Part.5 今夜の訪問者は最高!(3)


           3


 ルネがサイド・テーブルの上に鋭い視線を走らせ、わたしとミッキーも息を呑んでそちらを見た。

 Misiaミーシャ……あの写真の女性だ。銀のケースに刻まれたイニシャルの女性。昨夜、スティーヴン・グレーヴスと一緒に観劇に行った女性。

 わたしは内心で悲鳴をあげた。どうしよう! 他の誰をごまかせても、最愛の女性の耳はごまかせない。

 ミッキーの顔が蒼白になり、緊張でひきつった。


『ごめんなさい、こんな時間に。スティーヴ。あたくし、貴方のところに時計を忘れてこなかったかしら? 細い金の鎖のついた時計なのだけれど、帰ったら見当たらないの。気になってしまって』

「……きみの時計? 待っていてくれよ」


 ミッキーは、普段の彼からは想像もできない低さの声で、ぼんやりと囁いた。保留のキーを押さえて、わたし達を振り返る。


「どうしよう? 何て言おう?」


 ルネはこれ以上はないほど表情で眼を閉じ、かぶりを振った。盛大に後悔しているらしい。

 わたしは諦めず、ミッキーの腕を掴んだ。


「あったって言ってみて。大丈夫よ……。ほんとは時計を気にしてかけてきたんじゃないわ」


 ミッキーは不安極まりない様子でわたしを見た。わたしは下手なウインクをしてみせた。それで、ミッキーはキーから指を離し、一呼吸置いて囁いた。


「あったよ」

『よかった、ありがとう。……あたくし、眠れなくて。本当は、それでお電話したの。ごめんなさい』


 男たちは、ちょっと驚いた風にわたしを見た。わたしは無言でミッキーの脇腹を肘でつつき、先を促した。相手が待っている言葉を言わなきゃ、さあ!


「……僕も眠れなかったよ」

『あたくし達、結婚したら便利になるわよね。こんな時間にお電話しなくてもいいのだから』


 ミッキーが苦虫を噛み潰した気持ちが、痛いほどよく判った。ルネも顔をそむける。彼女は死人に求婚しているのだ。

 彼女はしんみりと続けた。


『あたくし達、今夜みたいに喧嘩別れをしたこと、今までなかったわよね』

「……すまなかった」


 ミッキーは、うんと声を低くして囁いた。


『劇場に行かなければ、あんなことにはならなかったわよね』

「そうだね」


 実に素直に肯定する、ミッキー。ルネが皮肉っぽく白い牙をむきだした。


『あの女の人は誰? スティーヴ』


 今度はミッキーには答えられなかった。ルネの牙が引っこみ、わたしは息を殺した。

 彼女は繰り返し訊いた。


『ほら、紫のメッシュの入った髪をして、黒いドレスを着ていた人よ。誰なの?』

「知らないな」


 これは真実だった。ミッキーには答えようがない。けれども、その答えは彼女の神経を逆撫でしたらしい。澄んだ声が苛々した響きを帯びた。


『あたくしが帰るときにも、そう仰ったわ。貴方が知らないなら、何故あの人は、あたくし達の間に後ろから首を突っ込んできたの?』


 ミッキーは黙っていた。わたしとルネとともに、呼吸を止めて相手の話に聴き入っていた。


『それに、どうして貴方にメモリー・カードを渡したの?』


 ミッキーは黒い眸をおおきく見開いた。相手は、頑固に否定していると受け取ってくれた。


『あたくし、見ていたのよ、スティーヴ。貴方がメッセージを読んで、彼女に頷いてみせたところ』


 こちらに釈明の機会を与えるために、相手は少し待った。でも、ミッキーはそれを利用できなかった。


『あれから後の貴方ときたら、人が変わってしまったみたい。劇にもあたくしの話にも、上の空になって……。あたくし、帰ってから今まで、ずっと泣いていたのよ。……スティーヴ? そこにいらっしゃる?』

「聴いているよ」


 ミッキーは固く眼を閉じて答えた。わたしは彼の腕にぎゅっとしがみついた。彼にとって、こんな話が辛くないはずがない。


『何だか、あたくしと話すのが嫌みたいね。あたくし、自尊心を捨ててお電話しているのよ。貴方も譲歩して下さらない?』

「…………」

『ねえ、スティーヴ。あたくしが馬鹿なのかもしれないけれど、どうも、貴方が独りではない気がするわ。何か仰るたびに、随分時間がかかるのね。まるで、誰かがそこにいて、貴方にこう言えって指示しているみたい』

「違うよ」


 ミッキーは囁いた。こんな場面でなければとても甘い口調だったけれど、彼女には通用しなかった。


『スティーヴ。貴方、普通の声が出せないの? 誰かを起こさないよう、声をひそめているの? そこにいる、起こしてはいけない人は、一体誰?』


 死人だわ……。


 わたしは心の中で呟いた。ルネも神妙になっている。

 ミッキーは保留のキーを押さえた。


「駄目だ。これ以上、ごまかせないよ。切っていいかい?」

「そんなことをしたら、余計に怪しまれるぜ」

『スティーヴ、どうして顔を見せてくださらないの? ……貴方、本当にスティーヴでしょうね?』


 こんなにうろたえるミッキーを見たのは初めてだった。ルネは頭をスズメの巣のように掻きむしり、自分のだけでは飽き足らず、ミッキーの頭にも爪を立てかける。


 咄嗟にひらめいた。


 わたしは有無を言わさずミッキーの手をキーから離させると、あの酔っぱらいの口調を真似て、送話口に声を投げつけた。


「どうしたの? いつまで喋ってるのよ。飲み直しましょうよ!」


 男たちの眼がまんまるくなり、爆弾でも見るようにわたしを見た。

 分子が衝突したみたいな衝撃が、電話の向こうで炸裂した。音もなく姿も見えなかったけれど、そのショックは光回線に乗り、まっすぐこちらへ伝わってきた。


『……失礼いたしました。グレーヴスさん』


 ややあって聞えてきた声には、どんな感情も含まれていなかった。淡々と囁く間に、はり裂けそうな――いや、既に破れてしまったであろう胸でつく、苦しげな呼吸が聞えた。


『お許し下さい……あたくし、存じませんでしたの』


 カチリと小さな音がして、静寂が戻った。


 二人は、呆然と、わたしを凝視みつめていた。


                *


 ミッキーは、不味いものでも呑んだように口元をぬぐい、電話のスイッチを切った。

 ルネは小さく口笛を吹いて、わたしを面白そうに眺めた。


「よく、あんな策を思いついたな」

「……ルネは恋愛小説を読みそうにないわね。昼ドラも、観たことない?」

「何だ、それ?」


 地球人仕様の栗色の眉毛をはねあげ、青い瞳をきらきら輝かせる。ラウル星人ラウリアンが無邪気な表情をとり戻す一方、ミッキーはすっかり打ちひしがれていた。


「気の毒に。彼女は全然悪くないのに、こんな目に遭うなんて……。夜が明けて、スティーヴンの旦那が死んでいたと知ったら、どう思うだろう」

「いずれは知らなきゃならないさ」


 ルネ、肩をすくめる。わたしはミッキーを慰めたかったけれど、上手い言葉がみつからなかった。

 ミッキーは溜息をつき、ベッド脇の写真を眺めた。わたし達は、しばらく彼女の身上に想いをはせた。


 わたし達はめいめいのペースで立ち上がり、元の書斎へ戻った。ミッキーが最後に寝室の明かりを消して、ドアを丁寧に閉めた。

 わたしは、ミッキーを励ます気持ちをこめて話しかけた。


「現れたわね。メモリー・カードの女が」


 ルネはぺろりと唇を舐めた。


「昨夜、スティーヴンの旦那とさっきの彼女が劇を観に行った時、割りこんで来たと言っていたな」

「『MOONLIGHTムーンライト ROSEローズ』だ」


 ミッキーは沈んだ声で答えた。視線だけで遺体をかえりみながら、


「あの男のポケットに、チケットが入っていたよ。場所が判る」

「紫のメッシュの入った髪をして、黒いドレスを着ていた。そして、スティーヴンの手にカードを押し付けたと、彼女は言っていたわ」

「問題は、どんなメッセージだったのかだ」


 ルネは胸の前で腕を組み、長い指を自分の顎に当てて考える。

 ミッキーが、ゆっくり呟いた。ルネとわたしを交互に見る瞳には、いつもの理知的な光が戻っていた。


「どうしてスティーヴン・グレーヴスは……その、相手の女に苦情を言わなかったんだろう? 婚約者と気まずくなると分っていただろうに」

「そうするわけにいかない何か――婚約者に隠しておかなきゃならないことが、書いてあったのか?」


 ルネの台詞に、わたしは強く頷いた。


「それだわ、ルネ。だから執政官は、メッセージを読んだあと、女に合図をしたんだわ」

「見間違いかもしれないぜ? 彼女が嫉妬のあまり、でまかせを言った可能性はないか?」

「それは無いわ」


 わたしがきっぱり否定したので、ルネは怪訝そうに片方の眉を跳ね上げた。


「どうして判る?」

「あのね、ルネ。そういう時の女の人は、体に目が百個ついているようなものなのよ。見逃すはずがないわ」


 ルネはミッキーと顔を見合わせ、大儀そうに譲歩した。


「OK, 彼女を信じよう。男は合図した……。でも、それだけじゃ、どうにもならないんじゃないか?」

「そうだよ、リサ。その女がこの部屋に来たとは限らない」


 ミッキーはソファーの背に手を滑らせ、例のカードを拾い上げた。左掌に載せ、反応しないキーを右手の人差し指でそっと撫でる。

 わたしは、ごくんと唾を飲んだ。


「来たわよ、絶対に。こんな立派な紳士と婚約者の間に、ずうずうしく割りこむ女よ? バッグを安っぽい香水の匂いでぷんぷんさせてるタイプに違いないわ」


 ミッキーは、わたしの剣幕にちょっと気圧されたように眉根を寄せた。

 ルネはだるそうに肩をすくめ、挫折してしまった。溜息をつく。


「女のことは、リサに任せるよ。オレは別の手がかりを探すことにする」


 そう言うと、本棚の方へ戻ってしまった。

 わたしが見ると、ミッキーはちらっと微笑み返してくれたけれど、すぐに考え込んでしまった。

 


 わたしは溜息を呑み、入り口の側に転がっている黒と白の物体に視線を向けた。ソファーの背に片手を置き、もう一方の手で自分の唇に触れた。それが乾いていることに気づいて、少し舐める。

 ミッキーも所在なげに立っていた。


 わたしは意を決して遺体に近づき、上着をひっくり返した。


「どうするんだい?」

「チケットを探すの。劇場に行ってみるわ」


 ミッキーはメモリー・カードを手にしたまま、真剣にわたしを見た。


「もう閉まっているよ」

「お客さんはいなくても、スタッフの人達……受付や掃除の人は、まだ残っているはずよ。その人達に聞いてみるわ」


 わたしが微笑みかけると、ミッキーは何だかとても不思議そうに、わたしを見詰めた。溜息をついて肩をすくめる。


「OK. おれも――」

「ミッキー。リサ」


 彼の台詞を、ルネが遮った。

 ソファーの向こう。机の前で、ルネは、床から拾い上げたカードを、拾い上げた姿勢のまま眺めていた。


「どうした? ルネ」


 問い掛けたミッキーを片手で招く。わたし達は立ち上がり、横からルネの手元を覗き込んだ。

 わたしには見慣れないカードだった。証券取引なんかに使う、高額のデジタル・チェック・シート(小切手)だそう。表に表示されている金額は、二千五百万クレジット。宛名はスティーヴン・グレーヴス、署名はジョン・ハクスリー。不吉な単語が表面に赤く点滅していた。


 Bounced(不渡り)


 ……いつしか、わたしとミッキーは、それぞれ片手を伸ばして、ルネの手の中のそれを両側から支えていた。


「金庫の中に、こんなの入ってた?」

「金庫じゃない。机の引出しと床の隙間だ。落ちた拍子に滑り込んだんだろう。お前ら、これの意味が判るか?」


 ぞんざいな口調には慣れっこだったので、わたしもミッキーも気にしなかった。気にしなければならないことは、他に沢山あった。

 わたしは、ゆっくり頷いた。


「判るわ……。この人が、葉巻を噛み潰したかもしれないのね」

「きっとそうだ。人殺しをする値打ちはあるぜ。二千五百万クレジット! 凄えな」


 ルネの口笛は、ヒュッとかすれた。早口に、自分の考えを説明してくれる。


「このハクスリーって奴が、支払いの件でスティーヴンと諍いになり……撃ち殺したんだ!」

「ジョン・ハクスリーか。その名前は、今夜みかけたよ」


 片手の指を顎に当てて考えていたミッキーが、身を翻し、死体に歩み寄った。迷うことなく死体の内ポケットからカード・ケースを取り出すと、名刺とチケットを出した。


「やっぱりそうだ。ハクスリーは株の仲買人だよ。連絡先も書いてある」


 ルネは、チェック・シートを持ったまま彼に近づいた。


「住所か?」

「いや、これは会社の事務所だろう。ルナ・シティとなっているが、どこに住んでいるかまでは判らないな」

「十分だ」


 ルネは、カードと名刺をポケットに突っ込んだ。椅子の上に置いてあったジャケットを肩にかけ、出て行こうとする。


「行って来る。お前らは宇宙港ポートで待っていてくれ」

「ルネ、おい」


 ミッキーが声をかけたけれど、彼はかき消すように消えてしまった。また空間転位テレポーテイションしたのだろう。


 わたしはミッキーの顔を見た。黒い瞳に苦笑が浮かんでいる。


「どう思う?」


 彼はかるく眉を寄せ、それから試すようにわたしを見た。


「きみは?」

「うん……ルネには悪いけど、引っかかるわ。ハクスリーって人が犯人なら、あんな重大なものを残して行くとは思えないもの。名刺も」

「そうだね……。きみは女を捜すつもりかい?」


 わたしは話しながら、自分の頭の整理を試みた。


「わたし、ここに最後に来たのは女性だと思うの。上手く言えないけど……。ねえ、ミッキー。この人は、きっちり正装しているわよね」

「そうだね」


 彼はやや当惑気味に相槌を打った。


「この人が会う約束をしていたのが男性だけなら。こんな夜中だもの、もう少し気楽な格好をしているんじゃない?」


 ミッキーは黙って死体に目をやった。


「わたし、この人は……女性と会うときに、普段着で迎えたりしない人だと思うの」

「相手は殺人者だよ?」


 わたしは優しく微笑んだ。この答えには、自信があった。


「ミッキー。あなたなら、どうしてる?」


 今度こそ、彼は黙り込み……呆れたような困り果てたような、複雑な瞳でわたしを見た。ゆっくり首を振って呟く。


「さっきまで手がかりがなくて困っていたのに。今度は、ありすぎる……」

「わたしはこの女を探してみるわ。ミッキー、あなたはどうする?」


 彼は、ほっと息を吐いた。


「おれは男を捜すよ。ルネが外れるかもしれないからね」


 頷いて、わたしは机の上に置かれた時計を観た。ミッキーも振り返る。

 あと、一時間。



 ミッキーが部屋の明かりを消し、わたし達は冷たい階段を降りて行った。わたしが先にガラス扉を開けて外に出ると、彼は声をかけてきた。


「リサ」

「なあに?」


 ふっと苦笑する気配が伝わった。


「きみって、本当に前向きで、勇敢なひとなんだなって思ったんだ。……それだけだよ」

「わたしが?」


 驚いた。ミッキーにそんなふうに言われるなんて。わたしの方こそ、二人に勇気をもらっているのに。

 そう言おうとしたわたしは、彼が恐いくらい真剣な表情になっていることに気づき、言葉を呑んだ。


「リサ。絶対に、きみをラグ・ド・グレーヴスのところへ連れて行くよ。おれが帰って来られなくても、ルネが必ずそうするから、信じて欲しい」

「ミッキー。何を言っているの……?」


 問い掛けた言葉は、額にふわりとキスの真似事みたいに触れた唇に遮られ、わたしは眼を丸くした。


 息を呑むわたしに、ミッキーは、どこかはかない微笑を見せてくれた。


「Good-Luck」

「……ミッキーもね」


 彼が軽く手を挙げるのを見届けてから、わたしは門扉を開けた。暗い予感を抱いたまま、夜の底へ歩み出る。


               ◇◆


 ミッキーが門から出たときには、リサは向こうの角に消えていくところだった。肩を縮めた寒そうな後姿を見送る彼の眼は、苦痛に細められていた。踵を返し、リサとは反対の方向に歩き出す。

 ミッキーは片手を挙げて無人タクシーを呼び止め、行き先を告げた。


「ダイアナ・ステーションへ向かって下さい。大急ぎで。ルナ・シティ行きの一番早い列車に間に合うように、お願いします」





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