第46話 秘めた匂い
『やっぱり、におう』
お犬様が金の目を光らせて、希を見上げた。
俺は戸惑って、お犬様と希の顔を交互に見る。
希は自分の物思いの中に沈んでいて、俺たちの様子には気づいていない。
……匂うって、なんの匂いだろうか。
わからないが、嫌な予感がした。お犬様は、俺では気づけない、何かの気配を察知しているのかもしれない。何しろオオカミだ。嗅覚は人間の何千倍くらい鋭いに違いない。
お犬様に直接聞きたいが、希がいる手前、そうすることもできず、もどかしい思いをした。俺は静かに呼吸をすると、目を閉じ神経を集中させて、匂いを感じ取ろうとする。
感じるのは、湿った森と土の匂い。
檜の葉のさわやかな匂い。
どこかに咲く、クチナシの甘い匂い。
どれもよく知った、森に囲まれた神社の匂いばかりだ。
俺はさらに深く感覚を研ぎ澄ませる。
そのとき、かすかに異質な匂いを感じた。
「……焦げ臭い?」
少し甘いような、焦げたような、普段この神社で嗅ぐことのない匂いがする気がした。目を開いてお犬様の顔を見ると、お犬様はすん、と鼻を鳴らした。
『うむ』
これは何の匂いだろうか。俺がお犬様に目で尋ねると、お犬様は希の顔を見上げて言った。
『このおなご、病んでいるのであろう』
「え!?」
予想もしていないかった言葉に、俺は思わず大きな声をあげてしまった。
「ど、どうしたの?」
ぼうっとしていた希が、戸惑って聞いてくる。
病んでいる、というお犬様の言葉を意識してから希の顔を見ると、確かに少し顔色が悪いような気がしなくもない。
そういえば総代さんが、希は他県で働いていたのに、急に地元に帰ってきたって言ってたよな。個人的な事情に首を突っ込むのもよくないかと思って、深く尋ねたことはなかったが、もしかして病気が原因だったとか!?
俺はしばらくためらってから、思い切って希に尋ねた。
「……あのさ。希、どこか調子が悪かったりする?」
「え? 急にどうしたの?」
希が驚いたように聞き返した。
「あ、いや、ちょっと、そんな気がして……」
俺はしどろもどろになった。変な匂いがしたなんて、ちょっと言いにくい。
希はしばらく俺の顔を見ていたが、ふっと口元をゆるめて笑った。
「さすが翔太くん、鋭いね」
「え!? マジで病気?」
俺は驚きすぎて、腰を浮かせる。希はぽかんとした顔をしてから、今度はお腹を抱えて笑い出した。
「そういう意味では、普通に元気よ。昔から、風邪は引かない方だったし」
「あ、そりゃよかった……」
どうやら俺の早とちりだったらしい。
「ちょっと最近、いろいろ考えることがあって。悩みというか……。これからどうしようかな、と思ったり」
希はまたうつむいて、服の袖をいじりながらぽつぽつと話した。
「私が実家に戻ってきた理由って、言ったっけ?」
「いや、聞いてない」
「職場でね、うまくいかなかったの」
小さく笑って、希はそう言った。
「ある日、朝急に起きれなくなって。仕事に行けなくなったの。病院に行ったら、ストレスだろうって」
「そうなのか……」
「休職を勧められたから、休みをとって帰ってきたんだけど。色々考えて、その仕事は辞めることにしたの」
「そうか……」
希の言うことは、俺もよくわかる気がした。
俺だって神主になる前は、ブラック企業で働いていた。残業のない日はなかったし、案件が炎上すれば徹夜もザラ。クライアントから理不尽なクレームをつけられても耐えて謝り。俺が働いてた六年間に、心を病んで休んだ人、辞めた人も、何人かいた。
「そのときは辛かったけど。実家に帰ってきたら、この自然の多い田舎の空気がよかったのかな。仕事辞めたらすっきりして、今ではぴんぴんしてるわ」
「それはよかった。実は俺も、仕事辞めて神主になってから、調子はすこぶる良いな」
「私も、収入は減ったけど、カフェのバイトも、案外楽しいのよ」
俺と希は顔を見あって、くすりと笑った。
「でも、昨日は翔太くんとリュウさんが一緒に現れて、びっくりしたな」
「たまたま、流れでそうなったんだよ。俺は、希とリュウさんが知り合いなことに、びっくりしたけどな」
俺がそう返すと、希は急に目をそらした。
なんだか、顔が少し赤い気がする。
おや? もしかしなくて、リュウさんと何かあるのか?
すると、その瞬間。
『におう!!』
お犬様がその場でクルクルと回って叫んだ。
呆気にとられる俺。
おいおい。におうって、そういう話かよ。
病んでいるのは、恋の病? 焦げ臭いのは、恋焦がれる甘ったるい匂い??
俺はがっくりと力が抜けてしまった。
すっかり勘違いしたじゃないか。俺がじとっとした目でお犬様を見ると、お犬様はしれっとした顔で、後足で耳をかいている。
『体の病だとは言ってないもん』
お犬様はあくびをしながらそう言った。
俺は腹いせに、お犬様の全身をモフモフしてやった。
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