第64話 大楠と雨
ゴロゴロと、地の底から響くような雷がまた鳴った。
「やばいな、雨が降るのか?」
重たい雲に覆われた空を見上げて、俺は眉を寄せた。
「そうだ、とにかく結衣ちゃんの怪我を見ないと」
山道で転んだせいで、結衣ちゃんの服は汚れ、ところどころすり傷もできていた。
それをきれいな小川の水で洗って、タオルでぬぐう。
それほどひどい怪我はしていないようだった。
「大丈夫そう?」
「うん」
結衣ちゃんはこくんとうなずいた。
その間に、リュウさんとムラ爺は、大楠の周りを探索していた。
「ふむ。ここには水があるんだの」
「開発地の上側だからすかね?」
巨大なクスノキのかたわらには、苔色の着物をまとったガタイのいい男が、仁王立ちになって俺たちの様子を見ている。
リュウさんはそいつが気になるようで、チラチラと視線をやっていた。
「リュウさん、見えてるんですか?」
「うっすらと……」
さすがだな。いつも木や植物に触れて働いている空師だからだろうか。
うちの家族以外でここまで見える人に会ったのは初めてだ。
「さて、ちゃんとご挨拶しないとな……」
結衣ちゃんの手当てが終わると、俺はリュックからとっておきの小道具をとりだす。
定番の日本酒ワンカップとおにぎり!
こんなこともあろうかと思って、八百万のものたちへのお供えを、余分に持ってきていたのだ。
俺は大楠の根元のくぼみに、そっと酒とおにぎりを置いて、恭しく作法にのっとって礼をした。
こうした作法を見慣れている巫女見習いの結衣ちゃんはともかく、リュウさんやムラ爺が、俺に注目しているのを感じる。
俺は息を吸い込むと、目の前の大楠に意識を注いだ。
「掛けまくも畏き大楠の大前に 恐み恐みも曰さく。
大神の高き尊き大神威を崇め尊び奉りて——」
大楠に宿るものは、そこらの小さきものとは格が違うことを感じていた俺は、お社に参拝するときと同じに、祝詞を奏上した。
そしてその後、俺は大楠を見上げてこうお願いした。
「しばらくここに滞在することをお許しください。そして、少々、お伺いしたいことがあるのですが」
『……お主のことは、山の神から聞いている』
大楠が口を開いて、低い声で言った。
ざわざわと、クスノキの梢が大きく風に揺れて葉ずれの音を立てる。
風が強まっているようだ。大楠の身にまとう苔色の着物のすそが、風にあおられてばたばたと舞った。
『われらの声を聞き、姿を見るものだとな』
「……恐れながら」
俺は謹んで一礼する。
『この山の下僕であると』
「……えっと」
お犬様め。そんな不名誉なことを吹聴して回っているのか。
いや、決して間違いではないが……。
『して、聞きたいことがあるとな』
「ええ。水のことです」
大楠は無言で続きをうながした。
「あなたの根は、この山の誰よりも深く広く、地中に伸び広がっているとお見受けしました」
大楠は否定も肯定もせず、俺の言葉を聞いている。俺よりも頭ひとつ分以上背の高い大男が、腕組みをして黙っていると、威圧感が半端ない。
俺はその圧倒的な存在感に気圧されつつも、言葉を続けた。
「白水神社では、水がなくなりました。水脈は枯れてしまったのでしょうか」
『……水は地の上と下を流れておる。その動きは複雑だ。山が変われば水の流れも変わる』
「それでは、枯れてはいない、ということでしょうか」
『水脈は丈長き龍だ』
大楠はそう言った。
なんとも深遠で、疑問に直接答えるわけではない返答が、いかにも八百万のもののお言葉だ。俺はその真意を図ろうと、しばらく黙って考え込んだ。
「なんの話をしてるんすか?」
リュウさんが側に寄ってきて、俺にたずねた。
「水のことだよ」
「そんな話もできるんすか?」
「まあね」
「で、なんて言ってるんすか?」
「よくわからないんだけど、水は枯れてはいなさそうだ」
「そりゃあ、ここに川があるっすよ」
リュウさんがもっともなことを言う。
正直、全然わからない。
だけど、地の底の水の流れを測るなんて、人間には難しいことだ。
最先端の計測機器でも使えばわかるのかもしれないが、少なくとも俺には、想像することしかできない。
そして、俺はひとつ感じたことがある。
想像するからこそ、そこに神が宿るのかもしれない、と。
見えない水脈が龍である……俺は、山の根に横たわる巨大な龍の姿を思い浮かべた。
「そうか、もしかして、お白様は——」
「神主さん、雨が降ってきますぞ」
ムラ爺が心配げに声をかけてきた。
「降れば、帰り道が危なくなりますな」
俺はいつの間にか深くもの思いに沈んでいたが、ムラ爺の言葉にはっと我に返った。
「どうしましょう、大急ぎで帰るべきか」
だが、俺は何かをつかみかけている気がして、今この場を離れることをためらった。
そう話している間にも、パラパラと、頭上から音が降ってきた。
雨粒が木の葉に打ちつける音だ、と気づくまでに一瞬かかった。
「降ってきたっす!」
「とにかく、雨宿りをするところを探そう!」
『人の子よ。私の根に休むがよい』
大楠がついてくるように、身振りで促した。
巨大なクスノキの幹を回ると、裏側には岩と木の根の間に大きな窪みがあって、大人でも隠れられそうだった。
俺たちは強まる雨足に追われるように、大急ぎでその中に避難した。
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