第2章 神社をとりまく諸々のこと

第5話 階段ダッシュをする高校生

 俺は真夜中のオフィスにひとり、必死でパソコンに向かっていた。

 明日が納期なのに、俺がコーディングを担当しているパートだけ、バグばかりでうまくいかないのだ。時計の針は容赦なく進んでいき、焦りばかりがつのって、作業はちっとも進んでいなかった。

『おぬしの目は節穴か。ほれ、そこが間違っとるではないか』

 白蛇がPCモニターの上でとぐろを巻いて、ちろちろと舌を出す。

 俺はイライラとして怒鳴り返した。

「うるさいっ! お白様に何がわかる」


『……ほう。そんな口をきいて、いいのかね』

 その冷たい声に俺ははっとしたが、もはや手遅れだった。お白様の赤い目が光ったかと思うと、急に白蛇が巨大化していって、モニターがメキメキと音を立てて崩壊した。

 俺は真っ青になって、イスから飛び降り床に土下座した。

「すみません、すみません! お怒りをお鎮めください!!」

 俺は涙目で懇願したが、白蛇はぱくっと大きな口を開けると、俺を丸のみにしようと迫って来る――


***


 目が覚めたとき、一瞬自分がどこにいるかわからなかった。

 見慣れたワンルームマンションの白い石膏ボードではなく、板張りの天井。昔ながらのヒモを引っ張るタイプの電灯。

 少し遅れて、やっと意識が覚醒してくる。ここは実家で、俺は会社を退職して、神主になるために地元へ戻ってきたのだ。


「しかし、嫌な夢を見たな……」

 目の前に迫って来るお白様の赤い目が、嫌にリアルだった。目が覚めてもその映像が生々しく思い出される。

 肌寒い春先だというのに、背中にはじっとりと汗をかいていた。


 俺は冷たい水で顔を洗うと、出かける準備をする。ちなみに、昨日の袴ではなくて、動きやすい紺色の作務衣だ。自慢じゃないが、俺は和風の塩顔タイプだから、こういう恰好がよく似合う。

 外へ出て、朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込むと、やっと悪夢の名残も消えていった。


「よし、まずは朝のお勤めをするか」

 俺は一礼して一の鳥居をくぐると、長い階段をのぼり、神社へと向かう。

 完全にインドア派で体力のない俺は、相変わらず半ばで息を切らせて立ち止まった。

「毎日のぼっていたら、嫌でも足腰が強くなりそうだな……」

 階段の途中には楠の巨木があって、ここにも何かがいるような重い存在感を感じるのに、姿は見えなかった。


 そこに、後ろの方から、タッタッタッと軽快な足音が聞こえてきた。

 振り返ると、青色のジャージを着た少年が真剣な顔で階段を駆け上がってくる。俺が脇へどくと、少年はぺこりと会釈して、立ち止まることなく走り抜けていった。

「すげえな……」

 俺が階段ダッシュなんてしたら、肺が破裂するに違いない。いやその前に、ふくらはぎがつるかもしれない。

 朝練か何かをしている高校生のようだったが、それにしては思いつめた顔をしていたのが気になった。


 息を切らせて階段をのぼりきると、まずは手水舎をのぞく。今日はたわしを持ってきたので、水盆を軽く掃除してから、昨日の帰りに閉めた水の元栓を開いた。うちは水道水ではなく山の湧水を使っているので、流しっぱなしにしても水道代がかかるわけではないが、もったいない気がしたのだ。

 とはいえ、毎日水を開け閉めするのは、ちょっと面倒だ。親父はどうしていたんだろうか。いっそ人感知センサーでもとりつけて、人が来たら水が出るようにしようか。


『おはよう』

 緑のベレー帽をかぶった小さい人が、どこからともなく現れた。

 昨日と同じように、蛇の口からちょろちょろと流れ出る水を手ですくって、ごくごくとおいしそうに飲む。俺は柄杓で水をすくって、水盆の縁に生えた苔にかけてやった。

 今日は、白蛇の姿はない。


「その水って飲める?」

 背後から声をかけられて、俺は驚いて振り返った。

 青色のジャージを着た少年が、額に汗を浮かべて立っている。先ほど階段ダッシュをしていた少年だ。


「きれいな湧き水だから、飲めなくはないが……」

 手水舎の水は、清めるためのもので飲用ではない。だがまあ、俺はうるさいことを言うのが嫌いのなので、どうぞと水盆の前をゆずった。

 苔が興味津々といった顔で少年を見ているが、どうやら少年は苔の精に気づいていないらしい。彼はたぶん見えないタイプなのだ。少年は柄杓を手に取って澄んだ水をすくい、ごくごくと一息に飲むと、ふうっと吐息をつく。

 苔といい、少年といい、たかが水をおいしそうに飲むよな……。


 青ジャージの少年は水を飲み終わると、改めて気になったように、俺の格好をまじまじと眺めた。

「お兄さん、この神社の人?」

「ああ、そうだよ」

「前はおじさんが、毎朝掃除をしてたよ。最近見ないけれど」

「それは俺の親父だ」

 そう答えると、少年は目を丸くした。

「お坊さんって、結婚したらダメなんじゃないの?」

「えっと、なんか色々と誤解があるな……」

 まず坊さんではない。神主だ。そして、神主も仏教の僧侶も、現代は妻帯できる宗派が多い。

 俺はいろんな説明をはしょって、とりあえず少年が一番知りたいだろう答えを言った。

「結婚はできるよ」

「じゃあ、お兄さんも結婚してる?」

「いや、俺は独身だ」

「ふーん。彼女はいるの?」

「ざ、残念ながらいない」

「なーんだ」

 あからさまにがっかりしたような少年の反応に、俺はひそかにダメージを受ける。

最後にまともな恋愛をしたのは、いつだったろうか。ここ数年、仕事がブラックすぎて、そんな余裕もなかった。

 

 俺は少年の質問攻めから逃げようと、そそくさとその場を離れ、拝殿の床下にしまってあった箒と熊手を引っ張り出して、境内の掃除にとりかかった。まずは本殿の周りから始めて、拝殿の前から鳥居までの参道の落葉を掃いていく。小さな神社でお社もこぢんまりとしているから、それほど時間はかからなかった。

 少年は境内の隅でストレッチをしながら、ちらちらと俺の様子を見ていた。


 お社の周囲の掃除を終えると、俺は階段に目を向ける。

「この長い階段を掃くのが、大変なんだよな……」

 階段のてっぺんに立って、森の中へ消えていく長い段々を見下ろし、しばし躊躇していると、少年が俺の隣にやってきた。

「階段も全部掃くの?」

「おう、そうだ」

 俺が肯定すると、少年が意外なことを言い出した。

「僕も手伝う」

 そして止める間もなく、小走りに箒をもう一本取ってくると、俺と並んで階段を掃き始めた。

「手伝ってくれるのはありがたいが……学校に行かなくていいのか?」

 サボる気だろうか。いや、それも青春か、などと思いながらたずねると、少年はしれっと答えた。

「春休み中だよ」

 そうか、世間の学生には春休みというものがあるのか……。うらやましい。

「君は高校生か?」

「そうだよ。二年生」

「朝から走って、部活でもしてるのか?」

 俺がそうたずねると、少年は「部活ではないけど」と気まずそうに目をそらした。

 おや、なんだろう。訳アリかな?

「あのさ、お兄さんは彼女いたことある?」

 俺の質問には答えず、逆にたずねてくる。

「あるさ」

 俺は胸を張って答える。さすがの俺にも、そんな時代だってあったさ。

 少年はしばらく黙って箒を動かしていたが、やがて思い切ったようにたずねた。

「じゃあさ……好きな人には、どうやって告白したの?」

 なるほど、この少年は恋に悩んでいるわけか。青春だな~と、俺はしみじみしてしまった。

「どうって、普通に『好きだ』って伝えたよ」

「怖くなかったの?」

「そりゃあ、振られるかもってのは、怖かったけどな。でも、好きだって思うなら、伝えないともったいないだろ?」

「もったいない?」

 少年はぴんと来なかったようで、首を傾げて聞き返してくる。

「挑戦すれば可能性はゼロじゃないけど、何もしなかったら、何も起こらないからな」

 偉そうに聞こえるかもしれないが、俺は本当にそう思う。

 人生、やったもの勝ちだ。

「そっか」

 少年はしばらくうつむいて、階段を一段一段掃いていたが、やがて俺の方を振り向いた。

「お兄さん、すごいね」

 少年が尊敬のまなざしで見てくるので、俺は照れてしまった。

「いや、すごくはない。何かの本の受け売りだ」


 そんな話をしているうちに、いつの間にか一番下までたどり着いていた。長い階段掃除も、ふたりでやると、あっという間だった。

「手伝ってくれて、ありがとうな」

 少年の箒を受け取りながら礼を言うと、少年がぺこりと頭を下げた。

「俺、挑戦しようと思います」

 勇気が出ました、と言って笑った顔が初々しくて、俺は目を細めた。


 タッタッタッと小走りで駆けていく少年の背中を、俺はその姿が見えなくなるまで見送った。

 そういえば、なんで階段ダッシュしてたかは、聞けなかったな。

 まあ、また今度会ったときに聞こうか。俺は箒を手にぐんと伸びをすると、再び鳥居をくぐって、お社の方へ戻っていった。

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