし。悪ければ……」
ミッキーは肩をすくめた。
「軍に戻って訓練をやり直す。ここに居たら、お前と 《VENA》 に当てられて
ラグの眼がすうっと細くなる。無愛想なその顔に哂いかけ、彼は続けた。
「それから先のことは、先のことだ。そうだろう? ラグ」
ラグは応えなかった。手すりに寄りかかり、眼を伏せる。
ミッキーも、応えなど要らなかった。ただ自分を納得させたかっただけなのだ。
「ラグ、ミッキー」
やわらかな 《VENA》 の声に、二人は庭園を見下ろした。女達は緑の絨毯の真中に立ち、幸せそうに微笑んでいる。
ミッキーは笑って手を振り返したが、ラグはうんざりしたように溜め息をついた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(注*)「スティーヴンの仇」: 第一部参照。スティーヴン・グレーヴスはラグの従兄で、月のダイアナ・シティの
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