Part.4 異端者たちの夜想曲
Part.4 異端者たちの夜想曲(1)
1
「足元に気をつけて。段になっているから」
玄関の扉はなめらかに開いて、わたし達を迎え入れた。ガラスの扉の奥に、分厚い木の扉が待ちかまえていた。
わたし達の後を追ってきた通りすがりの車のライトが、閉じた扉に遮られる。わたし達は、しばらく息を殺して立ち尽くしていた。それから、緊張でこわばっているお互いの顔を見る。
ミッキーは内側の扉に手をかけた。わたしはルネにジャケットを返し、ミッキーにくっついて彼のコートの袖をちぎれんばかりに握り締めた。ルネは笑ったりせず、扉の向こうを透視するかのように睨みつけている。
扉が開くにつれ中に淀んでいた闇が煙草の煙さながら流れ出し、ゆるやかに、わたし達の足元に溜まった。ミッキーはそれを振り切って、ぐいと足を踏み出した。
わたしとルネが後から入り扉が閉まると、街灯の明かりが届かなくなった。目を開けていても何も見えない。
わたしはミッキーのコートを握り、どきどきしながら立ち尽くしていた。隣に、ルネの気配がする。
「灯りは?」
声を出すと別のものが応えそうな気がして、わたしは、おそるおそる囁いた。呼吸音が耳に響く。
ミッキーが同様にひそめた声で応えた。しがみつくわたしの肩を抱いてくれる。
「点けない方がいい。外に漏れると厄介だからね……。大丈夫。一度入っているから、勝手はわかるよ。ルネ?」
「ここにいる。どうぞ、先に行ってくれ。後からついて行くよ」
ルネが喋ると、煙草の先の小さな炎が揺れるのが見えた。
ミッキーが歩き出し、わたしも足を踏み出した。目が闇に
「気をつけて。階段だよ」
わたしは左手にボストン・バッグを、右手にミッキーの腕をかかえ、階段を上り始めた。
ルネは――ラウル星人は、暗闇でもかなり見えるらしい。わたしとミッキーの後を、のんびりついて来た。
一段ずつ爪先で確かめながら上っていく単調な動作を、どれくらい続けただろうか。ふいに足元に段差がなくなって、わたしはつんのめりそうになった。ミッキーが腕をぐいと引いて支えてくれる。
「曲がるよ」
踊り場らしい。
右の方へ導いてくれる。とまどいながら方向を変えるわたしの耳に、もう一度、声が聞こえた。
「また階段がある。気をつけて……」
そしてまた、単調に足を上下させる。今度は短くて、わたし達は、すぐ平らなところへ辿り着いた。
その時、うすい煙草のにおいが漂ってきた。ルネやミッキーのものとは違う、焦げたようなにおいだ。
同時に、甘い匂いにも気がついた。花? いや違う。もっと人工的な鋭さがある。香水だろうか……ファンデーションか、口紅か。そんな感じだった。
空気が変わっていた。わたし達の他にも誰かがいるような、いないような。わたしは、ミッキーの腕にぎゅっとしがみついた。
背後のルネのいる辺りで空気が流れる。彼がドアを閉じているのだ。重い音を立てて、ドアが閉まった。
「明かりを点けるよ」
ミッキーの声に、わたしは眼を閉じた。カチッと小さな音がして、まぶたの上に照明が当たる。ゆっくり眼を開けたわたしは、瞬きを忘れて足元を見下ろした。
後ろからルネが近づいてきて、隣にならぶ。ミッキーも黙って佇んだ。
……そうか。これが、そう、なのか。
足元に長々と横たわる物体を見下ろし、わたしは、のろのろ考えた。そんな場合ではないと判っていても、眼を逸らす事が出来ない。
パパの時には取り乱していたので、こんなことを考える余裕はなかった。奇妙な感じだった。
これ、なのだ。わたしが、ミッキーが、ルネさえも――恐れつつ、全ての生命に分け隔てなく訪れるもの。
死。
わたしはボストン・バッグを両手で抱え、しゃがみこんだ。ルネも膝を折り、その上に頬杖をついた。小さな子どものような仕草も気にならない。
スティーヴン・グレーヴス氏は長身で、がっしりとしていた。彫りの深い顔立ちは、映画俳優のように整っている。三十六歳と聞いていたけれど、もう少し老けて見えるのは銀髪のせいだろうか。瞳は濁った灰色をしていて、空ろに天井を見上げていた。
ミッキーが男の反対側に回って片方の膝をついた。夜中を過ぎているというのに、死体はきちんと黒いスーツを着ていた。
ルネが珍しく真剣な口調で言った。煙草にかすれた声で。
「こいつがスティーヴン・グレーヴスなのか? ミッキー」
「ああ、間違いない。……残念だけど」
わたしも訊いた。何か喋っていないと落ち着かない気分で。
「ここは
「職場は連邦のダイアナ市管制センター内に、執務室があるはずだよ。だから、まったくの私邸だね」
ルネに質問が戻った。
「他の人間は住んでいないのか? 家族は?」
「弟のロジャー・グレーヴスは、ルナ市で大学に通っている。スティーヴンは独身で、独り暮らしのはずだ」
「……どうして、こんなことをしたのかしら?」
わたしは問題の核心を囁いた。怒りに似た感情が胸に湧きおこる。本当に、どうして人を殺すのだろう?
わたしはこの人を知らない。どんな人かなんて今さら判らないし、月の
彼には家族がいるのだ。ラグ・ド・グレーヴスの数少ない肉親の一人。それを思うと、むしょうに腹立たしかった。パパのことを思うと。
酷い。
わたしは傍らのルネに訊いた。
「ねえ、どう思う? パパを殺した連中が、この人も殺したのかしら。でも、彼は月の執政官で、《VENA》とは直接関係ないはずよね?」
ルネは「見当もつかない」と言うように肩をすくめた。代わりに、ミッキーが応えてくれる。わたしは視線を上げて、今はもう血の気の戻った彼の顔を見た。
「ドウエル教授がおれを足止めしたかったのなら、こんな回りくどいことをする必要はない。直接、おれを襲えば済む話だ。狙いがリサと倫道教授のデータなら、むしろ逆効果だと思う」
「逆効果って?」
「執政官が殺され、おれが容疑者として警察に捕まれば……当然、倫道教授の手紙とメモリー・チップも押収されてしまうだろう。そうなれば、手に入れることは難しくなるんじゃないか? あの教授がおれに電話をかけて来たことは、麻美が知っている。回線の接続記録にも残っているだろうから――おれがドウエル教授の指示でここに来たのだと言えば、無事では済まないはずだ」
「そっか……そうよね」
頷きながら、わたしは頭が混乱するように感じた。ルネも、きつく眉を寄せた。
「すると何か? ミッキー。こいつは、ドウエル教授の筋書きにはない、偶発的な事故だってのか? 冗談じゃないぜ」
「おれだって考えたくないよ」
ミッキーも肩をすくめてしまう。お手上げ、と言う風に。
わたしとルネは、死体に視線を戻した。しかし、死んでしまった執政官が謎解きの答えを教えてくれるはずはない。やはり自分達で考えなければいけないらしい。
ミッキーは目を伏せて溜息を呑んだ。そうして、死体の上着に手をかざす。一瞬指紋や表皮細胞のことが頭をかすめたけれど、門扉をはじめ既に彼はそこいらじゅうに触れていることを思い出し、わたしは黙っていた。
ミッキーが死体の上着のボタンを外し、ベストのボタンを外すと、白いシャツの胸にぽつんと穴が開いているのが見えた。ふちの少し焦げたそれは、直径一センチ程の黒いしみのようで、残念ながら
わたし達は、その穴を見詰めた。
「レイ・ガン(レーザー銃)だ」
ミッキーが囁いた。ベストを裏返して貫通した穴を確かめ、痛ましげに眼を細める。
「至近距離で撃ったんだろう。レーザーだから、殆ど血も出ていない」
「少なくとも、床を汚すことはなかったわけだ」
ルネがツッコミを入れて来た。皮肉たっぷりの冗談に、ミッキーは唇を歪めた。わたしは無視して呟いた。
「自殺じゃないわよね。自殺なら、銃が転がっているはずだもの……。動機は判らないかしら?」
「強盗ってセンはどうだ?」
ルネが言う。いつもの面倒そうな口調に戻っていた。
「こんな立派な豪邸だ。狙われたっておかしくない。旦那が留守の間に入ってきて、帰ってきたところをズドン!だ。荒らされていないか?」
「さあ、判らない。そこまで観ていないから。真っ暗な部屋に入って……つまづいて、仰天したんだ」
自嘲気味に説明するミッキーに、わたしは心の底から同情した。
ラウル星人は、やれやれ、と肩をすくめて立ちあがった。
「OK. オレはそのセンで調べてみよう」
そう言うと、部屋の壁を埋め尽くしている本棚と机に向かい、何やら探し始めた。憎らしいほど落ち着いている。
有機資源の高価な月コロニーで大量の紙の本を持てるのも、地位とお金があるからだろう。わたしは溜息を呑んだ。
わたしとミッキーは、足元の死体に視線を戻した。
「強盗なら、本人の持ち物も調べた方がいいわよね……」
ミッキーは自信なさそうに首を振ると、再びシャツのポケットに指を突っ込んだ。
「きみは触らない方がいい。おれが出した物を調べてください」
手伝おうとしたわたしの手を、そっと押しのけた。
ルネはこちらに背を向けて、壁を占領している本とメモリー・ディスク類を取り出しては床に積み上げている。わたしは、ベストのポケットを探るミッキーの手を見守った。
「……からっぽだ。何も入っていない。内側に、ポケットがあるかな?」
上着をひっくり返して指を突っ込む。今度は、彼はそこから掌大の銀色に光る四角いものを引っぱり出し、わたしに手渡した。
「何かしら? ケースだわ。銀製? ティファニーって書いてある」
「店の名前だよ。中身は?」
「煙草が三本入ってるわ。『From M to S』……プレゼントみたい」
ぱちん、と蓋を閉めて床に置いた。溜息が出そうになるのを抑える。
ミッキーの指は反対側の内ポケットから財布のようなものを取り出た。
「カード・ケースね。チケットが入っているわ。二枚。『
ぱたぱためくっていると、営業用の名詞が数枚出てきた。わたしは、ルネとミッキーの二人に聞こえるように声に出して読み上げた。
「ジョン・ハクスリー、ルナ市って書いてある。トマス・J・ホーキング。アダム・M・ジャンセン……」
「どうかした?」
わたしは、ミッキーに立体写真を見せてあげた。彼の黒い眼がすうっと細くなる。
「婚約者か誰かかしら」
「そうだろうね」
栗色の髪の女性の写真を、わたしは元通りしまいなおした。さっきの銀のケースの隣に置く。
ミッキーは、ベストのボタンを元に戻したところだった。
「男の人の服って、どうしてこんなに沢山ポケットがあるの?」
上着の胸ポケットからミッキーが取り出したハンカチには、レーザーが貫通した穴が開いていて、広げると切り絵のクローバーのようになっていた。
ミッキーは静かに苦笑した。他の、いわゆる隠しポケットにも指を突っ込み、空なことを確認する。
「さあね。いろいろと持ち歩くのが面倒だからと思うけど……。ここも空だ」
「判った。きっと、浮気相手の写真を隠しておくんだわ」
「隠しポケットだとわかっているところに?」
ルネがすかさずツッコミを入れ、わたしはミッキーと顔を見合わせて
「ズボンのポケットは空だよ」
「そっちはどう? ルネ」
男の服を元に戻すミッキーから、わたしはルネの方に視線を向け、眼を瞠った。天井までいっぱいの本棚の前に鎮座していたルネは、今では積み上げた本の山の間からぼさぼさの頭がのぞいているだけだった。わたしの声に首を伸ばし、白い牙を見せる。
「あったぜリサ、ミッキー。オレの勘も捨てたもんじゃない」
「何が?」
作業を済ませたミッキーとわたしは、知識と権威の塔の谷間へ足を踏み入れた。
ルネの正面、床から五十センチ程の高さの棚の奥に、白く光るスライド式の扉があった。古風な木目の中で、そこだけ近代的な冷たい造形。縦三十、横四十センチくらいだろうか? 隠し金庫の扉だということは、容易に想像がついた。
一体どうやって、こんなもの見つけ出したわけ?
わたしは勿論、ミッキーもちょっと呆れたらしい。五秒ほど経ってから、いたずらっぽく笑った。
「開けてみるか? 開けば、だけど」
「待ってろ」
ルネはぺろっと唇を舐めて扉に向き直った。本来は持ち主の指紋か声で開くことになっているのだろう。ロックされている扉の周囲の壁に手を滑らせ、一部に名刺大のセンサーを露出させた。
ルネは真顔になり、煙草を咥えていない唇を結んだ。長い指――左手の人差し指と中指の二本でセンサーの表面に触れ、眼を細める。一瞬、扉全体が蒼く輝き、音も無く開いた。
「……もしかして、これを副業にしているわけじゃないわよね?」
冗談まじりに中を覗いて、わたしは息を呑んだ。ミッキーの眼もまるくなる。ルネが、ひゅうっと口笛を吹く。
扉を閉め、お互いの顔を見た。
「調べる必要はなさそうだな」
ルネは、積み上げた本を元の場所に戻し始めた。
「強盗じゃなさそうね」
「ああ。そういえば、おれが入った時にも
ミッキーが呟いて、難しげに眉根を寄せた。
ルネが本を片付ける間、わたし達は立ち尽くしていた。手がかりが全く無い。そりゃ、『私は何某に殺された』なんて書いた紙が出て来ると期待していたわけではないけれど……。
「あのドアは何? ミッキー」
本棚の間に木製の扉がある。真鍮製の取っ手が、ライト・シーリングの光を柔らかく反射している。ミッキーはつかつかと近づき、開けて中を覗き込んだ。
「寝室だ。調べようか?」
「そんなことをしていたら、夜が明けちまうぜ」
本をしまい終えたルネが、うんざり応えた。ラウル星人は立ち上がり、両手を腰に当てて死体を眺めた。
「ここを調べよう。殺されたのはここなんだ」
言いながら、でも、声が自信なさそうにしぼんでいく。死体を見詰めたまま、ソファーにどっかと座り――と言うより、沈み込んだ。
わたしとミッキーは、途方に暮れて顔を見合わせた。
一人で椅子に座っていたルネが、のろのろと声をかけてきた。自分の膝の上で頬杖をつき、テーブルの上を眺めている。
「ミッキー」
ルネのしわがれ声は、ずいぶん歯切れが悪かった。わたし達を見ていない。
「
「え? さあ」
難問を突きつけられた受験生よろしく、ミッキーは眉を曇らせた。
「どうだろう? おれは葉巻を吸わないけど……そういう好みの人もいるかもしれないな」
「二本同時にだぜ?」
椅子の背もたれ越しに振り向いて、ルネは繰返した。ミッキーの眼が再び細くなる。
ルネは、ぼりぼり頭を掻いた。
「オレは
「……そんなことしたら、ニコチンの過量摂取で死んでしまうよ」
「何を見つけたの?」
ミッキーが足早にルネに近づき、わたしもそれに倣った。
ルネが指差したテーブルの上、小さなガラスの灰皿に煙草と葉巻の吸殻が入っていた。ミッキーはテーブルに手をついて、灰皿に鼻がくっつきそうなほど顔を近づけた。
「……成程、ずいぶん興奮していたんだな。こっちの葉巻は、吸い口がぐちゃぐちゃに噛み潰されている。誰だか知らないが、これを吸っていた男は怒り狂っていたんだろう」
「喜びに狂っていたのかもしれないぜ?」
「やったわ。ねえ!」
わたしは嬉しくなって手を叩いた。振り返るルネと、顔を上げるミッキーに、
「今夜、ここにスティーヴン・グレーヴス以外にも誰かいたのよ。しかもその人は葉巻を吸っていて、すごく興奮していた」
「だからと言って、スティーヴンを撃ち殺したとは限らない」
ミッキーが落ち着いた口調で異議を唱えた。立ち上がり、ズボンのポケットに両手をひっかける。
「犯人は別の人間かもしれない……。だが、旦那と別人なことは確かだな」
「ああ。一人でこんなことをしていたら、ものすごい変人だ」
ルネは相槌を打ち、首を傾げてわたしに訊いた。
「葉巻を吸っていた方がスティーヴンの旦那じゃないのか?」
「この部屋に、葉巻はなかったわ」
即座に答えたわたしを、ルネは真っすぐ見詰めた。切れ長の眸が鋭い光を宿す。唇の隅が、ゆっくりとつり上がる。
ミッキーの声にも、普段の艶が戻っていた。わたしに微笑みかけてくれる。
「旦那の持っていたケースに、同じ銘柄の煙草が入っていたね。一歩前進だ」
「OK, ladies and gentlemen. もう一歩前進できるか、やってみよう」
そう言ってルネが腰を上げた途端、ミッキーがはっと息を呑んだ。
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