第63話 大いなる根
「……誰かいる」
俺は神経を研ぎ澄ませて、周囲を見回した。
他の三人も、俺の様子に気づいたのか、不安げな顔で足を止めて、周囲に目をやっている。
姿は見えないが、確かに誰かがいる。
人ならざる者だ、と直感した。
いるのはわかるのに、どれだけ辺りを探っても何も見えない。
俺は用心して、そろそろと足を進めた。
道は峠を越えて下りに入った。注意をしていないと足を滑らせそうなくらいの急斜面で、俺たちは木や岩に手をかけながら、ゆっくりと下った。
道の脇は深い谷になっていて、進むにつれて、水の音は大きくなっていった。
「きゃっ!」
そのとき、俺の後ろ歩いていた結衣ちゃんの悲鳴が聞こえた。
ばきっと細い木の折れる音がして、振り返ると、結衣ちゃんが足を滑らせて、道の下の急斜面を滑り落ちかけていた。
「結衣ちゃん!」
あわてて手を伸ばすが届かない。結衣ちゃんはそのまま、勢いよく斜面を滑り落ちていく。
やばい、結衣ちゃんが……!!
俺たちは真っ青になって、なすすべもなく立ち尽くしていたが、結衣ちゃんは二メートルほど落ちたところで止まった。
俺は、ほうっと大きな吐息をついた。
どうやら、地面から張り出した大きな木の根に引っかかっている。
そして、そのかたわらには大柄な男が立っていて、結衣ちゃんの腕をつかんでいた。
「あれは……」
骨ばった顔にいかつい体つき。渋い苔色の着物を身にまとい、髪は半白だ。
殿様然としたその男は、無言で結衣ちゃんの腕を支えている。
結衣ちゃんは呆然とした顔で、落ちるのをとどめてくれた木の根から先に目をやって、頭上を振り仰いでいる。
「大きな木……」
俺もあわてて結衣ちゃんの視線の先を追うと、そこには見たこともないような巨木が堂々と生えていた。
何人もの大人でやっと抱えられそうなそうな、太くごつごつとした幹に、大きく広がった梢。辺りには、ほのかに爽やかな香りが漂っている気がする。
「立派なクスノキだの。大楠じゃ」
ムラ爺も感嘆したようにつぶやいた。
険しい足元に気をとられ、地面ばかり見ていた俺たちは、その存在に今の今まで気づいていなかった。
『はやくこのおなごを引き上げんか』
渋い声がして、俺ははっと視線を戻した。
結衣ちゃんを今も支えている男は、淡々とした表情で俺を見てくる。
男の方が斜面の下に立っているのに、目線は俺とほとんど変わらない。そのくらい、男の背が高いということだ。
俺はごくりと唾を飲み込むと、側の細い木をつかんで、結衣ちゃんのほうへ手を伸ばした。
「結衣ちゃん、つかまって。上がってこられる?」
リュウさんも同じように手を伸ばし、ふたりがかりでなんとか結衣ちゃんを道まで引き上げた。
「大丈夫? ケガとかしてない?」
「うん。ちょっとヒリヒリするけど、平気」
見ると、少し肘や足などをすりむいてしまっているようだった。
「水音がするし、近くに川があるんだと思う。とりあえず、傷を洗おうか」
「まずは俺が、見てくるっす。ちょいと待っててください」
リュウさんはさすがの空師、軽い足取りで、険しい道を先に進んで川を探しにいった。
「ねえ、神主さん。あそこに誰かいる?」
結衣ちゃんが、そこにたたずむ大男の辺りに視線をやりながら、ひそひそと俺に話しかけた。
「ああ。大楠だと思う。結衣ちゃんを助けてくれたんだよ」
「そうなのね」
結衣ちゃんが、見えない相手に向かって「ありがとうございます」とつぶやくと、大楠の男は何も言わず踵を返し、巨大なクスノキの方へ歩いていった。
「おーい! ここに川があるっすよー!」
ほどなくして、リュウさんが遠くから大声で呼んだ。ちょうど、大楠の根もとの辺りに立っている。
「結衣ちゃん、歩ける?」
「うん。大丈夫」
俺とムラ爺で結衣ちゃんを間に挟むような隊列で、ゆっくりと道を進み、リュウさんが手を振っている方へ近づいていった。
クスノキの幹を回ると、急に視界が開けた。
巨大なクスノキは、斜面の途中の、少し平らになったところに生えていた。
そして、その先には道がなかった。
道は急に崖のようになって、はるか下まで落ち込んでいる。
クスノキから少し離れたところに、細い川が流れていて、途中から滝となり、切り立った崖を流れ落ちていた。
そして、下の谷にはより大きな川が流れていて、その向こうには、隣の山斜面が広がっていたのだが。
その隣山の下腹の方まで目をやったときに、俺は目を見開いた。
「……ソーラーパネルだ」
遠く見下ろした隣の山斜面の下側のほう一帯は、完全に切り拓かれて、木一本ない広大な敷地には、黒っぽい四角のソーラーパネルが、見渡すかぎり整然と並んでいた。
どうやら、俺たちはいつの間にか、隣町との境界辺りまで来ていたようだった。
先日俺が車で見に行った、町境になっている川の辺り、ただしそのもっと上側に、俺たちは立っているらしかった。
折しも、空からゴロゴロと、低い音が聞こえた。
ずっと森の中にいたので気づかなかったが、空はいつの間にか黒い雲に覆われて、今にも雨が降りそうだった。
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