第50話 水の異変

 一の鳥居をくぐって森の中の階段に足をかけると、ひんやりとした空気が肌に触れて、俺はほっと息をついた。

 暑い真夏に近づくにつれ、ちょっと動くだけでも汗ばんで、いよいよ、袴や着物が辛い季節だ。森の中にある神社は、いつでもひんやり涼やかな空気が流れていて、それだけが救い。

 階段を登りながら、俺は頻繁に手を振り回して、まとわりつく虫たちを追い払った。

「境内での殺生は、はばかられるしな……」

 自然豊かなのはよいのだが、蚊が多いのは難点だな。

 虫よけスプレーが必須だ。


 お社に着くと、俺はまず、手水舎の掃除から取りかかる。

 この週末は、神楽の稽古と仕事の手伝いで隣町の熊野神社に出ずっぱりだったから、今日は念入りにご奉仕しないとな。


「あれ? 水が出ない?」

 節水のために人感センサーを設置して、手を出すと水が出るようにしているのだが、手水舎の蛇の口の前で手を動かしても、なかなか水が出てこなかった。

「センサーが壊れたのかな?」

 

 柄杓を立てかける竹の棒の上には、緑色の帽子をかぶった小さい人が腰かけて、足をぶらぶらさせている。

『水が少ないよ』

「まじで? 早くも水不足?」

 最近、梅雨が明けたばかりだというのに……。テレビでも、そんなニュースはやっていなかった気がする。

『のどが渇いたよ』

「ちょ、ちょっと待ってな」

 手水舎の後ろに回って、水の元栓をチェックしたり、センサーのスイッチを確かめたり。色々いじっていると、石の蛇が喉奥をごぼごぼっと言わせて、水がちょろちょろと流れ出した。

「確かに、水が少ないな……」

 いつもはもうちょっと勢いよく、蛇が水を吐き出すのに、今日は頼りない細い筋で流れ出るばかり。

 苔が手のひらに水をためて、口に含んでいるのを見ながら、俺は首をひねった。

 どうしたんだろうか。後で水道局に電話してみるか。


 手水舎の掃除を終えて、境内を掃き清めていると、お社の裏からは「ちいちい」と賑やかな鳥の鳴き声が聞こえてきた。

 拝殿に巣をかけたツバメのヒナが、最近大きくなってきて、四羽がぎゅうぎゅう押し合って、巣から落ちそうになっているのだ。

 親ツバメが食べ物を持ってくると、大騒ぎで取りあいをする姿は、なんとも微笑ましい。

「あれ、お白様?」

 よく見ると、ツバメの巣の下に白蛇がいて、赤い目をらんらんと光らせている。

 その頭には、鳥の糞がのっかている。どうやら、ツバメのヒナたちに糞を落とされたようだ。額に生えた小さな角に糞がへばりついていて、なんとも滑稽な姿だ。

『ひと飲みにしてくれようぞ……』

 するすると、お社の柱を登りだす白蛇。

「ちょっとお白様! 神様ともあろうお方が、その辺の蛇みたいなことしないでください!」

 俺はあわてて熊手を放り出してお白様のところへいくと、懐から手拭いをとりだして、丁寧にその頭をぬぐって差し上げた。お白様はぶつぶつ言いながらも、抵抗はしない。

「あれ、お白様、熱がある?」

 いつもは水のようにひんやりしたお白様の身体が、なんだか火照っているような気がして、俺はぺたぺたと、白い鱗で覆われた蛇に触れた。

『暑すぎるのだ』

 ぶつくさと文句を言うその語調にも、あまり力がない。

「もしかして、熱中症!?」

 いや、蛇が熱中症とか聞いたことないけど。

 でもとにかく、お白様の具合があまりよくないのは確からしい。俺はおたおたして対応を考えた。

「そうだ、よろしければ、水盆で水浴びなさってください」

 水は少ないがなんとか溜まっていたので、俺は急いでお白様を腕にのせて、手水舎までお連れした。水盆の縁に降ろすと、白蛇はゆっくりと水に頭をつけて、もぐっていく。その体が鈍く光っているようだった。

『ふう、生き返る』

「それはよかったです」

 お白様が気持ちよさそうにしているので、俺はほっとして、掃除を再開した。

 

 熊手で枯れ葉や枝を集めながら、頭の中では、早くも二週間後に迫った夏祭りの準備を考えていた。

 社務所がないので、藤棚に即席で幕を張って、お守りやお札の授与所にして。前の日までには、参道沿いに灯りを置かなければ……。

 その設営や夜店のことは、総代さんを筆頭に氏子さんや町内会の人たちが主導してやってくれるから、なんとかなるだろう。

 祭儀のことは、熊野神社の宮司さんや結衣ちゃんが助けてくれるし。

 お守りを授与する役目は、希やリュウさんが手伝ってくれると言っている。

「ひとりじゃ絶対、どうにもならなかったよな……」

 町の人たちが一緒にお祭りをつくってくれるというのは、ありがたい話だった。

 

「……お白様は大丈夫なのかな」

 俺は手水舎の方へ視線をやった。

 水の神を祀るお祭りを前にして、お白様がなんだかぐったりしているということだけが、少しばかり気がかりだった。


 

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