津軽藩以前

かんから

相川西野の乱 永禄十一年(1568)秋

プロローグ

 

 ……北の国には、人が足りない。田畑を耕すにせよ、魚を獲るのも獣を射るにも。度重なる飢饉や災害で、人は死んでいく。


 ではどうすればいいか。……人を他国より呼べばいい。


 しかし、決して好人物がくるとは限らない。他国でのけ者にされているような者が逃げてきて、慣れた頃には狼藉を働く。そうでなくても、地元の習俗に溶け込もうとしない者もいる。


 ……こういうことがあったので、在来の民に他国者を毛嫌いする者は多かった。さらには "彼らなら虐げてもいい" と、むやみに酷使する者もいた。なぜならここよりほかに、行くところはないのだから。逆らうことはできまい。




 とある秋の日。その年は雨が全く降らず、作物が育たなかった。苦しいのは皆同じ。しかし支配者層は激しい収奪をした。そのなけなしの食べ物を、在来の民に優先して配った。同じ人間なのに……ひどすぎる。


 …………他国者の怒りは、頂点に達した。



 相川と西野。一人は宮城野の出身、もう一人は常陸の出という。かつては武門に仕えていたが、殿さまが敗れてしまって一族路頭に迷った。そうして北へと逃げてきたという。


 二人は他国者の民を集め、支配者であった南部氏を討たんとした。まずは手始めに津軽郡代の津村氏を破る。一気に外ヶ浜全体を支配下に置き、後継者争いに明け暮れていた南部家中に衝撃を与えた。


 これはまずいと、一族の重鎮である南部高信は制圧を命じられた。大軍をもって、反乱をつぶす。以降は新たな津軽郡代として石川という土地に腰を据え、石川高信と名乗った。


 南部の者らは、生き残った他国者をとことん虐めた。誰も止めようともせず、彼らにとって地獄のようであっただろう。


 ……そんな中、口にはださないが、苦々しく思っている人物がいた。大浦為信、のちの津軽為信である。物語は、相川西野の乱が平定された直後から始まる。

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