第48話 澱み
お白様がすっと首を伸ばして、希の額に顔を近づけた。
白蛇のなめらかな体が淡い光を帯びて、瞳孔の細い赤い目が妖しく光る。
希は何も気づいていないようで、黙っている俺の顔を、不安げに見ている。
『ふむ』
お白様はすっと体を引くと、元通り俺の肩の上でとぐろを巻いた。
俺はお白様のお言葉を待った。
『憑いてはおらんな』
お白様は静かにそう告げた。俺はほっとして、止めていた息を吐きだした。お白様が言葉を続けた。
『だが、澱みがある』
「澱み?」
俺は口の中で小さくつぶやいた。
『澱みは、溜まると悪い虫に変わることもある』
「なるほど……」
お白様の言う澱みとは、胸の奥でぐるぐると渦巻く「思い」や「感情」のことだと思う。
出口を失った思いや苦しさ、悩み、押し殺した感情。
自分でも気づいていない、ドロドロしたもの。
我慢しがちな人は、そうした『澱み』を溜めやすく、それが体の不調にもつながることがある。病は気から、とはよく言ったものだ。
希は前の職場で、朝起きれなくなって仕事に行けなくなった、と言っていたが、そこともつながるのかもしれないな。
お犬様はふざけていたが、もしかしたら「におう」というその中には、澱みのにおいも含まれていたのかもしれない、と今さら気づいた。
霊は人の浄化されない「思い」の化身だとも言うし。
俺は少し考えてから、希に言った。
「憑かれてはいないと思うけど、疲れているのかもな」
希が目をぱちぱちとさせた。
あれ、反応が悪い。
「あ」
少し遅れて、俺は変なゴロを踏んでしまったことに気づく。
ああ、オヤジギャグみたいではないか!
「どういうこと? 憑かれてないけど憑かれてる??」
希が困惑顔で聞き返してくる。俺は大急ぎで追加説明した。
「霊には憑りつかれてないと思うけど、疲労がたまってるんじゃないかってこと!」
「あ、そういうことね」
「希、考えすぎる癖があるんじゃないか? それが、ある意味で悪い虫に憑りつかれているような状態なのかもな」
「そうね。真面目過ぎるって、言われたことはあるわ」
リュウさんがどんな意図で「憑かれている」と言ったのかはわからないが……。たぶん、『澱み』を霊だと思ったのかもしれないな。
あながち、間違いではないし。
また今度会ったときに、確認してみるか。
「ひとり悩んでいると、『悪い気』が溜まるから。誰かに話したり、気分転換するといいんじゃないか。俺でよかったら、話くらい聞くし」
「そうね、ありがとう」
「あ、そうだ」
俺は思いついたことがあって、ぴっと指を立てた。
「よかったら、末社にもお参りしていきな。お祀りしている『大口真神』は山の神の化身で、魔除けや厄払いの力があると言われているから」
末社とは、この間新設した、お犬様のお社だ。お犬様の仮の姿は無邪気な子犬だが、本当は白水山を司る偉い神様で、ありがたいご利益があるのだ。
「わかった。お参りさせてもらうわ」
希が本殿の脇に設置された小さなお社の方へ足を向けると、お犬様が猛ダッシュで走ってきて、しゅたっと末社の台の上に飛び乗り、きちんと前足をそろえて座った。
「あら、かわいい」
希はそれが山の神その人だとは気づかぬまま、手を合わせてお参りする。
お犬様の目が不思議な色を帯び、木漏れ日のような光が差して、希の身体を包んだようだった。
おお、山の神のご加護が与えられた。これで、希に憑いた悪い気が払われるといいな。
「翔太くん、ありがとうね」
「いや、何もしてないし」
「ちょっとだけ、気持ちが軽くなった気がする」
「それはよかった」
きっと、お犬様のご利益だよ。
用事の終わった俺たちは、並んで神社の階段をくだった。
道の脇に咲く紫陽花と、小さなものたちが、俺たちを見送ってくれる。
「夏祭りのときには、この階段沿いにもずっと明かりが灯って、きれいだったよね」
懐かしいな、と希が昔を思い出しているのか、目を細めている。
「そうだな。今年もそうする予定だよ」
俺自身も夏祭りは久しぶりで、ちゃんと準備ができるのか、不安しかない。
遊ぶ側なら気楽だが、主催者側になると、大変なものだなと身に染みて感じる。
いっそ、親父にも沖縄から戻ってきてもらって、手伝ってもらおうかな……。
「それじゃ、気をつけて帰ってな」
麓に着くと、一の鳥居のところで、俺は希に別れの挨拶を言った。
「リュウさんにもよろしく」
「え? あ、うん」
また少し顔を赤らめて、うなずく希。
やっぱりそうなのか……。
複雑な気持ちで、俺は幼馴染を見送った。
『すーすー』
赤髪の子どもが、俺の服のすそをちょいちょいと引いて、言葉をかけてくる。
異国からきたイチジクを植木鉢に植えかえた子だ。先日、まさに話題のリュウさんが、空師の仕事で大杉から降ろしてくれた。
何を言っているかはわからないが、たぶん元気づけてくれてるらしい。
「さんきゅ」
まあ、昔のことは昔のこと。
今は今。
俺はぐっと伸びをすると、家へ戻って自分の副業であるシステムの仕事にとりかかることにした。
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