Part.6 最後の一秒(2)
2
わたし達は転がり落ちるように石段を下り、通りに駆け出した。ビルの谷間に青白い朝の光が射し始めている。
わたしはルネと並んで走り、前方を指さした。
「あの連中の車よ。キーは挿したまま」
わたしはナヴィゲーター・シートに乗り込み、ルネは後部座席に飛び乗った。ミッキーが運転席に着き、車は走り始めた。角を曲がるか曲がらないかのうちに、向こうの街角からパトカーのサイレン音が聞えてきた。
ルネは鋭く口笛を吹いた。
「How fast they are !!(なんて速いんだ!)」
ミッキーは力いっぱいアクセルを踏みこみ、二度ほど赤信号を突っ切った。まだ交通量の少ない通りを、
夜が明けようとしていた。ドームで覆われた街に、人工の朝日が昇って来る。わたしは絶望とともにその光を仰いだ。
「もう無理よ……」
とたんに、
「無理かどうかは、やってみてから言え!」
初めてルネが怒鳴り――不思議な声は、わたしの胸いっぱいに響いて背筋をぞくっとさせた。
ミッキーは唇を噛み、さらにアクセルを踏んだ。
わたしは言葉を失ったまま、後ろに飛び去っていく街並みを見詰めた。
濃い藍色の夜が、底から紫色に変わってくる。次第にそれは赤みを帯び、スミレ色に染まる頃には、ドームの天井は紺から群青に変わっている。紅から桃色、さくら色へと変化していく空は、背伸びするビルの群れに押し上げられ、上の方だけ青く澄んでみえた。
《
車が走るために起きた向かい風が、わたしの目尻から耳元へかけて涙の線を引いた。
ミッキーの片手がハンドルから離れて、そっとわたしの肩を抱き、きつく、力いっぱい抱きしめてから、再びハンドルへ戻った。前方を見据え、低く言う。
「……泣かないで、リサ」
「泣いてなんかいないわ」
運転席とナヴィゲーター・シートの間から顔を出していたラウル星人が、白い牙をむき出した。わたしは掌で頬をこすった。
「勝負はまだ終わっていないもの」
ルネの腕がシート越しに伸びて、くしゃっと、わたしの髪をかきまわした。ミッキーの片手も参加しようとしたけれど、その拍子にハンドルがぐるっと回り、車はあやうく舗道の隔壁に激突しそうになった。ミッキーが死に物狂いでハンドルを反対側に切ったので、車は再び正規の軌道に戻った。
ミッキーは息を切らしていた。わたしとルネは、彼と反対側のドアにそれぞれ貼りつき、呆然としていた。それから、三人とも笑い出す。全員の頬に苦微笑が浮かび、すぐに消えた。
都市は徐々に高さを増していった。五階建てから八階建て、八階建てから十五階、十五階から三十階……三十階は五十階に。人工の空を背にした街全体の輪郭は、五十階から百階、百階は二百階へと、ずんずん伸び上がってドームを占め、天頂はいよいよ狭くなり、最後には巨大な穴の底からぎざぎざの縁を通して銀河を仰ぐ形になる。
永遠に閉じられた、ささやかな、人の世界。
車はハイウェイからの下降道路が十字に交わる所に来た。ミッキーは容赦なく反対車線に乗り込むと、慌ててよける車の脇をすり抜けて、強引にハイウェイに入ってしまった。
車は街の中心を目差して宙を飛んで行った。高層ビルの群れの、その上を飛ぶ。気のせいか、他の車より上昇高度が高いみたい――と思う間もなく、周囲の景色が飛び始めたので、わたしは後部座席を振り向いた。
地球より青い目をしたラウル星人は、いたずらっ子のように笑った。
車はハイウェイの上を小型の飛行機さながら飛んでいく。唐突に出現するカーブや
ルネは遂にシートから身を乗り出し、前方を指さした。
「そこを突っ切れ、ミッキー!」
「突っ切れって……前は壁だぞ、かべ!」
「構わん、飛び越えろ!」
ルネの瞳が金色に光ると、車はハイウェイのガードを飛び出し、ビルの隙間を縫って滑空を始めた。ジェット機のような轟音に、耳がきーんと鳴る。衝撃でひびが入る建物のガラスが目に映った。そして、車はあっという間に宇宙港の正面玄関にたどり着いた。
荒っぽい垂直降下とスライディングが終わると、わたしは二人に腕を引かれてムーヴ・ロード(動く舗道)を走っていた。
エスカレーターを駆けのぼり、ロビーに出る。搭乗手続きカウンターの脇をすり抜け、個人艇用のゲートへ向かった。後ろから係員の叫び声が聞えていた。
わたし達は、リノリウム張りの廊下を靴音を響かせながら駆けた。宇宙港では、ムーヴ・ロード(動く歩道)の使用は入り口のエスカレーター以外、禁止されている。
《
暗かった船内に明かりが点き、船が息づき始める。心配そうなミッキーに微笑むと、わたしは壁に手を着いて歩いた。船が動く気配を全身で感じながら、コックピットへ入る。
そこは光に満ち、全てのスクリーンに宇宙港の離着床が映し出されていた。ダイアナ・シティは、夜の半球側にある。29.5日の月の自転は、まだ終わってはいない(注*)。
ミッキーが通信士用のシートに着き、ルネの補佐をする。垂直離陸をするつもりらしい。
にわかに通信機が騒ぎ始めた。
『《ドン・スパイサー号》! No.539288-65. ルネ・ディ・ガディス、応答せよ』
「こちら、《ドン・スパイサー号》」
ルネの代わりにミッキーが応えた。ルネは、立っているわたしに予備シートに座れと身振りで示した。
船は方向を換え、《
管制塔から、慌てふためく声が聞えた。
『《ドン・スパイサー号》! 貴船の離陸許可はまだ出ていない。手続きを済ませ、申告せよ。……《ドン・スパイサー号》! 乗員、応答せよ』
ルネもミッキーも黙っていた。
二人の応えは、《ドン・スパイサー号》 の垂直離陸に続く加速だった。わたしは予備シートに腰掛けて、Gに耐えながらスピード・メーターを見詰めていた。
船は制限速度の2MCを超え、3MC……4MCへと加速してゆく。1MCが光速の千分の一だそうだから、とにかく凄いスピードだ。それでも、目前の《レッド・ムーン》 はなかなか近付かず、星ぼしもゆっくり動いていた。
ミッキーは唇を噛み、スクリーンを見詰めていた。当然のことながら、宇宙港を管理する地球連邦の公安隊が、ぞろぞろ追いかけて来た。
ひどくのんびりした停船命令だった。
『DON……SPI……CER。――《ドン・スパイサー号》。直ちに停船しなさい。繰り返す、直ちに停まりなさい!』
ルネの舌打ちが聞えたけれど、どうするか、なんて訊かなかった。三人とも、黙ってスクリーンいっぱいに映る赤い月を見詰めていた。
船の速度は8Cを超えている。
突然、スクリーンを純白の光芒が切り裂いて、船は大きく傾いた。公安隊が威嚇射撃を始めたのだ。
ルネが今度は大きく舌打ちし、わたしはコンソールに額をぶつけそうになった。ミッキーがすばやく腕を伸ばして支えてくれた。
『停船せよ、《ドン・スパイサー号》。免許取り消し、宇宙航行法違反容疑で逮捕する』
ミッキーが応答しようとして、ちらっとルネを見た。操縦レバーに噛りついて第二波をよけるラウル星人の横顔を眺め、口を閉じた。
『《ドン・スパイサー号》。05秒以内に減速、反転しない場合は、強硬手段に訴える。《ドン・スパイサー号》!』
ミッキーは、ぷちんと通信を切ってしまった。ゴーグルをかぶり、シートに座り直す。スクリーンに映る漆黒の星空を、三条の光が切り裂いた。
ルネはコンソールを殴りつけ、船は殆ど180度回転して、つかみかかってきた光の手をよけた。開いた指と指の隙間をすり抜けるようなきわどさだった。そうして、あくまで《レッド・ムーン》を目差す。
わたしはシートにしがみつき、唇を噛んでいた。
第四波、第五波を、続けてよける。エネルギー弾の攻撃は次第に激しさを増していった。これだけこちらがスピードを出していれば、一つでも当たれば命取りになってしまう。
ルネはいつの間にか変身を解いていて、時折、その体は、ぼんやりとした青い光に包まれて見えた。
「今日は悲鳴をあげないんだな、子猫ちゃん」
ルネの台詞に、わたしは苦笑した。確かに恐くはなかった。もっとずっと恐ろしいものがある。恐ろしいことにしてはいけないのだ。
ミッキーも、これ以上無いほど真剣だった。
「右後方50度から、三機。左後方42度、二機。計五機だ。相手は高速艇だぞ、ルネ」
「もう一機、《レッド・ムーン》 から出てきたぞ。見ろ、リサ!」
ルネが叫び、わたしは腰を上げた。悲鳴を呑んだ次の瞬間、船の振動でシートに叩きつけられた。
巨大な《レッド・ムーン》。地球と数万の星ぼしを背景に、血のように紅く輝いている。周囲でまたたく光の点は、人工衛星や
公安隊の攻撃をよけて船が体勢を立て直した、ほんの一瞬――今しも外宇宙へと出航する、大型船が見えた。
追いすがる光芒をよけ、ジグザグに飛行しながら近づくと、形がはっきりしてきた。白と銀と黒に塗装された船体は、《ドン・スパイサー号》 の十倍はある。うるさいハエのごとく纏わりつく《ドン・スパイサー号》と公安隊を、気にする風もない。こちらが速く動いているせいで、遅いように観えるけれど、実際はかなりスピードが出ているのだろう。
船腹に描かれた金色の優雅な文字が、目を引いた。
《
わたし達は黙っていた。
《
その間に、わたし達にはある共通の感情が生まれていた。追いついた安堵と間に合わなかった絶望に、呆然としていた三人の内で。
一つの目的の為に尽くそうとする決意が生まれていた。
《ドン・スパイサー号》 は、《セリナ-3号》 に遮られて攻撃できない公安隊の隙を利用して、さらに相手に近づいた。
ミッキーが呼びかけを開始した。通信機のキーを押す彼の白い指を、わたしは息を詰めて見守った。
「《セリナ-3号》」
メイン・スクリーンを見詰めて言う。彼の澄んだ声が、船内に凛と響いた。
「《セリナ-3》。こちら、《ドン・スパイサー》。銀河連合宇宙軍、第一軍所属、No.539288-65、《ドン・スパイサー号》 だ。《セリナ-3号》、応答せよ」
数秒の沈黙があった。
《ドン・スパイサー号》 は《セリナ-3号》 の船首をかすめ、再び翼を掠め去った。船首を反転させながら、ルネは歯を喰いしばっていた。
ミッキーは眉根をきつく寄せ、呼びかけた。
「《セリナ-3号》!」
こちらのスピードが落ちた隙に、公安隊が攻撃を再開した。エネルギー弾が《ドン・スパイサー号》 のスカーレットの翼を掠め、衝撃に揺れる。船内に、ピーっという警報が鳴った。
モニターは消えたままだったけれど、低い男の声がした。
『こちら、《セリナ-3》』
ルネはこちらを向かない――向きたくても向けかった。必死にコンソールに貼り付いている。
わたしは予備シートを離れ、ミッキーに駆け寄った。彼は立ち上がり、わたしにシートを譲ってくれた。
『こちら、《セリナ-3》。《ドン・スパイサー号》、どうぞ』
「こちら、《ドン・スパイサー》」
ミッキーは軽く唇を舐めて、モニターを見詰めた。
「EBI-47. MIKIO ANDOH. 《セリナ-3号》 に停船を要求する」
『停船は出来ない』
即座に応答があった。公安隊のものより、はるかに重い響きだった。
『本船は、木星スイング・バイの準備中だ。停船は出来ない』
ミッキーが口を開けて何か言う前に、追い討ちがあった。
『《ドン・スパイサー号》 に警告する。貴船の軌道は本船の進路を妨害している。修正し、退避されよ。繰り返す。No.539288-65. 《ドン・スパイサー号》 ならびに地球連邦公安隊、退避せよ』
公安隊からの応答らしい『事情を説明せよ!』という声が、かすかに聞えた。
ミッキーは唇を舐めた。
「……ところが、そういうわけにはいかないんだ」
軍隊の口調から完全に遠ざかってしまったけれど、知らず知らず彼の腕にしがみついていたわたしの手を握り返してくれながら、苦い声で言った。
「《セリナ-3号》、緊急事態だ。停船し、
『停船は出来ない』
冷たい声だった。血も涙もないように聞えた。
『
「なら、せめて、ラグ・ド・グレーヴスと話をさせてくれ!」
ミッキーは焦っていた。マイクに噛み付きそうになった。
「そっちに乗っているんだろう? パイロットの、グレーヴス少佐だ」
『銀河連合宇宙航行法、第九十二条四十一項に基づき、出航後30標準時間経過まで、パイロットは通信に出ることは許可されていない。航行の安全の為――』
「「法律なんか、くそくらえだ!!」」
ルネとミッキーの罵声が重なった。
向こうが絶句した隙を捕らえて、二人は同時に喚きたてた。ただし、ルネは操縦席で。
「頼む、緊急事態なんだ! 少佐と話をさせてくれ」
「てめーなんぞに用はない! グレーヴスを出せば、話は終わるんだ!」
「ラグ・ド・グレーヴス少佐! そこにいるんだろう? 頼む、応答してくれ!」
「てめーの為に、こっちは一晩中走り回ったんだ。出て来い! $@*#◆☆&%$#*◇@★@&△◎!!」
ルネの台詞は途中でラウル星の言語に変わり、訳の判らない――けれど、多分、悪口だ。――恐ろしく難解な音を並べ立てた。その声は、《ドン・スパイサー号》 は言うまでもなく、大型船のコクピットにも響き渡った、と思う。
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(注*)月の自転は29.5日: 月は地球に同じ面を向けて自転しながら地球のまわりを回っており(ロックされている、と表現します)、月面では約二週間夜が続き、その後 二週間昼が続きます。このため、太陽光発電だけでは都市の電源を賄えず、核融合発電が必要です。
ドーム都市内の昼夜や気候は、全て人工的に管理されている設定です。
(注★)交通法規は遵守して下さい(^_^;)
赤信号を無視してはいけません。制限速度は守りましょう。ハイウェイを逆走なんてもってのほか。防音隔壁やガードレールに突っ込んではいけません。
もし宇宙船を操縦する場合は、管制官の指示に従いましょう。勿論、大型船の進路妨害はしないで下さいね。
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